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ペルシャ湾と日本の海洋安全保障

小谷哲男

小谷哲男 小谷哲男(NPO法人岡崎研究所特別研究員)

 去る1月17日で湾岸戦争の勃発から20年が過ぎた。湾岸戦争は日本の安全保障を見直す転機であった。1990年8月2日にイラクがクウェートを侵略し、国際社会の平和的解決に向けた努力も功を奏せず、1991年1月17日にアメリカを中心に40数カ国58万人からなる多国籍軍がクウェート解放のために軍事作戦を開始、圧倒的な勝利を収めた。日本政府は増税をしてまで130億米ドルの資金提供を行ったが、「小切手外交」と批判され、自らの国際安全保障への貢献のあり方を見直すきっかけとなった。そして、イラクがペルシャ湾に敷設した機雷を掃海するため、湾岸戦争終結後に海上自衛隊の掃海部隊を派遣し、各国海軍と共に掃海作業を行った。それは自衛隊にとっての初の「海外派遣」であった。

 筆者は、財団法人平和・安全保障研究所(RIPS)「ペルシャ湾の安全保障における日本の役割」に関するプロジェクト笹川平和財団中東イスラム基金助成)に参加しているが、以下はそれを通じて考えをまとめたものである。

 現在、日本はその経済活動を支える石油資源のおよそ9割を中東から輸入しており、7000カイリに及ぶシーレーン(海上交通路)を通じて本国に輸送している。イメージとしては中東から日本に至るシーレーンに常に90隻の日本関係のタンカーが列をなしていることになる。ペルシャ湾は日本のシーレーンの起点であり、中東からの石油輸入量の7割ほどがホルムズ海峡を通って日本に運ばれる。日本関連タンカーのホルムズ海峡通過数は、1日平均3.5隻と見積もられる。ホルムズ海峡には海上の代替ルートが存在せず、まさに日本経済の「首根っこ」と形容することができる。

 過去を振り返ると、1980年代のイラン・イラク戦争で18隻の日本籍タンカーがペルシャ湾で攻撃され、2人の死者と19人の負傷者が出た事実がある。戦争発生時、日本はテヘランから邦人を脱出させる手段さえなく、トルコに邦人救出を依頼した。日本政府は自国のタンカーを護衛するために海上保安庁の派遣を検討したが、時の後藤田正晴官房長官の強い反対で実現しなかった。日本政府は代替案として、ペルシャ湾の航行安全に寄与するためデッカ航行システム(電波航法の一種)の導入に必要な資金を提供した。

 湾岸地域は依然としてイスラエル・パレスチナ問題、イランの核開発疑惑などで政治的に不安定である。特にイランの核開発はイスラエルまたは米国による先制攻撃につながる可能性が否定できず、その場合はイラン革命防衛隊がホルムズ海峡を封鎖すると公言している。ホルムズ海峡の封鎖の手段としては機雷及びミサイル攻撃が想定されるが、これに対して米国はイランの防空網と地対艦ミサイルを破壊し、機雷掃海を行うだろう。しかし、イランの移動式ミサイル発射台の探知に要する時間をめぐっては、専門家の間でも意見が分かれている。日本は石油の備蓄が半年分あるが、仮にホルムズ海峡の封鎖解除にそれ以上かかれば、原油価格の高騰と相俟って重大な危機に直面することになるだろう。

 また、2010年7月には、日本タンカーが謎の爆発を起こす案件も発生している。米国の海事当局はアルカイダ系テロリストによる攻撃と断定しており、日本政府もテロの可能性が高いと結論づけている。今後ホルムズ海峡における海上テロが増加する可能性は排除できない。さらに、この海域の水深は比較的浅いが各国潜水艦の活動が活発で、

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