メインメニューをとばして、このページの本文エリアへ

東北はまたも「中央」の踏み台か――維新以来の怨念の歴史

小北清人

小北清人 朝日新聞湘南支局長

 「そうか、あいつは敵か。そうか……」

 福島県出身の友人が、酒を飲んだときに小さく漏らすようにいった。冗談のようでもあり、半ば本気のようでもあった。

 菅直人総理は、選挙区は東京だが、生まれ育ったのは山口県である。高2の時に父親の転勤で東京に転居したとしている。もともと「長州の人」なのである。

 福島県、つまりざっくりいって江戸時代の会津藩は、幕末から維新の転換期、大変な目に遭わされた。長州と薩摩を中核とする官軍は、徳川慶喜の降伏(大政奉還)後も責め手を緩めず、江戸を火の海にはしなかったものの、幕府側に立つ諸藩を「賊軍」と決めつけ倒滅戦に動いた。その最大の犠牲者が会津藩だった。会津の苦難は白虎隊をはじめ多くの書物に記されている。

 もう150年前のことじゃないかというなかれ。やられた側はその時の恨みを忘れない。先祖の苦難は親から子に伝えられ、いや、教えられなくても、自然と意識の下に刻印されるのだ。

 明治になっても、会津出身者は薩長政権に疎外され、日の当たる道を歩くことは出来なかった。それは会津に限らない、賊軍とされた東北の多くの藩も同じ苦難を味わされた。

 「2・26事件」を起こした青年将校たちに、少なからぬ世論が「気持ちは分かる」と同情的な声を寄せたのも、「親きょうだいは飢えに苦しみ、姉や妹は女郎屋に売られ……」という東北の現状に挙手傍観する政治への怒りを、青年将校らが決起の理由にしたからだ。

 会津は、東北は、明治以降の日本の発展の踏み台として、近代化の「陰画」として、あり続けてきたのである。

 子供のころ、岩手県で暮らした小沢一郎氏が、中学からは東京で育ったにもかかわらず、インタビューで「踏みつけられた東北人の怒り」を滔々と語ってみせるのも、東北の苦難の歴史がその背景にある。

・・・ログインして読む
(残り:約1035文字/本文:約1782文字)