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竹島紛争と日韓関係の「温度差」――「韓流」ブームの効用

櫻田淳 東洋学園大学教授

 竹島に近接する韓国・鬱陵島を視察するために韓国を訪問しようとした新藤義孝、稲田朋美、佐藤正久の三議員が入国を拒否された一件は、竹島領有権紛争に絡む日韓両国の「温度差」を象徴しているところがある。この「温度差」を考える際には、次に挙げる二つのことを踏まえる必要があろう。

 第一に、領土や歴史認識は、近代国民国家という「仮構」を成り立たせる条件に結び付くものであるから、それに絡む日韓両国の「摩擦」が容易に解消されるという期待は、余り意義のあるものではない。領土は、その「仮構」の及ぶ範囲を指しているのであるし、歴史認識は、その「仮構」を支える国民統合の「物語」の核を示している。米国独立の「物語」の核が、「国王への謀叛ではなく、自由を得るための独立」という認識にあることを踏まえれば、その意味が明瞭であろう。

 竹島に類する領土や歴史認識に絡んで韓国の対日姿勢が激越なものになるのは、それが日本の植民地支配からの解放が近代国民国家としての原点であるという韓国の「物語」に直接に結び付いているからである。

 もっとも、日本もまた、明治以来、近代国民国家としての歩みを刻んできた。「竹島が日本領土である」という日本の立場は、そうした歩みの反映でしかない。新藤らを含めて日本で「保守・右派」と位置付けられる政治家や知識人の認識の特色は、六十余年前の戦争や占領を通じて、明治以来の日本の近代国民国家としての枠組が著しく棄損されたが故に、その枠組の修復を図らなければならないというものである。彼らは、その修復のためにこそ、憲法改正を唱え、領土や歴史認識に政策上の強い関心を抱いた。新藤らは、実は韓国政府やメディアと同様に、近代国民国家の枠組の意義を強調しながら、振る舞っているのであろう。

 それ故にこそ、鬱陵島を視察しようとした彼らの行動は、韓国の論理と真っ正面から衝突せざるを得ない。韓国メディアが新藤らを「極右」と呼んで非難したとしても、そのこと自体に建設的な意義があるわけではない。実際、もし、領土や歴史認識に関して韓国政府の主張に沿わない姿勢を採る日本の政治家や知識人を「極右」と呼ぶのであれば、筆者もまた

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