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手痛いオウンゴール――光華寮事件と三権分立

加藤千洋

加藤千洋 加藤千洋(同志社大学大学院グローバル・スタディーズ研究科教授)

 ともかく現場をいま一度確認しておこうと自転車にまたがった。同志社大学前の今出川通をまっすぐ東へ15分ほど。京都大学のすぐ近くの通りから一歩入った住宅街に、めざす建物はひっそりとたたずんでいた。

 敷地には雑草が生い茂り、5階建てのコンクリート建物はいまにも崩れ落ちそうだ。黒ずんだ壁一面にツタが絡まり、ガラスがない窓も見える。上階の部屋のベランダに根を張った雑木が伸びて風にそよいでいる。最上階の窓だけはアルミサッシに取り換えられ、カーテンのようなものも見える。

 だが無人のようだ。その証拠に1階入り口は外側から施錠され、「関係者以外の立ち入り禁止」の表示。横に古ぼけた木製看板がまだあり、消えかかった文字を追うと「光華寮」「中国留日学生寄宿舎」となんとか読み取れた。

 そう、この建物は1980年代半ば以降、日本と中国の間で深刻な外交問題となった、いわゆる「光華寮事件」の舞台である。

 京都市左京区の住宅街に戦前に建てられた中国人留学生向け学生寮「光華寮」の存在がにわかに脚光を浴びたのは1987年春のこと。この学生寮の明け渡し訴訟の差し戻し控訴審で、大阪高裁が台湾の所有権を認める判決を下した。これに対して中国政府が「2つの中国をつくる陰謀だ」と猛反発した。

 当時、私は朝日新聞の中国特派員だった。その後の北京で体験した展開は今回の尖閣諸島近海で起きた中国漁船拿捕事件と共通点が多々あった。それで、すっかり忘却のかなたにあった「光華寮」が、そうだ京都にあったではないかと思い出させてくれたのである。

 あの時もまず中国外務省スポークスマンが「誤った判決であり絶対に同意できない」との談話を発表。その夜、外務次官が日本大使を呼び出した。強い調子の口上書を手渡したのは夜の9時を回っていたと記憶する。

 このとき日本側が持ち出した論理も今回とほぼ同じだった。「日本の社会制度は三権分立が確立しており、司法判断に政府は介入できない」というものだった。だが度重なる中国側の申し入れ内容は、つきつめると「三権分立は建前で、適切な政治判断ができるだろう」との、すべてを共産党が指導する体制下の中国式論理に基づくものであった。

 中国外務省の法律顧問は人民日報が掲載した論文で「不法な判決を下した国に謝罪、損害賠償を要求するか、報復措置をとって制裁を加える権利がある」と表明。これも今回の問題で中国側から耳にしたような用語と論理である。

 この光華寮明け渡し訴訟は経過が若干複雑なので補足説明が必要だろう。

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