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「選挙に行こう!」では投票率は上がらない 政治を変えるストーリーこそ必要

主権者教育は、教育全体の問題である

西郷南海子 教育学者

投票率は昔から問題だった

 突然だが、次の文章を見てほしい。

有権者に対する実際の投票者の比率は今では約二分の一である。[…]投票の有効性に関する懐疑論は公然と表明されており、それは知識人の理論の中にだけではなく、下層大衆のことばの中にも現われてくる。「私が投票するかしないかということで、どういう違いが現われるのか。いずれにせよ、事態はまったく同じに動いているのだ」

 これはいつ、どこで書かれた文章か。国政選挙の投票率がほぼ50%前後というと、今の日本について書かれたようにも思えるが、実はこれは1927年にアメリカの哲学者ジョン・デューイ(1859~1952)が書いた文章である(『公衆とその諸問題』)。約100年前のアメリカでも、今の日本と同じような問題を抱えていたのである。もちろん、当時のアメリカでは黒人には選挙権が認められていないなど、単純な日米の比較はできないが、すでに「投票の有効性」が揺らいでいるのは共通している。

 投票率が低ければ、少ない人数で多数に関わる物事を決めることになり、その正当性が問われる。一方で、投票率の下限が設けられない限り、どんなに低投票率の選挙も選挙としては有効である。さらに、何らかの義務化によってなされる投票は、別の角度から正当性を疑われることになるだろう。オーストラリアなど棄権に罰金を課す国も存在するが、そのような投票は「有権者」の「権利としての投票」とは異なる要素を持っているように見える。こうしたジレンマが、選挙を中心とした間接民主主義につきまとっている。

参院選前に模擬投票をする高校生たち=2019年6月、京都府宇治市の立命館宇治高校 参院選前に模擬投票をする高校生たち=2019年6月、京都府宇治市の立命館宇治高校

「選挙に行こう」は果たして主権者教育か?

 現在の日本では、有権者に対して「選挙に行こう」と呼びかけるというアプローチが取られている。選挙管理委員会のPRだけでなく、18歳選挙権を受けて高校で導入された主権者教育でも同様である。何のために行くのかは棚上げし、一見中立に「行こう」とだけ呼びかけるのである。しかし人は「行こう」と言われて行くものだろうか。もっと内発的な動機がなければ、投票所に足を運ぶのは難しいのではないか。

 わたしにとって忘れられないエピソードがある。京大大学院の研究室で何気ない会話をしていたときのことだ。ふと後輩が「ハタチになって突然(選挙)行けって言われても、どうしていいか、わかんないっすよ」と言ったのだ(当時は20歳選挙権)。これを聞いたとき、「そういうことなのか!」という衝撃を受けた。20歳までまったく政治に触れることがなければ、20歳になって獲得した選挙権も、単に押し付けられたもののように感じるということだ。このあたりの事情は、各家庭によって大きく異なるだろうし、むしろ家庭ごとの「カルチャー」と言ってもいいのかもしれない。

 思えば、わたしにとっても家庭での出来事が主権者教育だった。わたしの父は少し変わった人だった。市役所に頼んで細いT字路にカーブミラーを設置させ、「これはお父さんが立てたカーブミラーだ」と散々自慢した。わたしが住んでいた鎌倉市は逗子マリーナの対岸に当たるが、ユーミン(松任谷由美)のコンサートが逗子マリーナで開かれると、父は市役所の職員を呼んで騒音の度合いを測定させたりした。

 「そこまでしなくても」と子ども心に思う反面、生活環境の向上のために行政に働きかけるのは当たり前という感覚が培われた。選挙の日は、いつもは閉まっている長谷公会堂が開かれ、町中の大人が集まった。当時は、まだ子どもを連れて入場できなかったので、わたしは外で待っていたが、この町にはこんなにたくさんの大人がいたのかと驚いた。こうした子どもの頃の体験が、そのまま20歳での選挙権獲得につながっていった。

 行こう、と言われるまでもなく、自分ごととして選挙には行く。このことを今度はわたしの子どもたちにも引き継ぎたいと思っている。前に住んでいたマンションは、ちょうど投票所の目の前にあったので、選挙の日はお母さんたちと駐車場でバザーをやり、店番を交代しながら投票に行ったりした。その日の売り上げは、東京電力福島第一原発から避難し保養する子どもたちのための施設に寄付した。自分たちの暮らしと政治が有機的に結びついていると感じることができた取り組みだった。こんな母親たちの間で遊んでいた子どもたちが、次の有権者になるのである。

 また、子どもから学んだこともある。子どものクラスメイトのお父さんが「ゼロ票確認」のマニアだと言うのである。調べてみれば、投票所が開いて最初に投票する人は、投票箱が空であることを確認するという。そのためには、かなり早くから並ばなければならない。もちろん我が家もトライしたことは言うまでもないが、投票開始が不正でないことの証人を有権者自ら行うようになっているというのは貴重な体験であった。何よりも子ども同士が学校で選挙の話をしているというのがうれしかった。

 もちろん主権者教育を家庭だけに任せてしまうのは、それは不十分である。したがって

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