櫻田淳
2011年04月18日
筆者は、此度の震災に際して震度七の最高震度を記録した宮城・栗原に生まれ、十メートル近い高さの津波が押し寄せた青森・八戸で高校卒業までの歳月を過ごした。八戸にある曹洞宗寺院、対泉院には、天明大飢饉の折の惨状を伝えた石碑が立っている。不況と凶作が相次いだ昭和初期には、八戸市役所の掲示板には、「娘を身売りしたい方は申し出て下さい」という趣旨の公告が張られていた。
筆者は、幼少の頃には、こうした陰惨な話を折に触れて聞かされてきた。世の苦難や不運が集中した郷土の境涯とそれに耐えていく精神は、「白河以北」で生まれ育った人々には、その程度の差はあれ、刻まれているであろう。
もっとも、「白河以北」は、決して明治以降に「一山百文」と嘲られたような不毛な土地ではなく、それ自体としては誠に豊饒な土地であった。たとえば、江戸時代、日本から中国に輸出された主要産品は、「俵物三品」であった。それは、要するに、煎海鼠(いりこ)、干鮑、鱶鰭(フカヒレ)のことであり、中華料理の高級食材として珍重されている。この「俵物三品」は、長崎を通じて輸出されたけれども、その主要な産地は、三陸海岸一帯である。
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