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[1]鉄道と日本近代を考える

聞き手=WEBRONZA編集部

原武史

2010年12月に九州新幹線が全通し、今年2月に東北新幹線が新青森まで延伸した。青森から鹿児島まで日本列島が1本の新幹線でつながったことになる。また、3月5日から「はやぶさ」が東京と新青森を結ぶようになった。3月11日の震災で不通となった東北新幹線も4月29日、全線復旧した。整備新幹線の工事に区切りがついただけでなく、日本の鉄道、あるいは鉄道文化にとっても新しい局面が訪れている。日本の鉄道と近現代史、政治史の関係を原武史さんに聞いた。(聞き手=編集部)     

 

原武史(はら・たけし) 1962年、東京都生まれ。明治学院大学教授。専攻は日本政治思想史。著書に『大正天皇』(朝日選書、毎日出版文化賞)、『「民都」大阪対「帝都」東京――思想としての関西私鉄』(講談社選書メチエ、サントリー学芸賞)、『滝山コミューン 一九七四』(講談社文庫、講談社ノンフィクション賞)、『昭和天皇』(岩波新書、司馬遼太郎賞)、『鉄道ひとつばなし』『同2』(講談社現代新書)、『「鉄学」概論――車窓から眺める日本近現代史』(新潮文庫)など。最新刊に『鉄道ひとつばなし3』(講談社現代新書)。 

 

――原先生のご専門は日本政治思想史、とくに天皇制の研究ですが、一方で、鉄道にも造詣が深く、珠玉のコラム「鉄道ひとつばなし」の長期連載(講談社のPR誌「本」掲載)を続けておられます。「鉄道マニアではない」と用心深く説明されていますが、著書を拝読すると「鉄道好きが研究にも生きた」と振り返ってもいます。また、「鉄学者」とも自称されていますね。まずは、初めての読者向けに、原先生のご専門と鉄道の関係をかいつまんでお話いただければと思います。

「鉄学者」原武史さん
 「鉄学者」というのは半分冗談ですよ(笑)。当然のことですが、江戸時代には街道はあっても鉄道はありませんでした。小さな国に相当する藩が二百八十近くもあって、それが緩やかに連合して日本という国家を形づくっていたわけです。ところが、日本人が互いに同じ日本人と認識し合うことができるネーションステート(国民国家)が必要になりました。日本の近代、あるいは近現代は、明治国家の建設とともに東京を中心に鉄道網が発達していった過程でもあります。

 近代の天皇制も軍隊も、国家の大動脈となるべくつくられた鉄道と切っても切れない関係にあります。北海道から九州まで全国が1本の鉄道で結ばれている、そしてその鉄道が首都である東京につながっていることが、抽象的な国家という概念を体現する媒介になっていました。この線路は「帝都」東京につながっている、あるいは天皇が東京から鉄道に乗ってやってきた、という形で、全国津々浦々の庶民が日本という国家を非常にリアルなものとして認識するきっかけの一つが鉄道でした。しかも、鉄道はダイヤグラム(運行計画)を用いますから、太陽暦に基づく分単位の時間概念を広める上でも有効でした。中でも、天皇の乗る御召列車は非常に精緻な運行計画に基づいて走るようになりました。

――完璧な時刻表に基づいて正確な時間で走る列車が到着する駅、あるいは通過する沿線のあちこちに、正確なタイミングで集まって万歳しながら天皇を迎える現地の人々がいたわけですね。

 そうです。明治時代から、新聞には「何駅着は何時何分、発は何分」と掲載されていました。こうして抽象的な概念ではない、リアルな国家の姿が地方の人々にも届きました。

――国家の「見える化」とでも言えばいいでしょうか。

 可視化ですね。『可視化された帝国』(みすず書房)という著書も出しましたが、鉄道がそうしたツールの一つとなりました。また、私が『「民都」大阪対「帝都」東京』で書いたのは、そうした東京中心の官営の鉄道網に対抗して別の中心をつくろうとした関西の民鉄(民営鉄道)です。大阪中心の民鉄は東京とつながらない形で、別個に難波、日本橋、梅田、上本町といった大きなターミナル駅をつくって郊外へと延びていきました。意図的に国鉄とは交わらない。物理的に駅から駅への乗り換えもスムーズにできないし、乗換案内の車内アナウンスもない。転勤族や旅行客が、梅田と大阪が実は乗り換え可能だということを知らずにまごついた、という笑い話があったほどです。沿線の宅地開発まで手がけるのも民鉄の特色の一つでした。阪急電鉄の創業者、小林一三が典型的ですね。

東京の私鉄と関西の私鉄は大違い

――関東や関西以外の地域では、国家を一つにぎゅっとまとめ上げるツールの一つだった鉄道が、豊かなローカル色を帯びることはなかったのでしょうか。

 そもそも官設官営でスタートした明治時代の鉄道は、西南戦争による財政の逼迫で私設鉄道にも門戸を開くようになりました。財界人たちも私設鉄道の建設を推進しましたが、日露戦争後、軍事的重要性が認識され、物流の効率化が求められたことで、日本鉄道、山陽鉄道、九州鉄道など主要幹線の国有化が進みました。戦後、鉄道省を引き継いで生まれたのが、日本国有鉄道、つまり国鉄でした。

 関東私鉄のターミナル駅を見比べると分かりますが、どれもJRの駅に間借りしているような構造です。池袋も新宿も渋谷も品川も横浜も、私鉄のホームはJRのホームの脇に寄り添うような位置関係になっていて、乗り換えには便利です。東武、西武、小田急、東急、相鉄など主な私鉄の線路の幅もJRの在来線と同じです。違うのは井の頭線を除く京王と京急と京成ぐらいで少数派です。つまり、民より官が優位だという序列がはっきりしていて、民はあくまで官に従属する存在でした。

 ところが関西はJR大阪駅のすぐ隣にある阪急や阪神の駅は「梅田」ですし、阪急の京都におけるターミナルは「河原町」。京阪なら「三条」ないし「出町柳」と、駅名どころか場所さえ一致しない。こうして国鉄を意識的に無視してきたわけです。関東なら「京成上野」「西武新宿」などと社名をつけた駅名にすることはあっても、まったく別個の駅名をつけることはない。浅草(東武伊勢崎線)は、場所も駅名もJRと違いますが、既にターミナル駅としての性格が希薄になっています。

――浅草が栄えたのは主に戦前ですね。原先生もかねて指摘していますが、地下鉄や私鉄同士、あるいはJRと私鉄の相互乗り入れが進んだことで、街の顔としてのターミナル駅がその機能を失いつつあります。

 ターミナル駅をなくして相互乗り入れが増えれば、乗客にとっては乗換回数が減って便利だという考え方があります。特に東京メトロ半蔵門線と田園都市線、日比谷線と東横線、南北線・都営地下鉄三田線と目黒線が乗り入れ、さらに東横線の渋谷ターミナルをなくして副都心線への乗り入れを図る東急が大きな影響を受けています。しかし、相互乗り入れが必ずしも便利とは限らない。直通運転する路線の距離が延びたことで、はるか遠くで遅れが発生しただけで、それが路線すべてに反映します。例えば春日部で起きた遅延が中央林間に波及します。一方で、ターミナル駅が始発なら、次の列車を少し待つだけで必ず座って帰れます。ところが相互乗り入れだと座れない。現に東急田園都市線が半蔵門線と直通運転しているせいで、夕方ラッシュ時には大手町よりも遠く、例えば水天宮前あたりまで戻らないと確実には座れない。2012年に副都心線と東急東横線の直通運転が始まれば、渋谷では座れないので、どうしても座りたければ新宿三丁目以北まで戻る必要が出てくるでしょう。

――近年、JRでも私鉄でも運行情報が刻々と電光掲示板に表示されるようになりましたが、それと同時に、よく知らない路線の駅名を目にする機会が増えました。

 相互乗り入れをしていない路線、例えばつくばエクスプレスはダイヤが非常に正確です。ホームドアも設置しているので人身事故も起きない。何をもってサービス向上と考えるかは、実はそれほど自明ではありません。

――その対極にあるのがJR湘南新宿ラインかもしれません。

 湘南新宿ラインもよくダイヤが乱れていますね。しかも油断していると、熊谷に行こうとしていたのに気が付いたら小山にいることになりかねない。反対側も小田原や逗子まで走っていますし、埼玉県庁のある浦和は通過してしまいます。つくばエクスプレスのような非常にスピーディで正確な運行実績と、湘南新宿ラインのようにはるか遠くまで乗り換えなしで乗客を運ぶ路線と、どちらが便利かというと微妙です。

――原先生がお住まいの田園都市線もラッシュ時の遅れが激しいそうですね。東急電鉄のホームページを見ると、遅延証明書の発行欄が常に上位にある印象があります。

 混雑時は、ほぼ毎日10分以上遅れていると言ってもいいかもしれません。田園都市線の場合、相互乗り入れだけでなく混雑の問題も大きいでしょう。混雑率が高すぎてなかなか発車できない。次の列車、さらに次の列車と、ますます遅れてしまう。道路の渋滞と同じ原理です。

――田園都市線は沿線の開発が今でも続いていて人口が増えていますね。そうしたニュータウンなどの宅地開発が進んで、団地や戸建てが立ち並ぶプロセスは、さかのぼれば大正・昭和、あるいは戦後の比較的早い段階から進んでいました。西武線も中央線も、京王線や小田急線もかなり都心から遠い地域に住民が住んでいたわけで、遠距離通勤や混雑といった田園都市線の沿線住民が体験しているような現象は、過去にも他の路線でもあったと思うのですが。

 通勤ラッシュは1960年代前半がピークですが、あの頃は多くの私鉄でピーク時の混雑率が250%を超えていました。300%を超えている路線も珍しくありませんでした。200%で「体がふれあい相当圧迫感があるが、週刊誌程度なら何とか読める」。250%になると「電車が揺れるたびに身体が斜めになって身動きできず、体も動かせない」。300%は「物理的限界に近く身体に危険がある」。

――「殺人的」とか「痛勤」とも言われたそうですね。

1967年の通勤ラッシュ。新宿駅では「尻押し」のアルバイト50人を動員していた
 300%になると、どう頑張っても途中駅からは乗れない。最近の首都圏の主要区間の混雑率が200%を超えることはまれですが、当時は250~300%が当たり前でした。沿線の人口増加も急なので、いくら列車を増発して輸送力を増強しても追い付かない。1973(昭和48)年に起きた上尾事件(国鉄の労働争議に乗客が怒った暴動事件)の背景にも、高崎線のこうした殺人的な通勤ラッシュがありました。ラッシュ時でさえ7分おきのダイヤで、ラッシュを過ぎると1時間に1本。しかも2ドアの急行型電車で定員の少ない車両が何本も普通列車に転用されていました。

今ならロングシートで5ドアや6ドアになっているでしょうね。

 2ドアと5ドアを比べると、同じ1両の定員が大違いです。1963(昭和38)年に関東私鉄で初めて西武が10両運転を始めました。同じ年に現在の田園都市線が名称変更で誕生しましたが、3年後に溝の口~長津田間が延長開業した当時は、鷺沼~長津田間は2両編成でした。

――2両ですか。

 鷺沼までは4両で、そこで切り離して長津田までは2両。私が青葉台に引っ越した1975年に4両になりました。でもラッシュ時でも、たった4両でした。

――現在の感覚で言うと、かなりローカルなにおいのする路線に思えます。

 その点、国鉄の方が進んでいました。概して私鉄よりも早く、首都圏を走る通勤電車、いわゆる「国電」に8~10両編成が導入されていきました。山手線、京浜東北線・根岸線、中央線、中央・総武線の各駅停車、常磐線といったあたりです。これに対して、高崎線は「中電」、つまり中距離電車のカテゴリーでした。東海道線、横須賀線、東北本線なども中電。駅で言えば、大宮や高尾、千葉、横浜、取手以遠にのびる路線です。

――なるほど。通勤1時間圏内といった所要時間で同心円を描くだけでなく、東京という街の発展方向は、路線によってだいぶ違ったということでしょうか。

 国鉄時代は明らかに路線によって格が違っていて、東京により近い国電区間には力を入れていました。通勤線区の国電にはロングシートの10両編成を導入して輸送力を高めようとする一方、中電は格下の扱いで、運行本数もぐっと少なかった。

――車両などの設備面だけでなくダイヤにも優先順位をつけていた。国鉄と私鉄という序列だけでなく、国鉄の路線にも序列があったわけですね。

 そうです。中電のなかでも、沿線に軍港や御用邸があり、戦前から鉄道省が力を入れていた横須賀線だけは例外でしたが、国電では中央線が山手線などよりも優遇されていました。こげ茶色、チョコレート色の電車だった国電に最初にオレンジ色の車両(90系)が投入されたのは中央線でした。ちなみに、横須賀線は、東京と逗子・横須賀の所要時間でみると戦前の方が早かった。しかも、沿線に日本随一の軍港や御用邸があるなど重要線区でしたから、豪華な二等車が走っていました。戦後もいち早く、最新鋭の車両を投入していました。

――そのくだりを読んだときは、非常に新鮮でした。中央線が優遇されたのは、なぜでしょう?

1951年、多摩東陵の祭場に向かう貞明皇后の棺を乗せた汽車
 天皇陵があるからです。1927(昭和2)年に大正天皇の陵である多摩陵が高尾にできます。そうすると高尾、つまり当時の浅川の手前につくられた東浅川(現在は廃止)まで御召列車が走るので、1930年に浅川まで電化します。翌年には甲府まで電化しました。天皇陵がなければ首都圏で中央線が突出することもなかったんじゃないでしょうか。ちなみに中央線では、小金井にも皇室とのつながりがあります。江戸東京たてもの園のある都立小金井公園は、1940年の紀元2600年記念事業で生まれた緑地で、皇居前広場に建てた式殿を移築しています。戦後も一時、東宮仮御所として利用されました。

――皇室ブランドが今に至る中央線沿線の人気や文化につながるわけですね。

 もう一つ言えるのは、1923(大正12)年の関東大震災で東京の下町が壊滅的な被害を受けて、東京の人口の重心が西側に大きく移動しました。田園調布や成城のような住宅地の発展もそれからです。中央線で言えば、国立(くにたち)学園都市の開発が震災後に始まっています。昭和になると、例えば荻窪に近衛文麿(首相)が「荻外荘」をつくり、国立には宇垣一成(陸軍大将)が屋敷をつくりました。また、戦前から戦後にかけて阿佐谷文士村ができ、太宰治が三鷹に住むなど文学者、文化人も集まりました。名だたる政治家や文化人が沿線に居を構えることで住宅地のブランドも上がっていきました。

――原先生の著書にも出てきますが、学校が土地を買ってそれを開発・分譲して得た収益でキャンパスを建設するというケースもあったそうですね。

 西武池袋線のひばりヶ丘に近い自由学園や、小田急線の成城学園前駅に近い成城学園がそれですね。国立の場合は、箱根土地という堤康次郎の不動産会社が、東京商科大学(現・一橋大学)を誘致して開発しました。国立は国立学園もできてそこに堤清二が通うわけですが、それを呼び水に国立音大や桐朋学園などもできたので成功例と言っていいでしょう。しかし、西武池袋線の大泉学園は、東京高等師範学校(元・東京教育大学、現・筑波大学)や東京第一師範学校(現・東京学芸大学)の誘致には失敗しましたし、西武多摩湖線の小平学園(現・一橋学園)も明治大学の誘致に失敗しています。

いまは見られなくなった中央線「201系」。人気が高かった=JR東日本八王子支社提供
――現時点で、都内近郊の「住みたい街」「人気の路線」となると、中央線と東急線が両雄です。でも、原先生にとって思い入れがあるのは西武線ですね。どうしてでしょうか。

 私はよく「中央線中心史観」と言うのですが、そうした今までの東京の語られ方に不満があります。東京の地図を何となく思い浮かべようとすると、ヨドバシカメラのCMソングじゃないけれど、まず山手線が円を描いて、その真ん中に中央線が通るイメージがある。でも、これは国鉄時代に形づくられたものです。JRになった今でも、地図上の国鉄(JR)は白黒の太い線で、それ以外の私鉄は細い1本の線に目盛りを入れた線であらわされます。本当は私鉄もたくさんの乗客を乗せて走っているのに、地図上では細いから目立たない。そうすると、私たちの認識もどうしても国鉄・JR中心になってしまう。しかも、中央線はまっすぐ西に延びているので想像しやすい。セントラルラインというネーミングもそうですが、いかにも中心であり背骨であるように思えてしまう。

 しかし、こうした中央線中心史観によって隠蔽されるものもあります。偏ったイメージが流布することで現実が隠されてしまうのです。例えば、西武線は中央線と並行して新宿線、池袋線の2本が走っていますが、東京の都市論や鉄道文化においてほとんど意識されません。ところが、西武鉄道の成り立ちは古い。西武線で最も古い川越鉄道(現・西武国分寺線と新宿線の東村山以北)は、国分寺と現在の本川越を結ぶ路線ですが、1895(明治28)年の開業です。その後できた武蔵野鉄道(現・西武新宿線)も1915(大正4)年に池袋~飯能間が開業しています。東急が渋谷と横浜を結び、小田急が開業したのは昭和2年ですから、それよりもだいぶ早い。東京の西南部の私鉄網は、京急を除けばそれほど古くないのです。

――それほど古くから西武線が必要だったのはなぜでしょうか。

 小江戸とも呼ばれる川越は、江戸時代から河川を利用した交通の要衝として栄えていました。人口も多かったので川越と東京を結ぶ鉄道が早くから必要になり、川越鉄道ができました。所沢や飯能、そして吾野までのびる武蔵野鉄道には、セメントなどの貨物輸送の需要がありました。康次郎は沿線に住宅地をつくろうとしましたが、あまりうまくいかず、その代わりに数多くの病院や療養所が清瀬や東村山などにできました。

――その後の話が、戦後の『滝山コミューン』の話につながるわけですね。

 そうです。また、狭山市から入間市にかけては航空自衛隊入間基地がありますが、あそこは戦前には陸軍航空士官学校の飛行場でした。中央線では立川がいい例だと思いますが、今の国営昭和記念公園や陸上自衛隊の駐屯地などがある一帯に陸軍の飛行場があり、立川は「軍都」の一つでした。これらの飛行場は、戦後米軍に接収されます。このように東京の鉄道においても軍と鉄道との関係が重要でした。

――冒頭でもおっしゃっていたように、明治以降の近代国家ができる過程で、軍や鉄道が国民国家の基礎になっていく。その軍と鉄道も密接な関係にあったわけですね。これは東京に限らない話ですね。

 明治・大正の日本が対外戦争をやるときにまず想定したのは、東京と朝鮮半島をいかに早く結ぶか、ということです。日清戦争も日露戦争も、朝鮮半島やその向こう側で戦争になるわけですから、大陸になるべく早く大量の兵隊と物資を輸送しなければならない。まず下関まで鉄道で運んで、そこから連絡船に乗せて釜山まで運んで、そこからさらに鉄道で北上する。だから、東海道線をつくって山陽鉄道を国有化し、新橋~下関間の直通列車を走らせる。明治後期に後藤新平を中心とした官僚から鉄道の広軌化計画が持ち上がるのも、そうした目的があったからです。つまり、日本の路線の多くは当時も今も狭軌、つまりレールの幅が1067ミリで世界的に見て狭い。国際標準軌の1435ミリにして高速列車を走らせるべきだ、というのです。後藤たちは立憲政友会の原敬などと論争して負けたので、標準軌による高速鉄道の夢は戦後、東海道新幹線が開業するまでお預けとなりました。後藤たちは、満州や朝鮮半島など大陸の鉄道は基本的に標準軌だから貨車などの日本の鉄道車両が簡単に乗り入れできず不便だと主張しました。ところが、岩手県出身の原敬など政友会の論理は地方のローカル線重視で、東北のまだ鉄道が通っていないような地域に鉄道を敷くのが先だと主張して、そちらの方が勝ちました。

――既存の幹線を「改軌」して輸送力を増強して海外に打って出るのか。それともローカル線を国土の隅々まで張り巡らせて国民生活の向上を図るのか。後者が勝って、欧米に追いついた近代的な輸送体系をつくる夢が挫折したわけですね。岩手が地元の小沢一郎氏の政治姿勢に無理やりつなげれば、明治と同じ構図の議論がいまだに生きていると言えるかもしれません。

 ただ、今は完全に新幹線重視ですね。新幹線と並行して走る在来線は、第三セクターに転換して重い赤字を背負うなど苦しんでいます。例えば、九州新幹線と並行して走る鹿児島本線の八代~川内間はJRから切り離されて肥薩おれんじ鉄道となり、東北新幹線の盛岡以北と並行して走る東北本線の盛岡~青森間は、青い森鉄道(青森県)とIGRいわて銀河鉄道(岩手県)となって、いずれも赤字と過疎化に苦しんでいます。長野新幹線と並行して走っていた信越本線も、横川~軽井沢間は廃止され、軽井沢~篠ノ井間はしなの鉄道になっていますね。つまり、ローカルな新幹線の延伸は重視するけれど、新幹線に並行する在来線は、むしろ虐げられています。後藤と原の論争が、現代においても新幹線対並行在来線という形で繰り返された末、今度は後藤の方が勝つという結果を生んでいるといえるかもしれません。

地方と政治を語るうえで欠かせない「整備新幹線」

――いわゆる整備新幹線、新幹線の延伸の問題が昭和後期から様々な形で議論されてきました。新幹線は、ローカル線を中心とした国鉄の赤字や民営化の議論とともに、現代の政治と鉄道の関係を象徴していると思うのですが、それが曲がりなりにも新青森から鹿児島まで1本の線路でつながることになりました。これをどのくらいのインパクトがあるものとして捉えたらいいのでしょうか。

 私は今まで、新幹線については東西で意識の格差があると思っていました。つまり、新幹線を非常に欲しがる地方と、そうでもない地方がある。過去の新幹線の広がり方を見ると明らかに東の方に偏っています。JR東日本は東北、上越、長野(北陸)、それとフル規格ではありませんが山形、秋田と五つある。ところがJR東海は東海道、JR西日本は山陽、JR九州も九州だけです。東北地方は6県全てに新幹線が通っているのに、四国や山陰にはない。新潟県を北陸に含めるかどうかは別にして、北陸の富山、石川、福井にも北海道にもない。九州新幹線だって長崎(計画はあるにしても)、大分、宮崎にはない。東北、とくに山形や秋田は在来線の線路を一部利用したミニ新幹線という相当に強引なやり方で開通させました。古くから言われる「我田引鉄」の現代版です。ところが、それでどうなったかというと、山形や秋田から東京に来るのは便利になったけれど、山形から酒田に移動しようとすると、必ず新庄で乗り換えなければならない。奥羽本線は非常に分断された路線になってしまっていて、福島から新庄は標準軌、新庄から大曲まで狭軌、大曲から秋田は標準軌です。そして秋田から青森はまた狭軌。何が何だかよく分からないことになっています。

――単に路線の名前が同じだけ、という感じですね。

 それでもいいから新幹線が欲しかった。しかも、フル規格は建設費がかかりすぎるからミニ新幹線でいい。その代わり早く欲しい。東京に行くのが便利になりさえすればいい、県内や隣県との移動は二の次でいいという考え方だったわけです。これは、他の地域ではなかなか理解されないと思います。

――しかも、冷静に振り返ると山形も秋田も新幹線が通らない地域、つまり庄内地方や横手や湯沢、大館といったところはあまりメリットがないですね。青森県で言えば、弘前まで新幹線が延びる計画はない。

1968年春、国鉄鹿児島本線肥後二見-上田浦間で普通旅客列車を引くC61
 そうした新幹線から外れた地域が、横手の焼きそばなどB級グルメに力を入れていると言ってもいいかもしれません。鹿児島の阿久根市長がなぜあんなことを主張しているかといえば、九州新幹線で最も損をした街の一つだからです。元々、阿久根は鹿児島本線で1日に何本も特急が止まる駅だったのに、新幹線が通らないどころか第三セクターの赤字の負担だけが増えて、ローカル線の運賃は大幅に値上がりしています。今回の東北新幹線の延伸によって、盛岡から先は、もはや東北本線ではなくなってしまい、三沢や野辺地が同じような目にあっています。

――地元でも整備新幹線について様々な議論があって、当初は反対勢力もいたはずなのに「おらが街にも新幹線」という経済効果への期待に流されてしまったのでしょうか。

 新幹線以前の在来線だけの時代には、そこまでの格差は生じませんでした。国鉄はそのへんをよく考えていて、在来線の沿線に拮抗した規模の複数の街が並んでいる場合、ある特急はこの街に停め、次の特急は隣の街に停めました。そうやってなるべく均等にどの街にも特急が停まるようなダイヤを組んだ。損をする街が出ないように配慮していたわけです。東北本線や鹿児島本線の当時の時刻表を見るとよく分かりますが、たとえば岩手県では、ある特急は一関に停めて水沢を通過し、北上に停めて花巻を通過する。別の特急は一関を通過して水沢に停まり、北上を通過して花巻に停まって盛岡に着く。こうすれば、1日に停車する特急の本数にあまり格差が生じない。各都市間の機会均等に配慮していたのです。

――私は福島県いわき市の出身ですが、JR常磐線では今でも原先生の言うようなダイヤを組んでいます。いわきは合併して大きな市になっていますが、元々はいわき駅のある平(たいら)、湯本、泉、植田、勿来(なこそ)といったいくつかの街の集合体です。そうした各駅に特急「スーパーひたち」を1日に何本かは停める。公平にというか平等に停めようという意図を感じます。

 より多くの地域住民にサービスしようとすると、自然とそうなります。在来線しかない地域はまだそうした国鉄時代の名残があります。ところが、新幹線が通るようになると、露骨に得をした街と損をした街の格差が生まれる。長野新幹線で最も損をしたのは信越本線の小諸でしょう。それまでは横川で「峠の釜めし」を食べていると(笑)、軽井沢の次に特急が停まるのは小諸でした。そして上田、長野となる。ところが、長野新幹線は軽井沢の次に佐久平に停まる。佐久平は、それまで街も何もなかったところに新しくつくられた駅です。しかも小諸ではなく佐久市のエリア。小諸は北国街道の宿場町で城跡もあって、島崎藤村が暮らした観光地でもある。でも、厳しい経営が続いてきたしなの鉄道を象徴するかのように、国鉄時代のままの駅舎やホームが使われていて、満足に改修もできないでいます。駅前も閑古鳥が鳴いているというか、時が止まったような感じです。

――今なら昭和レトロブームの流れで、むしろ価値があるかもしれませんが……。しなの鉄道はかなり苦労して黒字化したようですね。その点、隣の軽井沢はもちろん上田も新幹線が停まります。

2006年当時の佐久平駅周辺。大型商業施設などの開発が進んだ
  佐久平の周辺の発展ぶりは見違えるほどです。東京資本の巨大スーパーなどが立ち並んで、ゼロから街ができてしまった。モータリゼーションが地方の隅々まで行き渡ったことで、旧市街よりも郊外を自動車で移動する方が便利という時代背景もあるのでしょう。佐久平からは東京まで通勤できるわけで、完全に人の流れが小諸から佐久平に移ってしまっています。

――新しい路線、しかも新幹線のようなスピード重視の路線を敷く場合、なるべくまっすぐ、ショートカットした路線をつくりたくなる。すると、全ての街を平等に扱えない。宿場町から鉄道駅のある街へ、在来線の街から新幹線の街へ、という変化が今でも起きている。

 新しい路線をつくると人の流れも変わる。これは明治になって、古くからの街道筋に沿って鉄道を敷設したときにも起きた話で、いわば不可避です。鉄道ができて街道が廃れた例としては、埼玉県の岩槻(現さいたま市岩槻区)があります。岩槻は、奥州街道や日光道中(日光御成道)の重要な宿場町で、岩槻藩という小さい藩ですが城下町でもありました。ところがいまの東北本線ができるときに岩槻の人々は街の近くを鉄道が通ることに反対したという言い伝えがあります。この言い伝えは「鉄道忌避伝説」と呼ばれ、史料的には確認できていません。一方で大宮が鉄道誘致に熱心だったため、中山道の宿場町だった大宮から東北本線が分岐する形となって岩槻のはるか西にそれました。結局、岩槻は人の流れから取り残されて、ぱっとしない街になってしまいました。宮城県北部の古川も、東北線が東側の小牛田を通ったので一時、衰退しましたが、新幹線の駅ができたことで立場が再び逆転しました。

――「鉄道忌避伝説」と言われて、明治時代に鉄道に反対した街が実際にどれだけあったか難しいところですが、今でも全国的に新幹線を誘致する動きはありますね。北陸新幹線や九州新幹線の長崎ルート、それから函館から札幌まで計画されている北海道新幹線。そうした整備新幹線の残りの区間も、何年もかけて少しずつ着工して開業していく。それと同時に街の浮沈が全国で起き、東京に人の流れや経済活動が吸い上げられる「ストロー効果」も懸念されています。

 九州新幹線は新大阪止まりで、東京へ直行しないダイヤになっています。JR九州やJR西日本に何らかの意図があるのだと思いますが、これが貫徹されれば東京中心の明治以来の鉄道網を切り崩す可能性を秘めています。大阪と九州のつながり、あるいは広島と九州、韓国と九州のつながりが強化されれば、ひょっとしたら明治以来の東京を中心とする国民国家と鉄道がリンクしてきた時代から脱却できるのかもしれません。

――九州は、商圏としては福岡を中心として自己完結していますし、朝鮮半島など東アジアに近いので、東京ばかりを見ているわけではない土地柄ですね。

 博多~鹿児島間は約1時間20分ですから首都圏で言えば通勤圏です。九州の観光地は、九州新幹線を使ったパック旅行を熱心に韓国に売り込んでいるようですね。福岡まで海を渡れば、熊本も鹿児島もあっという間です。温泉もゴルフ場も期待しているでしょう。熊本出身の姜尚中さんも、海底トンネルを掘って九州と朝鮮半島を直結するのが夢だという。戦前から東京と北京や満州を結ぶ「弾丸列車」の構想がありましたが、青函トンネルのように、対馬から釜山まで新幹線を通すことも技術的には可能でしょう。設計図も残っていて夢物語ではない。

――それと比較すると、北海道は、鉄道については独特の位置づけになりそうです。

 九州と本州は、関門海峡で隔てられているといっても、ほとんど地続きのようなものです。下関~門司の駅間は6.3キロしかない。関門トンネルも3.6キロと、歩いて渡れるくらいです。山口県の大部分は、朝日新聞西部本社のエリアですね。それに比べると、青函トンネルは50キロ以上あります。青森の新聞を函館で購読している人はほとんどいないし、北海道新聞を青森でとっている人もいない。やはり、北海道は本州とは隔絶された島であって、江戸時代までは蝦夷地と呼ばれた土地です。太古の昔から大陸との窓口になってきた九州の歴史性とは違って、いくらトンネルができて新幹線ができたからといって、本当にそれに見合う需要があるかというと疑問です。しかも、国鉄民営化の前後で多くのローカル線が廃線になった。広大な北海道は基本的にクルマ社会ですからね。

――原先生の『鉄道ひとつばなし』シリーズは、講談社のPR誌「本」で1996年1月号から続く長期連載です。「駅から見た東京に出づらい都道府県ランキング」や「鉄道全線シンポジウム」「廃線シンポジウム」などが印象に残っています。特に前者で見えてきた「隣県との壁」は新鮮でした。新幹線で東京との行き来は便利になっているのに、県境を超える鉄道がものすごく不便になっている地域がある。道州制なんてそう簡単に実現しないんじゃないか、と思わされます。

 まず、東北がそうです。青森と秋田の間の奥羽本線、それに青森と岩手の間、山形と秋田の間、山形と新潟の間などは非常に不便です。また、大分と宮崎の間の日豊本線も「隣接係数」がものすごく高い。そもそも、宮崎県の延岡から大分県の佐伯にかけて、特に宗太郎駅のあるあたりは、ほとんど人が住んでいない地域です。特急は1日上下各10本以上走っていますが、県境を越える普通列車は上下各3本しかない。隣の県の高校が近いから高校生が通うという越境通学の余地さえもない。

――ニーズがないと同時に、意識的にそうしたダイヤを組んでいるのでしょうか。

 まあ、人が住んでいないし、人の流れが元々ないんでしょうね。九州新幹線に対抗して大分と宮崎が連合して何かをする、という話もない。不思議に思いますが、別にライバル意識があって反目し合っているというより、元々お互いに視野にない感じです。宮崎は歴史的にみて鹿児島とのつながりが強いし、大分は瀬戸内海文化圏に組み込まれているせいかもしれません。

――四国もかなり分断されているそうですね。

 愛媛と高知をつなぐ予土線が特に不便です。松山から高知に鉄道で行こうとすると、予土線よりも多度津を経由して予讃線と土讃線を乗り継いだ方が早いですが、それでも4時間あまりかかります。

鉄道を語らなければ日本近代史は語れない

―ここまで、まず東京の沿線文化の話をお聞きして、次に日本の政治と鉄道、とくに新幹線や地方の話を伺いました。もう一つの話題として、日本の近現代史と鉄道の関係について、もう少し掘り下げたいと思っております。キーワードになるのは、やはり天皇の問題とともに戦争や戦後など昭和と鉄道の関係、特に国鉄がJRになっていく過程でしょうか。

 国鉄は戦前の鉄道省を前身として、戦後の1949(昭和24)年に生まれました。戦後の社会的出来事と国鉄との関係は非常に深いですね。まず、発足直後に「国鉄三大事件」と言われた下山事件、松川事件、三鷹事件が起きました。国鉄発足の少し前まで含めれば、疎開や復員、引き揚げ、買い出しに列車を利用するのは当然の光景でしたし、もう少し生活が豊かになれば修学旅行列車や「金の卵」を乗せた集団就職列車の記憶がある高齢者もいるでしょう。特急の女性乗務員の制服姿に人気が出たり、集団就職や出稼ぎで地方から上京してくる、あるいは帰省する光景など、昭和の暮らしと鉄道は切っても切れない関係にありました。鉄道を描写した流行歌もたくさん生まれました。

暴走した電車が脱線し、民家に突っ込んだ「三鷹事件」の現場=1949年、三鷹駅南口で
――「中央公論」2010年11月号では、八代亜紀さんと夜汽車の対談をされていましたね。確かに昭和の鉄道には、今は失われてしまった時代性が濃密にあったと思います。

 1970年代に入るとSL廃止で人気が高まった時期もありましたし、ブルートレインなど夜行列車も含めて、特急や急行が人気を得たり廃止になったりということが繰り返されてきました。たぶん、鉄道という輸送手段が日本人の暮らしそのもの、人生そのものになくてはならない存在でした。大都市でもサラリーマンやОLなら必ず通勤に鉄道を使いました。

 私の持論ですが、日本の町や村には、例えば欧州の教会や広場のような公共的空間がほとんどなかった。では、近代日本における最大の公共的な場所はどこかというと、鉄道や駅がある程度それを引き受けてきたのではないか。駅は最も人の集まる場所でしたし、列車の車内も無条件で他人の視線にさらされる空間でした。普通列車でもボックス席が一般的でしたから、4人掛けの座席で向き合えば目を合わせて会話をせざるを得ないわけです。

 現に、明治政府が日本で最初に駅が出来た頃に、公共的な空間である駅や列車内での振る舞い方について細かく指導しています。例えば、「乗車セント欲スル者ハ遅クトモ此表示ノ時刻ヨリ十分前二「ステーション」二来リ切手買入其他ノ手続ヲ為スヘシ」という具合に。鉄道に乗るという習慣がない人たちには、こうしたことを逐一指導しないと分からない。鉄道は文明開化の装置として、公共心、公衆道徳を育てていく役割を果たし、日本人に共通する集合的な記憶を形づくってきた面があります。

 これは、クルマでは無理でしょう。クルマの記憶は個別的なものでしかない。「昔、家族でドライブして富士山に行った」と言っても、聞いている相手は「ふーん」で終わってしまう。ところが、私が実際に見聞きした例で言えば、昭和のある時期、水俣病の裁判のために熊本から特急「みずほ」や「はやぶさ」に乗って東京まで行ったのは、石牟礼道子さん(作家)も熊本在住の渡辺京二さん(評論家・歴史家)も同じです。鉄道は、結果としてある時代を生きた人々の濃密な集合的記憶を形作るのです。

――クルマの中でカーラジオをかけてしまえば、車窓を見なくても済む。あるいは車中の限られた数人だけ、あるいは家族や恋人だけの会話で最初から最後まで完結してしまう。ところが鉄道だと、身内ではない誰かと触れ合わなければならないですね。

1962年7月、宮崎市と青島を結ぶ軽便鉄道、宮崎交通青島線が国鉄に吸収され日南線になった。「鉄太郎」の愛称で親しまれた蒸気機関車も引退
 そこが決定的に違います。戦前から戦後の高度成長期にかけて、日本の至るところにあった軽便鉄道がなくなってしまいましたが、これは地方をくまなく網羅する路線バスのような存在でした。鉄道はどの地域にとっても身近な存在だったわけです。当時の時刻表を見れば、北陸地方や東海地方は特に軽便鉄道網が発達していた。静岡県には、藤枝と袋井を結ぶ日本一長い軽便鉄道、静岡鉄道駿遠線が走っていました。

――山下清が全国放浪の旅に出た本を読むと、草津と軽井沢を結ぶ草軽鉄道が出てきます。かなりの距離と起伏のあるルートでしたが、もちろん今はない。

 そうした軽便鉄道が1970年代まで存在していました。私は、袋井で軽便鉄道を復活させて街おこしをすればいいと提言しているのですが、現地の老人たちは軽便鉄道が走っていた時代の思い出を実に熱く語ってくれます。それは、個人的な体験ではなくて、ある時代を生きた地域住民全体が共有している話題だからですね。だから熱くなる。

――鹿児島本線の夜行列車に乗って大阪や東京に出てくる、という体験は、その地域の人たちはほぼ100%に近い体験だったのでしょうね。

 八代亜紀とかさだまさしとかタモリとか、鉄道に愛着をもっている九州出身の芸能人はみなそうではないでしょうか。八代さんの場合、それが演歌の世界にもつながっています。昭和の演歌そのものが、ある物語をすべての人が共有するような時代背景を背負っていました。

――夜行列車なら成立しても、夜行の高速バスや空路では難しい。

 あり得ないです。鉄道のようにかなりの距離をそれなりの時間をかけて、とことこ、がたがたと移動する体験には、実はポジティブな意味があったと思います。ある時代までは、汽車に乗ってしまうとそこはもう大きな家のようなものでした。冷房もないから、夏なら乗ったとたんにみんな扇子やうちわを持ってあおいで、男性はステテコ一丁、シャツ1枚になる。駅弁も食べるし、お酒も飲む。ボックス席で向かい合い、互いが十何時間、これから一緒に揺られていく大家族みたいな感覚になるわけです。

――海外の鉄道は、まだコンパートメント式の車両が多いので、そういう気分が多少味わえます。

 昔の日本の鉄道はみんな、そういう感じだったんですよ。そういう記憶を持っている人たちの鉄道に対する郷愁の度合いは強いものがあります。

データ重視の鉄道ブームにモノ申す

――新潮社の「鉄道旅行地図帳」や朝日新聞出版の「鉄道全路線」シリーズなど、ここ数年の鉄道関連の出版物は、歴史を切り口としたものが多い印象があります。

 実を言うと、今の鉄道ブームには少し不満を感じています。というのもデータ重視、つまり地図や写真、ビジュアル化、数値化されたものに偏っている気がします。本当はもっと、鉄道と人間、あるいは鉄道と日本人との関係を深くえぐるような、データや数値や写真に還元されないものに切り込む必要があると思っています。いま出ているようなものを読んで分かった気になってしまうのではなく、それこそ文章によってしか表現できないものを私自身はもっと追求したい。

――原先生は、まさに、文学作品の世界や文学者の人間性を掘り下げるような切り口で、鉄道にかんする問題提起をされていて、沿線文化を背景にした作家の世界を明らかにしています。

 ある時期までは鉄道という移動手段が基本でしたから、宮脇俊三や種村直樹のような鉄道ライターに限らず、近現代を生きた作家や文化人の人生や作品のどこかに必ず鉄道が出てきます。いま読み返すと、驚くべき記述がたくさん出てきて、びっくりさせられます。

 例えば、宮本常一(民俗学者)のある本を読んでいたら、1939(昭和14)年11月20日、つまり日中戦争のさなか、まだ太平洋戦争が始まる前に、島根県の玉造温泉から西へ向かう山陰本線に乗るくだりが出てきます。日本が戦時体制に突き進んでいこうとする時代です。「旅する巨人」とも言われる宮本は、日本全国を回って村々の古老にその村の伝統的な行事や言い伝えを聞いて回っていた。ある時、宍道湖の北にある村で素朴な村人たちと会って話を聞いてきた。ところが同じ汽車に、前の晩に玉造温泉に泊まったとおぼしき一団がどやどやと乗ってきたそうです。彼らは、実に聞くに堪えない話、要するに昨晩遊んだ温泉芸者の品定めを始めたという。宮本はそれを聞いてうんざりする。でも、戦時中であっても、その程度の憂さ晴らしや解放感がなかったわけではないのがよく分かります。

 ケネス・ルオフも『紀元二千六百年』(朝日選書)で言っていますが、1940(昭和15)年だからといってみんながみんな戦時体制だったわけではない。あっけらかんと女の品定めをしているような人たちがたくさんいて楽しく物見遊山をしていたし、おおっぴらに観光旅行もしていた。少なくとも太平洋戦争が勃発するまでは、いまにつながるそうした側面もありました。しかしその一方で、宮本が足を運んだ宍道湖の北の純朴な風俗、醇風美俗みたいなものはもう失われてしまっている。車内に居合わせた人たちの何げない会話や車窓風景を、宮本に限らず、実に多くの書き手が克明にメモしています。

――そうした会話は鉄道だからこそ耳に入る。人々の暮らしの中で、そうした公共的な空間の占めるシェアがだんだん下がってきている気がします。

 東京と大阪の間を6時間50分で結んで、日帰り出張を可能にした電車特急「こだま」が走り始めたのは新幹線が開業する6年前、1958(昭和33)年のことです。このころから国鉄のスピード化が相当な勢いで進んでいて、当時、多田道太郎が「特急の乗客はどうして気軽なお喋りをしないのだろう」と書いています。先ほども言ったように、元々日本の汽車は、乗客が家族のような関係で、あけすけにものを言い合う空間でした。ところが、特急は空調も効いていてスピードも出るので窓を開けない。座席もクロスシートで通路の左右に2席ずつ前を向いている。ボックス席のように向かい合わせじゃないから、しゃべる必要もないし、挨拶も必要ない。多田はそこに違和感を覚えた。でも「何だこれは」と思っていたのは最初だけで、だんだんそれが当たり前になってくる。

――今の新幹線も、特に平日に乗るとビジネスマンばかりで、しーんと静まり返っています。

 少し昔なら比較的長距離の列車はボックス席が当たり前でしたが、今や東海道本線も東北本線も普通列車はロングシートが主流になっている。だから他人と話ができない。それどころか駅弁も食べにくい。酒を飲んでつまみを食べる人もいなくなりました。

――車両内の座席配置という単純な事実のせいで無理になったわけですね。

 大量生産でローコストの車両を導入しようとするから、地域性を無視して、首都圏を走る列車も青森を走る列車もそっくりの車両にしてしまう。ローカル線でも、車内にはずらりとつり革が並んでいる。いったいこのつり革が全部ふさがることはあるのか、といつも思います。地方の実態を理解せずに、どこかの工場で大量生産しているのでしょう。果たして、JR東日本の経営者は只見線に乗ったことがあるのかどうか。JRの幹部は本来、新幹線だけでなく、自社の管内を様々な形で走っているローカル線もぜんぶ乗るべきだと思います。

――日本の成長戦略のためにインフラ輸出に力を入れようということで、新幹線などの鉄道産業が希望の星になろうとしていて車両を製造するメーカーにも注目が集まろうとしています。

 JR東日本は、五能線という究極のローカル線に「リゾートしらかみ」という快速列車を走らせていますが、弘前から秋田の東能代まで景色のいい海岸線を1本で行くのはその列車しかない。各駅停車でのんびり行こうとしても、非常に不便なダイヤが組まれている。仕方なくリゾートしらかみに乗って、地元の乗客が交わすナマの津軽弁も聞けないまま、東京から来た観光客や団体客に混じって津軽三味線の生演奏を聴くハメになる。JRに旅行を仕切られてしまった感じがします。

――生活路線じゃないから、地元で流れている時間や暮らしのリズムが感じられない。

 そうです。それ以外の列車に乗ろうとすると、深浦で1時間以上も待たされる。国鉄時代は、東海道新幹線や東北新幹線が開業してもしばらくは在来線にも特急や急行を走らせていました。在来線の駅が不利益にならないように配慮をしていたんですね。ところが、今は特急を維持するどころか路線そのものをあっさりと手放して第三セクターにしてしまう。国有鉄道の時代は地域間格差に配慮していたのに民営化したことで利益優先になったわけです。静岡県の人たちに「なぜ静岡県民は黙っているのか」とよく言うのですが、東海道新幹線の「のぞみ」は上下あわせて何百本と走っていますが1本も静岡県に停まらない。新横浜の次は名古屋です。なぜ、それに対して誰も何も言わないのか。もし「のぞみ」を静岡県内に停めないなら、少なくとも在来線に県内の主な駅に停まる特急を走らせるべきでしょう。

――「のぞみ」は目的地までピンポイントで運んでくれますから、道中の体験は飛行機と大して変わらない気がします。

 2009年3月に東京発の最後のブルートレイン(寝台特急)「はやぶさ・富士」が廃止になりましたが、上りと下りの両方で面白い体験が出来ました。まず、下りは東京を夜に出発するので最初は外の景色が見えない。夜が明けるのは山口県のあたりで、瀬戸内海の朝がよく見えます。ところが上りに乗ると静岡県内で夜が明ける。東海道を東へ、興津を出たところで右手に駿河湾が現れ、富士川鉄橋を渡るあたりで左手に富士山が目の前に近づいてくる。この朝の風景もまた、とても感動的なんですね。NHK「日めくり万葉集」に出演した時に、田口益人の歌「庵(本当はマダレに慮)原の清見の崎の三保の浦のゆたけき見つつ物思ひもなし」を取り上げたのですが、東国に赴任する国司が、駿河湾を見てほっとする。東海道本線の上り列車に乗れば、それと同じ風景を現代の乗客も目にすることになる。当時の都があった畿内から東に向かう「東下り」の旅を追体験することができるのです。ところが新幹線に乗っても、そうした時間的な想像力を働かせる余地がない。東海道よりも内陸を走っていて、興津から蒲原にかけては長いトンネルで、気がついたら富士川の鉄橋です。

 東海道に当たるルートはヤマトタケル(日本武尊)の東征にも出てくるように、ひょっとすると何千年もの歴史がある。万葉集以来なら千何百年です。それを一瞬で目に出来る。これは東海道本線ならではの体験です。私たちは、こうした営々と何百年、1千年単位で受け継がれてきた「日本人」の共通体験を受け継ぐ必要があります。でも、そうした壮大でゼイタクな体験も、ブルートレインがなくなったことで難しくなりました。

――ましてやリニアが開通したら静岡なんて通らない。JR東海は東海道新幹線の利益をリニア建設につぎ込む構図になるでしょうし、地下のトンネルばかりで、古くからの街道とも全く関係ないルートになります。

 せめて1日1本でもいいから、東京と名古屋の間に在来線の特急を走らせて欲しい。列車のデザインや内装に凝って、特等席やコンパートメントをつくって食堂車をつなげて、オリジナルの駅弁を売る。車内販売も昔の服装でやる。切符も切るし検札も来る。そうして豊かな鉄道旅行を体験できるようにすれば、多少料金を高くしても需要はあると思います。SLを復活させるくらいなら、こうしたアイデアも一考の余地があるんじゃないでしょうか。もう一つ、これも私の時論なのですが、書斎風車両をつくってくれればそこで仕事が出来る。さらにカーナビのような画面を座席につけて、車窓から見える風景をナビゲーションする。つまり、いま見えている山や川の名前や観光地の情報を提供する。「日本鉄道旅行地図帳」(新潮社)が売れるくらいですから、こうした需要は大きいはずです。日本の鉄道には、移動を楽しむという発想が足りないと思います。モーレツサラリーマンの時代はとっくに終わったのに、「移動中の時間はご退屈様でしょうが、いましばらくご辛抱を」と言わんばかりです。

――今後は、シニア層がゆったりした旅行を楽しむ時代ですから、付加価値をつけて充実したサービスを提供してもいいのに、東海道新幹線は「早く遠くへ」というビジネスユースに特化しすぎている、というわけですね。

 東海道新幹線は黙っていてもたくさんの人が乗ってくれる。だから完全に機能性重視で、それでいて利益が上がっている。料金も割高なままです。とすれば、やはり並行在来線に、全く別の発想の列車を走らせてもいいと思います。「1分1秒でも早く着きさえすればいい」というのは「こだま」より速いから「ひかり」というネーミングセンスと同様、高度成長期の発想です。そうした時代の延長でリニアを走らせようとしています。

――最後に、昭和と鉄道の関係のなかでも「特異点」の一つだと思うのですが、天皇と鉄道の話を伺えればと思います。御召列車にはある時期まで、天皇が指示を出せるように「運転制禦表示器」がついていたそうですね。

原 そうです。運転制禦表示器があった明治中期までの時代は、まだ天皇個人の意思が尊重されていました。しかし、その後は表示器がなくなって、天皇の意志ではなくダイヤ、つまりシステムが支配するようになりました。

――明治、大正、昭和の天皇三代にわたって、全国各地を天皇や皇太子が鉄道に乗って、くまなく行啓・巡幸していた。『「鉄学」概論』には、そうした天皇三代の日本地図も出てきます。

 たとえば大正天皇は皇太子時代に、北海道から長崎・熊本まで鉄道で訪れています。まだ鉄道が通っていなかった松江や山口、徳島、高知、大分、宮崎、鹿児島へは、軍艦と馬車、あるいは人力車を乗り継いで行きました。

――なるほど。息子の昭和天皇時代は、どうだったのでしょうか。

 大正天皇と比べて、列車に乗って訪れる範囲は広がりましたが、それも天皇の意志とは関係なく決められていた。そこが昭和天皇と毛沢東、金正日、ヒトラーが違うところです。1940(昭和15)年の「紀元二千六百年」は、日本の鉄道産業ないし鉄道文化にとっても頂点の一つでした。大軌(大阪電気軌道)・参急(参宮急行電鉄)、つまり現在の近鉄が伊勢参りにすごく力を入れて、伊勢神宮、橿原神宮、熱田神宮の3か所をめぐる巡拝ルートを売り出しました。その起点は東京というよりも大阪や京都だったわけですが、『「民都」大阪対「帝都」東京』で書いたように、ちょうどこの時代に大阪が東京に包摂されてしまって中心性を失っていきます。それに合わせて、私鉄も国有鉄道を補完するような役割しか果たせなくなっていく。

――日本の一般の人々にとって、人生に一度はお遍路や日光、伊勢など神社仏閣へ参詣する風土がありました。明治以降の鉄道網の発達も、日光や伊勢、高野山などへの参詣ルートに沿って鉄道が敷かれました。

 そうした鉄道会社の宣伝に乗って、伊勢などを回った人たちは、ある意味でまじめな人たちだったでしょうね。一方で、宮本常一が憤慨したような俗っぽい人たちもいました。永井荷風が『断腸亭日乗』で書いていたように、独ソ不可侵条約が結ばれた1939(昭和14)8月、号外が出ても「通行の若き女等は新聞の号外などに振返るもの一人もな」かった。翌40年5月1日には、「女どもこの日を書入れとなし市外の連込茶屋また温泉宿へ行くもの夥しく」、警察が女給や芸者を取り調べたと書いています。これが本当に戦時体制なのか、と荷風は斜めから見ているわけです。ケネス・ルオフも書いていますが、太平洋戦争が始まるまでは日本社会にも比較的自由な雰囲気がありました。自由に旅行できなくなっていくのは太平洋戦争の開戦後、1942~43年ぐらいからです。1943年2月に「戦時陸運非常体制」による列車ダイヤの改正が行われ、旅客列車が大幅に削減される。軍需物資の輸送が最優先のダイヤなので、不便で旅行したくてもできない。

――そうして、玉造温泉の乗客のようにふまじめな人たちも、否応なく戦争最優先の社会に組み込まれていったわけですね。

 昔の鉄道は、特急や急行、準急も走らせる代わりに普通列車も充実していましたから、たとえば東京から鳥羽や山田(現・伊勢市)まで夜行の普通列車があって、お金のない人はそれに乗っていました。学割の割引率も高かった。今は2割引ですが、戦後のある時期までは半額でした。

――戦後、昭和44年(1969)にいったん等級制が廃止となり、グリーン車ができました。一見すると、等級制がなくなった時代のほうが民主化だと思いがちですが、運賃の安い選択肢があるほうが民主的だという考え方もできますね。

 1等、2等、3等とあっても1等には普通の人は乗らない。だいたいの人は3等でした。列車の区分も急行と普通の間に準急があって、今より細分化されていました。内田百●(門構えに月)は中途半端な2等が嫌いで、行きは1等で帰りは3等に乗りました。ところが、ある種「社会主義的」な時代だったせいか、戦後の国鉄はそうした等級や割引率の高い学割を廃止していきます。特急や急行はともかく、普通列車のグリーン車は横須賀線や東海道本線などごく一部にしかつくらない。ところがJRになると「資本主義化」が進んでグリーン車どころか「グランクラス」までつくられるようになる。新幹線が通る駅と通らない駅の格差も広がって、新幹線の通る駅ビルは巨大化してエキナカが繁栄するといった露骨なまでの商業主義が蔓延していく。これは国鉄時代には考えられないことでした。

――そうした戦後の社会主義化と、その揺り戻しとしての資本主義化という時代背景があったにもかかわらず、昭和天皇の晩年から平成の天皇の時代にかけては、天皇制と鉄道の関係が一貫して見えにくくなってきている気がします。

 それは、やはりモータリゼーションの進展と関係があります。昭和時代なら多摩御陵(現・武蔵陵墓地)、那須御用邸や葉山御用邸へ行くのは鉄道を使いました。ところが、今では那須なら新幹線を使いますが、大正・昭和両天皇をまつる武蔵陵墓地や葉山への交通手段は車です。鉄道は必ずどこかの駅で乗り降りするわけで、沿線も含めて、より多くの人の目に触れることになる。ところが車だと、ほとんど人目につかないところまで運んで行ってくれる。つまり、天皇の姿が国民にとって本当に見えにくくなっています。

 交通史的に日本と米国を比較すると、ある時期までは非常に似ています。つまり、米国でも鉄道網が発達した時代がありました。大都市間でもインターアーバンという電気鉄道が張り巡らされたのですが、これは東京や大阪で私鉄が発達した時期とほぼ重なります。明治末期~大正初期、20世紀の初めのことです。ところが、米国の電気鉄道の時代は長続きしませんでした。第1次大戦後の戦間期になるとモータリゼーションが始まって、インターアーバンがしだいに消えていく。1961年までに最大で1700キロあった鉄道網がすべてなくなってしまったロサンゼルスがいい例です。日本でモータリゼーションが本格的に始まったのは戦後の高度成長期以降だったので、鉄道網が維持されました。地方では軽便鉄道や赤字ローカル線の多くが廃止されてバスや自動車に置き換わりましたが、東京や大阪などの大都市では今でもほとんどの通勤客が鉄道を利用していて、私鉄網が維持されています。

――それは、道路網が整備されないうちに、あっという間に東京一極集中が進んでしまって、渋滞がひどかったせいでしょうか。

 それに加えて、住宅事情の問題も大きいでしょう。日本の大都市は空襲で徹底的にやられたのが米国とは違います。住宅不足が深刻化したので日本住宅公団などが集合住宅を建てなければならず、その点では米国ではなくソ連に近かった。でも、そうした鉄道が健在だった日本の東京近郊にも米国型のショッピングモールがどんどんできています。

――人口減少時代に入ると、大量輸送に適した鉄道がどうやって生き残っていくかが大きな問題になると思います。

 だから、今までのようなスピード最優先で所要時間を短縮するだけではダメでしょう。何時までにどこに行く、なるべく早く移動したい、という時代ではない。そうした時代の利用者が何を求めるかというと、他の交通手段にないものを探すしかない。先ほど言ったように、移動する空間を楽しむという発想が必要だと私は思います。JR九州は、そうした時代への適応を考えていて、水戸岡鋭治さんというカリスマ的なデザイナーが斬新なデザインの車両を九州各地に走らせています。

――一方で、若い世代が中心だと思うのですが、比較的体力があるせいなのか、全線乗りつぶしや完全乗車のブームもあります。鉄道に限らず、GPSの発達によってチェックイン機能やソーシャルな位置登録ゲーム(位置ゲー)が人気を得ています。でも、これは原先生のおっしゃるような移動の時間や過程そのものを楽しむ感覚とは少し違いますね。

 全部の駅に降りたとか全線乗りつくしたというのは、マニア的な発想ですね。たとえば秘境駅ブームの背景には、絶対に車では行けない、鉄道でしか行けない駅という価値があります。「車に乗ればどこでも行ける」というモータリゼーションの暗黙の前提をくつがえすからこそ価値がある。だから、モータリゼーションが届かない駅があるという発見自体は重要ですが、秘境駅ブームに足りないものがあるとすれば、「今どれほど秘境駅になっていても、かつてはそこに人が住んでいた」ということです。そこに暮らしている人がいなければ駅なんてできない。若い秘境駅マニアには「今だけを見るな」と言いたい。つまり、その駅ができた当時の状況や当時の街の様子を想像しないといけない。

――廃線ブームも同じ構図かもしれませんね。そうした想像力を働かせるには、前提となる知識や発想が相当ないとできない。大人しかできない鉄道体験かもしれません。

 この点でも、道路と鉄道は決定的に違います。つまり、道路は舗装されたりトンネルができたり新しい鉄橋ができたりして、風景ががらりと変わります。いくら同じ甲州街道と名乗っていても、実際はバイパスなど旧道と違うところを走っている場合が多い。ところが、鉄道のレールは、路線の付け替えをしなければ、ひょっとしたら100年以上同じ場所に敷かれていることすらある。たとえば函館本線の小樽~札幌間は、小樽築港を出て石狩湾が見えてくるあたりで、岸壁のように狭い陸地を走ります。特に張碓(はりうす、2006年廃止)や銭函のあたりの風景は、明治13年(1880)の開業以来、変わっていない。明治末期に石川啄木が感激したのと同じ風景を私たちも見ることができるのです。レールをはぎ取っても、しばらくはその跡が残っていますし、御殿場線のように、現在使われているトンネルの隣に古いトンネルがぽっかりと口をあけていたりする。今は単線の御殿場線は、戦時中に鉄が必要になって複線のうちの1本を取ってしまったのですが、複線時代の跡として化け物屋敷のようなトンネルの入り口が各所に残っています。

――たまたま御殿場線に乗った人であっても、少し考えればそうした歴史に気がつくかもしれない。流行りの言葉でいえば貴重な「産業遺産」が列島各地に残っているわけですね。

木造駅舎の嘉例川駅(鹿児島県霧島市)
 JR九州はそうした遺産をうまく利用していて、肥薩線の人吉~吉松間に「いさぶろう」(下り)「しんぺい」(上り)という観光列車を走らせています。これは、それぞれ山縣伊三郎(山縣有朋の養子で元逓信大臣)と後藤新平にちなんでいます。この路線はもともと鹿児島本線の一部だったのが、海側の路線が開通したことでローカル線に転落してしまったのですが、鹿児島本線だった時代のトンネルや駅舎がそのまま残っていて、それを観光に活用しています。スイッチバックやループ線、日本三大車窓の一つに数えられる矢岳越えなどの他、嘉例川とか大畑といった有名な駅舎もあるので、わざと駅で長く停まったり、ゆっくり走って要所要所で車内アナウンスで観光案内をしたりする。こうした「鉄道遺産」を見せる列車が現に人気を博しているわけで、JR東日本もこれを見習って、上越線の水上~越後湯沢間の清水トンネルに観光列車を走らせればいい。今の上り線を下り線にすれば川端康成の『雪国』を体験できます。でも、今あの区間を走っている各駅停車は1日上下各5~6本しかなくて、とても閑散としています。

――水上までSLを走らせるくらいなら、やってもいいアイデアですね。

 石打と水上の間は、長いトンネルにSLを走らせると、一酸化炭素中毒で機関士が死ぬ可能性があるというので、清水トンネルが開通した昭和6年(1931)からEL(電気機関車)を走らせていました。清水トンネルの長さは10キロ近いですからね。その当時、大都市近郊でなければ電化されていなかったのに、例外的に山岳地帯のトンネルを電化した。そうした近代史の勉強もできます。鉄道を学ぶこと、イコール日本の近代史の生きた教科書になるわけです。

――それこそ、小中学生の修学旅行などにそうした日本の近代史を学ぶメニューが組み込まれるべきかもしれないですね。バスで移動したり、飛行機で海外に出したりするよりもむしろ国内を鉄道で移動すべきかもしれない。

 「工場萌え」「団地萌え」のような人工的な美に関心が集まっている時代ですから、小学校の遠足が鶴見線沿線でもいいかもしれません。京浜工業地帯の歴史が学べます。

――こうしてお話を伺っていると、今後の日本の鉄道は日本経済とともに、じり貧になって衰退していくだけではない。むしろ老いも若きも豊かな鉄道体験をはくぐむ可能性が十分にあるというのが結論になりそうです。これは、新幹線のようなインフラ輸出に限らず、もっと高付加価値のサービスを開発して生きていかなければならないという一例にもなるように思います。日本の鉄道業界は、単に時間に正確な運行システムや、高性能で長持ちする性能のいい鉄道車両を輸出するだけでいいのかどうか。

 「週刊東洋経済」や「週刊エコノミスト」のように、経済的な問題として鉄道を論じる立場が一方でありますが、他方で「鉄道」を冠した趣味系の雑誌は少なくないですし、秘境駅などマニア的な関心も高い。でも実は、その中間にある膨大な領域にこそ、まだ論じられていない鉄道の豊かさがあるではないかと私は思っています。明治時代から今日に至るまで、特に鉄道にこだわることもなく、ふつうに乗っているだけだった人たちが紡ぎだす物語や文化を、私たちは考えなければならない。

――ウェブロンザが属している「asahi.com」でも、朝日インタラクティブの「鉄道コム」と連動した「鉄道」コーナーがアクセスの集まる人気コンテンツとされています。でも、マニア向けの情報、たとえば列車の引退や路線の廃止イベント、新型車両の登場といったニュースに注目するだけではいけないですね。

 1872(明治5)年に鉄道が開業してから今日までの間には、膨大な数の輸送人員、あるいは乗客が体験した時間があるわけです。寝台列車が消える、新幹線が開業するといった一過性のイベントに光を当てるだけでなく、そうしたものに還元されない日常性が鉄道によって形作られていることに注意する必要があります。今年3~4月の連載「鉄道ひとつばなし」では新機軸を打ち出そうとしていますが、それは、本当にどこにでもいそうな実在する人物の体験したであろう固有の鉄道体験を、小説のように書いてみようというものです。多摩ニュータウンの団地に住んでいる65歳の男性が、新宿21時15分発、唐木田行きの小田急の特急「ホームウェイ」に乗った時に、発車前の新宿駅で目にする風景や、隣のホームに急行が止まっているのを見ながら缶ビールを飲む心境を想像して書いてみました。

――「ホームウェイ」の話は『鉄道ひとつばなし2』や『同3』にも登場しますね。おそらくニュースにはなりにくいし、マニア的なニーズにもビジネス的ニーズにもつながらないけれど、最も普遍的で誰でも体験する可能性がある。しかもそれが社会的、歴史的に意味がある。そうした鉄道体験を見過ごしてはいけないですね。

 横浜市内の自宅に帰る際に、わざと小田急の特急に乗って新百合ヶ丘まで行ってタクシーに乗って帰ることがあります。そうしてたまたまその電車に乗ったことがあるのですが、そうすると自分以外の誰かの人生や日常を体験したようで、とても新鮮です。小田急は新宿駅のホームが特急用と急行、各駅停車用に整然と分けられていて、特急のホームには特急の乗客しかいない。定員が少ないうえにホームに売店があるので新聞や雑誌、弁当やビール、おつまみを買って、わずか400円プラスするだけで最大40分の乗車時間をゆったりと過ごすことができる。新宿の次は新百合ヶ丘まで停車せず、小田急永山、小田急多摩センター、唐木田と停まるので、これはほとんど多摩センターの住民のためのサービスのような列車です。ところが、隣のホームの急行は通勤時間ともなるとごった返していて、しかも代々木上原、下北沢、成城学園前、登戸と順に停まっていく。成城の高級住宅地の一戸建てに住んでいる人も、少なくとも新宿と成城の間はすし詰めになるしかないわけです。ところが特急のホームの人は築40年、3DKの家に住んでいるかもしれないけれど、少なくとも車中の快適さでは成城の人に勝っている。

――鉄道会社の関連会社が開発した分譲地や団地、マンションに住んでいる人に、毎日30~40分の良質な時間を用意する。沿線住民に対するサービスとして、とてもいいアイデアですね。

 そうです。厳密には小田急グループが開発している宅地は、栗平やはるひ野など多摩ニュータウンの手前ですから、そこの住民たちのほとんどは新百合ヶ丘で降りてしまう。新百合ヶ丘を過ぎると乗客のほとんどが団地の住民になります。永山、多摩センター、唐木田の乗客はほぼ団地住民といってもいい。彼らにとって、新宿駅での発車前の数分間ほど至福の時はない。そうした構図が見えたときには、とても感激しました。これはたとえば東急の田園都市線ではありえない。二子玉川だろうが青葉台だろうが中央林間だろうが、みんな同じ混雑した電車に乗らなければならない。そこにあるのは乗車時間が長いか短いかの違いだけですから、誰しも二子玉川で降りる人がうらやましい(笑)。小田急のような逆転現象が生じようがないわけです。でも、北千住や大手町始発で千代田線から乗り入れてくる小田急のメトロホームウェイのように、東武が東京スカイツリーを完成させた勢いで、半蔵門線直通で渋谷や大手町始発の列車を走らせれば面白いことになります。渋谷駅では、1番線にすし詰めで乗り切れない急行中央林間行きが入り、2番線にゆったりした座席指定の特急南栗橋行きが入ることになるかもしれない。そうすれば、双方の鉄道や沿線のイメージも変わるでしょう。

――そうなると、東京の街の「序列」というか構造が逆転するかもしれないですね。東武では、既に特急「スペーシア」がJR新宿駅に乗り入れていますね。

JR新宿駅の東武鉄道スペーシア
  ええ。ひょっとすると東武には壮大な深慮遠望があるのかもしれません。2012年に副都心線が乗り入れると東横線は田園都市線と同じ状況になります。しかも座席指定の特急もグリーン車もない。サービスの切り下げが続くと、東急的な戦略を東武的な発想が逆転してしまう時代がくるかもしれません。現に、沿線住民としては、田園都市線のイメージが以前ほど高くなくなってきているのを実感します。はっきり言えば、それでも田園都市線沿線に住んでいるのは、教育熱心で、旦那さんより奥さんの発言権が強い世帯です(笑)。子どもをいかにいい学校に入れることに熱心な奥さん方は、通勤ラッシュを体験しないから電車が混んでいようが関係ない。しかも教育費がかかっていて住宅ローンも組んでいるから簡単には引っ越せない。青葉台のブックファーストでは売れ筋がほかの店舗と明らかに違っていて、英才教育の関連書籍がよく売れるといいます。

――個人的には、モノトーンというか同じような境遇の家族同士で競争していると、とてもツラい気がしますが…。

 うちは横浜線の十日市場にも出られるので、新横浜に近く、名古屋や大阪に行くのは便利です。羽田も比較的近い。埼玉や千葉の人とは所要時間が2時間ぐらい違うでしょう。実際、実家のある千葉より名古屋のほうが近く感じます。

――イメージはいいし、生活文化も豊かなように見えるけれど、東京の城南地区に住むメリットは何か。どの沿線に住むのが自分にとってのメリットなのか。また、そもそも鉄道旅行にせよ通勤時間にせよ、どういった鉄道体験が自分にとって豊かと言えるのか。誰しももう一度、考え直したほうがよさそうですね。今日は長時間、ありがとうございました。