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民主・自民「大連立」の前提

櫻田淳

櫻田淳 東洋学園大学教授

 先刻、閉幕した臨時国会は、「熟議」を標榜するものであったはずであるけれども、実際には、民主党主導内閣の「迷走」だけを浮き彫りにする結果に終わった。民主党内閣の政権運営は、柳田稔(前法務大臣)や仙谷由人(内閣官房長官)の発言に象徴されるように、政策の中身ではなく、それ以前の姿勢や態度において、人心の離反を招くような失態を連続させた。

 こうした情勢の下でも、現下の民主党主導内閣は、向こう3年近くは継続される。「政局安定」を大義として、たとえば最大野党たる自民党との「大連立」を説く声が挙がるのも決して不思議ではない。

 振り返れば、1931年、英国保守党がラムゼイ・マクドナルド(当時、労働党党首)を首班に担ぎ、自由党をも巻き込む体裁で「挙国一致内閣」を樹立させた折、その「挙国一致内閣」の実態は、保守党主導内閣であった。英国労働党は、その後、ウィンストン・チャーチルの「戦時内閣」への参加を経て、第2次世界大戦終結直前に至ってクレメント・アトリーを首班とする単独内閣を樹立させた。

 また、第2次世界大戦後、ドイツ社会民主党は、コンラート・アデナウアーのキリスト教民主同盟政権が、市場経済を軸とした内治と西側同盟の一翼を担う対外政策との基本路線を打ち出したのに対して、しばらくの間、内治においては基幹産業の国有化と労働者の権利擁護、対外政策においてはドイツの統一と中立化という方針を示した。実際には、アデナウアーの執政は、急速な復経済興に代表される業績を挙げたが故に、社会民主党の主張は、往時の西ドイツ国民には受け容れられなかった。社会民主党は、政権獲得に至る過程では、59年にマルクス主義の放棄と国民政党への脱皮を趣旨とする「バート・ゴーデスベルグ綱領」を採択したことに加え、66年にクルト・G・キージンガー(当時、キリスト教民主同盟党首)を首班とする「大連立内閣」への参加という手順を踏んだ。69年、社会民主党は、ヴィリー・ブラントを首班とする内閣を発足させた。

 このように、「一度も政権を担ったことがない政党」が、政権を担えるようになるまでには、政党としての「自己変革」と「経験の蓄積」が要るのである。

 鳩山由紀夫、菅直人の2代の民主党内閣の最たる課題は、「一度も政権を担ったことがない政党」として、その立場に伴う不安を地道に払拭することでしかなかったはずである。実際の政権運営は、その不安を払拭するどころか、刺激するだけのものでしかなかったのではないか。

 故に、こうした英独両国における「挙国一致内閣」や「大連立内閣」の事例に倣うならば、民主・自民両党の「大連立内閣」が成った場合でも、それは、自民党主導のものでなければならないであろう。要するに、菅を首班とするにせよ、その執政の中身は、徹頭徹尾、自民党主導内閣の流儀に沿ったものでなければならないということである。喩えていえば、民主党は、自民党主導内閣に「丁稚奉公」として入り、その「丁稚奉公」の過程で、政権を担当するに相応しい政党としての「自己変革」と「経験の蓄積」を図るのである。

 もっとも、現在、説かれているのは、

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