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今市事件 裁判所の腹の底にあるものは?

宇都宮地裁の奇妙な判決文に疑問をもった記者が追う「一審有罪」の問題点

梶山天 朝日新聞日光支局長

宇都宮地裁で判決を聞く勝又拓哉被告=2016年4月8日、絵と構成・小柳景義 宇都宮地裁で判決を聞く勝又拓哉被告=2016年4月8日、絵と構成・小柳景義

 2005年12月に栃木県今市市(現日光市)の小学1年の女児(当時7歳)を殺害したとして、勝又拓哉被告(36)を有罪とした一審の宇都宮地裁判決(2016年4月8日)から2年余。裁判員裁判だった一審の際には隠されていたDNA型鑑定書が証拠採用されるなど、新たな証拠の出現に社会の関心が高まった今市事件の控訴審判決が8月3日、東京高裁(藤井敏明裁判長)である。

 振り返れば、控訴審の経緯は奇妙だった。東京高裁が意表を突く事実上の訴因変更の勧告をして、検察は渋りながらも応じ、裁判所もそれを認めたのである。まさに、法廷の霧が晴れようとした途端、再び霧がかかり始めたかのような展開だが、裁判所の腹の底には、いったい何があるのか?「今市事件 法廷にたちこめる『霧』の正体」「今市事件 異常事態を物語る様々な風景」を踏まえつつ、考えてみたい。

予想が的中した訴因変更のXデー

 裁判所が検察に対し、殺害場所と日時が立証されていないという指摘を始めたのは、控訴審前半の途中だった。一審では、勝又被告が殺害の犯人か否かが審理の焦点になり、いつ、どこで殺人が行われたか審理が尽くされていないとの判断からだ。

 一審では、2005年12月2日午前4時ごろ、茨城県常陸大宮の林道で、女児の胸をナイフで多数回刺し、失血死させたとする起訴内容どおりに勝又被告の犯行と認定し、無期懲役の実刑を言い渡している。検察側は当然、控訴審でも殺害場所と時間はすでに判決で認められたものとして、いわゆる「現場殺人」を貫く姿勢で控訴審に臨んでいた。それだけに、裁判所からたびたび打診をされても返事しようとしなかった胸中は、察することができる。

 だが、控訴審第4回公判のあった昨年12月21日の閉廷直後、藤井裁判長が「(殺害場所、日時について)立証することは他にないのですね」と念を押すと、検察側はあわてて「検討します」と答えた。

 私は「今市事件 異常事態を物語る様々な風景」で触れた本田克也筑波大学教授の解剖所見で、犯行場所、日時についてはすでに検察が描いたシナリオが崩れていると感じていたため、この検察の返事が起訴内容である訴因を何らかの形で変更するに違いないと確信。次回法廷直近の三者会議が「訴因変更のXデー」と読み、その日の夕方が勝負だと踏んだ。

 この予想はずばり的中。検察側が訴因変更をこの日に請求したことを、他の報道機関に先駆けて1日早く報道した。この訴因変更こそが、判決を左右すると判断したからだ。

予備的な訴因を追加した検察

 訴因変更には二つの方法がある。最初の訴因自体をなくしてしまう交換的変更と、最初の訴因は維持しつつ、「もしそれがダメだったら、こっちで」という予備的変更だ。今回の検察側が請求した変更は後者で、予備的な訴因を追加するものだった。

 具体的には、殺害場所を茨城県常陸大宮市の林道から「栃木県内、茨城県又はそれらの周辺において」に。殺害の日時も「05年12月2日午前4時ごろ」を「12月1日午後2時38分から同月2日午前4時ごろまでの間に」に。殺害の日時、場所を大幅に拡大にしたかたちだ。

 この変更は、結果的に一審の宇都宮地裁が無視した、本田教授による女児の遺体の解剖所見を認めることになり、検察が法定で証言させた法医学者らの意見もまた否定された。弁護団は、検察の訴因変更請求について「殺害日時と殺害場所が自白と一致せず、自白調書には信用性がない」と批判したうえで、「変更すれば犯行の日時・場所が著しく広がるために反証が不可能になる」などと記した意見書を提出した。

 裁判所は今年3月29日の第7回公判で検察の訴因変更を許可し、「原審(一審)の公判前整理手続きでは犯人性のみが扱われ、犯行日時・場所についての議論の必要性が看過されていた」と指摘。反証不可能とした弁護側の主張に対しては、「事実関係に大きな変更はなく、新たに立証必要なものではない」とした。

今市事件の女児の遺体が見つかった現場付近。画面上が栃木方面=茨城県常陸大宮市今市事件の女児の遺体が見つかった現場付近。画面上が栃木方面=茨城県常陸大宮市

訴因変更後、明暗を分けた二つの事例

 東京高裁の訴因変更許可をどう受け止めるか、いろいろと解釈はできるが、一審で有罪に認定したこの殺害日時・場所について、疑いの目で見ていることは間違いない。もちろん、その日時・場所を排除したからといって無罪になるかどうかは、フタを開けてみないと分からない。たとえば、殺害場所は林道ではないけれど、変更した栃木、茨城両県内のどこかで女児を殺害している可能性が高いと判断し、ストライクゾーンを広げたと見ることもできる。

 少し脱線するが、ここで予備的訴因変後の判決で明暗を分けた過去の二つの裁判を紹介しよう。

 まずは、ホットなニュースから。7月11日に滋賀県の大津地裁(今井輝幸裁判長)が、強盗殺人罪で無期懲役が確定し、服役中に75歳で病死した阪原弘元被告の再審開始を認める決定を出した「日野町事件」である。死後に再審開始決定が出るのは極めて異例だという。

 1984年12月、滋賀県日野町の酒店経営の女性(当時69歳)が行方不明になり、翌年1月に同町内の宅地造成地で遺体が発見され、その後、町内の山林で手提げ金庫が見つかった。約3年後、阪原元被告が逮捕、起訴され、95年6月に一審の大津地裁が有罪判決を言い渡した。

 起訴状によると、阪原元被告84年12月28日午後8時40分ごろ、客として行った酒店内で、経営者の女性の首を絞めて殺し、翌日に現金5万円と手提げ金庫などを奪った。阪原元被告は捜査段階で自供したとされるが、一審では「捜査員から暴行を受け自白させられた」などと一貫して無罪を主張した。

 一審の後半に当たる95年1月に、検察は起訴内容のうち、殺害場所を「酒店内」からを「日野町内」に、殺害日時も「12月28日午後8時40分ごろ」を「28日午後8時過ぎごろから翌日午前8時半ごろまでの間」などと拡大。被害品についても「現金5万円と手提げ金庫など」を「在中金額不詳の手提げ金庫など」と変更した。さらに同2月には殺害場所を「日野町とその周辺」に拡大したうえで、無期懲役を求刑した。判決は有罪だった。

 この殺害日時の予備的訴因の追加は、まさに今市事件控訴審で行われたのと同じだ。裁判は訴因変更によって有罪判決になったが、皮肉なことに時代を経て今、「自白に信用性が任意性は認められず、間接事実からも犯人とは推認できない」と再審開始が認められた。その後、検察が行った即時抗告がどう影響するかは分からないが、再審開始決定をした大津地裁が、冤罪(えんざい)の可能性があると判断していることは紛れもない事実だ。

有罪から一転無罪になったロス疑惑事件

 もう一つの例は、1980年代を象徴するロス疑惑事件。81年11月18日午前11時すぎ(現地時間)、三浦和義元被告と妻が米国ロサンゼルス市内の駐車場で銃撃され、三浦元被告が足を負傷し、妻が1年後に死亡した事件である。その後、週刊誌による保険金目当ての殺人を示唆する「疑惑の銃弾」報道で、日本列島はフィーバー状態になった。

 三浦元被告と取引業者の2人が88年10月に警視庁に逮捕された。一審の訴因は、三浦元被告が取引業者と共謀し、業者が実行犯として被告の妻を殺したとされた。94年3月、東京地裁は取引業者が共犯か証明は不十分だが、訴因変更もしないで突如、「氏名不詳の第三者」を共犯として持ち出し、この人物が銃撃したとして、三浦元被告だけに無期懲役を言い渡した。

 これに対して控訴審の東京高裁は、検察に「第三者と共謀して殺害した」と訴因を付け加えさせ、実行犯が分からないとして、証明不十分で無罪に。結局、最高裁で無罪が確定した。マスコミの有罪報道が先行したが、控訴審の3人の裁判官は「有罪にするなら証拠が必要だ」という見解を示した。

「冤罪だった足利事件と酷似している」

 元裁判官の木谷明さんは裁判官人生の中で30以上の無罪判決を出し、確定した。「証拠に厳しい裁判官」として、検察に恐れられた一人だ。

 今市事件の控訴審で東京高裁が訴因変更を促していると聞いたとき、木谷さんは大いに驚き、疑問を持ったという。いわく、「検察が勝手に訴因変更を申し出るなら分かるが、なぜ裁判所が促す必要があるのか」。ロス疑惑事件の控訴審逆転無罪の過程で行った訴因変更を思い出しながら、こんな話をしてくれた。

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