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「特色ある近代化」から「尊敬される大国」へ

加藤千洋

加藤千洋 加藤千洋(同志社大学大学院グローバル・スタディーズ研究科教授)

 ノーベル平和賞に輝いた劉暁波氏は1989年6月の天安門事件の際、武力鎮圧で天安門広場に迫った人民解放軍の戒厳部隊など中国当局との交渉をまとめ、学生らの広場からの自主的退場を認めさせ、広場をほぼ「無血」に導いた立役者の一人である。

 あの夜、私は「アエラ」の特派記者として戒厳部隊の第1陣が天安門広場に到達した際、天安門の真下あたりにいた。目の前の長安街と広場の西の人民大会堂前で計2台の装甲車が群衆によって放たれた火で炎上。その黒い煙と赤い炎を目撃し、自分が立つ北京の大地が揺れ動くような衝撃を感じたのを今も思い出す。

 その後、後続部隊が威嚇射撃をしながら迫ったため、じりじりと後退させられた。退く前に目に焼き付けた鎮圧直前の広場の光景はといえば、学生らの寝泊用やハンスト学生らを治療するための医療用テントが多数残り、人影も少なくなかった。その後聞こえてきた銃声音や爆発音から、広場で多数の犠牲者が出たことを覚悟した。夜が明けてからも「死者は3000人に達した」「広場では学生が無差別に撃たれた」といった情報が乱れ飛んだが、実際には広場では犠牲者は出ていなかった。劉氏たちによる学生、当局側に対する必死の説得工作で流血が避けられたのだ。

 もちろん戒厳部隊が北京市内中心部の天安門広場をめがけて進軍する際、各地で民衆との衝突があり、当局発表でも市民と兵士あわせて300人以上の死者が出たのはご承知の通りだが。この事件で劉氏は運動を支援した有名知識人の第1号として逮捕され、2年近く拘束は続いた。

 中国が改革開放政策に移行して後、最大規模の民主化運動が天安門事件だった。だがこの30余年間に個人や集団による政治の民主化、自由化を求める動きは間欠泉のごとく起きている。

 最初の動きは改革開放政策への移行とほぼ同時にはじまった「北京の春」だった。そのシンボルとなった民主活動家、魏京生氏は共産党政権がいう「4つの現代化」に、5つ目の「政治の民主化」を付け加えるべきと主張して逮捕され、長期服役した。現在は米国にいるが、一時はノーベル平和賞の候補にも挙がった。

 79年秋には文革後初の長安街デモが行われた。「芸術の自由」「創作の自由」のスローガンを叫ぶ若い芸術家の一団だった。86年末には南部、安徽省の大学を発火点にした学生運動が全国に広がり、その対策が手ぬるいと党の長老から批判された胡耀邦総書記が辞任に追い込まれた。胡氏は学生らには党内で最も政治改革に熱心な指導者と見られており、その後、胡氏が失意のうちに急死したことが89年の民主化要求運動の一つのきっかけとなった。

 その次に大きな動きは劉氏らが2008年12月に発表した共産党の一党支配体制を痛烈に批判した「08憲章」だ。劉氏は主要な起草者として逮捕され、今度は懲役11年の重い判決となった。

 中国は今年、日本にかわって「世界第2の経済大国」の座につく。改革開放政策の成果といえるだろうが、政治体制はといえば中国共産党の一党支配体制が続く中で「国家体質」はさほど変わっていなことが、先の尖閣諸島近海の衝突事件と、今回の劉暁波氏の平和賞受賞への対応で鮮明に浮かび上がった。

 トウ小平(トウは登におおざと)の主導した「中国の特色のある近代化」とは、要は「やわらかい経済」を「かたい政治」の枠内で認めることだった。だが30年を経て、この「トウ小平マジック」もそろそろ限界にきている。

 なぜなら国民一人当たりのGDPが3000ドル水準を超えると、アジア諸国でかつて韓国や台湾、インドネシアやフィリピンなどで見られたように、中産階級を中心に国民は政治的権利の拡大を求めて物申すようになり、街頭デモを組織し、はては政権の転覆にもつながる動きにも発展する。

 中国は昨年末の段階でGDP1人当たり3700ドルとなり、今年末には4000ドルに達するだろうと予測される。中国の社会学界の大御所、陸学芸氏は「中間階層(ミドルクラス)はすでに人口の22%に達した」ともいう。

 開発経済学でいわれる定理のように「経済成長に伴う中産階級の拡大は政治的民主化につながる」のなら、

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