2012年01月31日
オフレコ問題は他にも枚挙にいとまがない。そうした現実を踏まえ日本新聞協会は1996年2月に「オフレコに関する日本新聞協会編集委員会の見解」(注5)を出している。この見解は直前の1995年11月に起きた江藤隆美総務庁長官のオフレコ発言問題(注6)がきっかけでまとめられた。
「見解」はまず江藤長官のオフレコ懇談の内容が何らかのルートで韓国メディアに流れたことについて「取材記者の倫理的見地から極めて遺憾である」としている。「オフレコ」については、「ニュースソース(取材源)側と取材記者側が相互に確認し、納得したうえで、外部に漏らさないことなど、一定の条件のもとに情報の提供を受ける取材方法」と定義している。そして「取材源を相手の承諾なしに明らかにしない」ことを重視し、その約束を守ることについて道義的責任があるとしている。
また、安易なオフレコ取材を慎むよう指摘しているが、「オフレコ取材は、真実や事実の真相、実態に迫り、その背景を正確に把握するための有効な手段で、結果として、国民の知る権利にこたえうる重要な手段である」と積極的に評価している。
はっきりと明示はしていないが、この見解はオフレコ取材の多くが記者クラブを中心に行われていることを前提にしている。記者クラブと取材対象者の間では様々な形でオフレコの約束が成立しており、それを具体的に一般化することは難しい。だから「見解」は「一定の条件」という以上に具体的な内容に踏み込んではいない。また、一部のマスコミがオフレコの合意を破った時の対応についても「道義的責任がある」としか言いようがないだろう。
現実に違反行為があった場合、記者クラブへの出入り禁止などの措置をクラブ単位で講じているケースがある。ただし、あくまでも記者クラブの自主的判断であり、新聞協会が具体的なガイドラインなどを示して実施の徹底を求めているわけではない。
それは、大原則としての「表現の自由」、つまり「取材の自由」が憲法で保障されているからであり、それに対して新聞協会の見解で一定の制約をかけることは難しい。その結果、この見解が出た後も「オフレコ取材」は記者クラブを舞台にますます増え、「オフレコ報道」をめぐる混乱は頻発している。
●あるべき「オフレコ」とは
有料会員の方はログインページに進み、デジタル版のIDとパスワードでログインしてください
一部の記事は有料会員以外の方もログインせずに全文を閲覧できます。
ご利用方法はアーカイブトップでご確認ください
朝日新聞社の言論サイトRe:Ron(リロン)もご覧ください