WEBRONZA編集長 矢田義一
2012年06月01日
三谷太一郎・東京大学名誉教授が5月28日、東京・内幸町の日本プレスセンターにおける日本記者クラブ2012年総会記念講演会で、『冷戦後の日本の政治』と題して講演した。「非組織化の時代」をキーワードに、今日の日本が陥っている苦境がどんな文脈の中に位置づけられるのか、分かりやすく解説している。その概要を紹介する。
1)冷戦後の政治の始まり
ベルリンの壁の崩壊と当時は注目されることもなかったアルカイダの結成に象徴される1989年の冷戦の終焉とともに、日本においても冷戦後の政治が始まった。その現れが前年来表面化していたリクルート事件の波及による竹下内閣の瓦解とその後の7月の参院選における自民党の大敗であった。それは冷戦下の日本の政治を支えてきた自民党の一党優位制(党内的には一派優位の下での派閥連合体制)の解体と常に不安定要因を孕む今日の連合政治の端緒であった。
2)90年代における55年体制の崩壊――憲法第9条と日米安保との乖離
さらに90年代に入ると、冷戦下で憲法第9条と日米安保条約との両立によって機能してきた自社両党並立の55年体制の崩壊が、93年の宮沢内閣下の衆院総選挙における自民党の過半数割れと社会党の大敗によって決定的となった。これ以後安保の変質が始まり、国際状況の変化とともに、安保の軍事同盟化が促進され、憲法第9条と安保との乖離は顕著となった。
3)冷戦体制を成り立たせた最重要要因としての経済的要因
このように冷戦後の日本の政治に変化をもたらしたさまざまの要因のうちで、おそらく最も重要なのは経済的要因であろう。日本の冷戦体制においては、その安定化要因として最も重視されたのは経済的要因であった。そのことを示しているのが、冷戦戦略の一環として打ち出された1948年以降の対日占領政策の転換である。当時の米国国務省政策企画室長(Chief of Policy Planning Staff)ジョージ・F・ケナン(George F. Kennan)は、それを対ソ封じ込め政策(containment policy)の概念によって根拠付けた。ケナンは対ソ戦争を回避しながら、米国の対ソ安全を保障するためには、資本主義諸国の活力を再生させ、ヨーロッパおよびアジアにおける力の均衡を回復することによって、ソ連の膨張を封じ込めなければならないと考えた。それはかつて対日戦争を回避しながら、日本の膨張を封じ込めることができなかった1930年代から40年代にかけての米国の対日政策への反省に発していたといえよう。
その観点から、ケナンはヨーロッパにおける西ドイツ、アジアにおける日本の経済復興が最重要であると考えた。ケナンは日本の経済復興が実現し、沖縄をはじめ太平洋諸島に沿った米軍の基地網によって日本の安全が保障されている限り、ソ連の対日侵攻の可能性は低く、日本本土に大規模な軍事力を維持することは必要ないという見解を持っていた。これが憲法第9条と安保を両立させる米国の対日政策の基本方針であった。
以上のような経済復興を最優先する対日政策とともに浮上してきたのが、日本を経済的中心とするアジア地域主義構想である。ケナンとともに占領政策の転換を主導した米国当局者(とくに財界出身の陸軍次官ウイリアム・ドレーパー William H. Draperやその側近)らが、日本の経済復興の原動力として考えたのは輸出産業であり、それを再建するには、低廉な原料供給地および輸出市場として非ドル地域であるアジア地域を日本のために宅補することが必要であると判断した。そしてそのことが非共産アジア地域を共産化から保全する冷戦戦略の目的に貢献すると考えた。つまり日本の経済復興は日本だけでなく、非共産アジア地域全体にとっての安全保障を意味するという認識がアジア地域主義構想の基本的な動機であった(現在の中国への対抗力としてのTPP構想ともつながる要素が認められる)。
4)第二次日米安保の経済同盟的側面
さらに日本の冷戦体制における経済的要因の重要度を増大させたものとして挙げられるのが、1960年の改訂による日米安保の経済同盟的側面の強化である。すなわちこの改訂によって新たに挿入された条約前文および条約第二条は、日米経済協力の重要性を特にうたっていたが、それを60年安保に取り入れたのは、日米双方にこれを必要とする理由があったからである。
日本側には、安保改定は安保の軍事同盟化(したがって憲法第9条の否定)に通じるという反対世論が強く、これに対抗して安保改定を推進する政府・与党にとって、安保第二条の経済条項は、安保の非軍事的側面を示すものとして必要であった。同様の認識は米国側にも共有されており、安保改定後後のエドウィン・ライシャワー駐日大使人事とともに、日米関係の経済的文化的側面をより重視して行こうとする米国政府の意向を反映したものと見ることができる。こうして経済条項を挿入した安保改定後、事実として日米経済関係の発展を加速する池田内閣の下で高度経済成長が始まるのである。
かつて吉田内閣の下で対米協調の見地からドッジ・ラインに沿う緊縮財政(いわゆる超均衡財政)を推進し、米国側の強い支持と高い信用をかちえた池田は、第二次安保後の新しい状況の中で、同じ対米協調の見地から一転して逆に財政規模拡大による高度経済成長を演出するのである。
5)冷戦の終焉による日米経済関係の変化
以上に見たように、冷戦下の日本の経済成長は、米国の冷戦戦略によって助長・促進されたものであり、それが日本における冷戦体制の主力である自民党の一党優位を支えた。その組織的基盤が経済成長への強い目的意識をもった政官業複合体であった。ところが冷戦の終焉に伴って、当然に米国の冷戦戦略が目的としていた友好国の経済成長を重視する時代は終わった。日米経済関係は、協調関係から競合関係に変わった。米国は日本の輸出力を抑え、輸入の拡大を求めるとともに、グローバル・スタンダード(アメリカン・スタンダード)による市場経済の確立と経済自由化を求めた。米国の日本に対する要求は国内産業保護政策に向けられただけでなく、それを生み出す政治経済構造(特にその中枢部分である政官業複合体)の変革にまで及び始める。
そもそも経済のグローバル化とは、冷戦後東西のイデオロギー的な壁のみならず、南北の経済的な壁が取り払われ、中国・ロシア・インド・中南米を含む広大な地域の膨大な人口が市場経済に参入することによって引き起こされた世界的規模に及ぶ産業構造の巨大な変化を意味する。それが現在の世界的金融危機とそれに伴う世界的経済危機をもたらしている原因でもある。冷戦後の日本経済の苦境は、冷戦下において政治的に保障されていた東南アジアや南アジアの輸出市場が経済的自立化を遂げ、逆に豊富で低廉な労働力と先進国からの直接投資による最新工業設備との結合が生み出した強い競争力をもって日本を輸出市場化しようとしている状況から生じているのである。これがかつての南北の壁が撤去されたことの意味であるそしてこれが1989年に起きたベルリンの壁の崩壊の結果でもあった。
6)自民党の組織的基盤の崩壊とその後の状況への対応
こうして冷戦下において、グローバルな市場経済の圧力を極力遮断することによって培養され、維持されてきた官僚機構および自民党族議員の業界に対する影響力は相対的に低下し始めた。また自民党を支えてきた政官業複合体への依存度の高い業界(建設業界、農林水産業界、金融業界など)が弱体化した政官業複合体が全体として縮小傾向にあることは否定できない。
これに対応して、冷戦後の日本において行われたのは、市場経済に適合した新しい政治経済構造を模索するさまざまの制度改革の試みであった。選挙制度改革、行政改革、金融改革、地方分権改革、司法改革などがそれである。また韓国や中国のとの「歴史認識」の共有を志向する国際共同研究も、広くいえばそのような試みの一環といえなくはない。それらの制度改革の結果が果たして有効・適切なものであったかどうかはどもかくとして、それらの試みが冷戦後の日本の状況の変化を反映していることは間違いない。またこの他に教育改革といわれるもの(国旗・国歌法の制定とか、教育基本法改正とか)があるが、これはどちらかといえば、グローバリズムへの反動と見られるのである。
7)冷戦後の日本の政治の不安定化要因――「無党派層」の繁茂
政官業複合体の縮小に伴って、それから離脱した選挙民、あるいは本来それに属していない選挙民、すなわちいわゆる無党派層が増大し、場合によっては与党支持層を上回るにいたったという事実は、冷戦後の日本の政治を動かす重要な要因となった。しかも、冷戦下で開発された軍事技術の重要なものが民間用に転用された。テクノロジカルトランスファーという現象が冷戦後に起きた。
その最たるものがインターネットである。本来、冷戦のもとで開発された軍事技術の一環であるインターネットというものが冷戦後、民間用に転用された。しかも、これが無党派層に表現の媒体を与えた。つまり、政治的な発言力を与えた。冷戦下に開発された軍事技術というものが、冷戦後に無党派層の政治的発言力を与えたことは非常に重要なことであるというように私は思っている。こうして、いかなる政権も無党派層の支持なしには成立しえない。そこで無党派層の動向を示す浮動的な世論調査の結果が政権の存立を左右することになりかねない。冷戦下の強固な組織的基盤に支えられた一党優位の現実は、すでに過去のものとなった感がある。
8)両院縦断組織の解体と「非組織化の時代」
一党優位制の解体は、1989年以来二院制の実質化(いわゆる「ねじれ」現象)をもたらした。すなわち冷戦後は衆院総選挙の結果は、必ずしも3年に1度行われる参院選の結果に反映しない。旧憲法下の実質的二院制(衆院多数派と貴族院多数派の不一致)が現憲法下において再現しているのである。これは、同じ議院内閣制をとる形式的二院制下の英国との大きな違いである(もっとも英国でも最近二院制に実質的意味を持たせようとする上院改革の動き、たとえば公選制の拡大の試みもあるようである)。
こうした実質的二院制をもたらした無党派層の増大は、単なる政治現象ではなく、あらゆる分野での組織一般の分断化・弱体化の現れではないかと思われる。かつて経済成長が始まろうとしていた1950年代末(いわば一党優位性の「原畜」期)に、ある政治学者は同時代を形容して「組織化の時代」と呼んだ。それは業界団体が群生し、次第に政界や官界との接触を始めた時期であり、「圧力団体」というもっぱら政治学者の間で使われていた用語が一般化した時期でもあった。その時期がまさに自民党の一党優位を支える政官業複合体が形成された時期(岸信介内閣期)であった。
ところが今や政官業複合体の縮小とともに、「非組織化の時代」が訪れつつあるのではないかと感じられる。特に企業の社会的機能の縮小に伴う「集団主義」的傾向の弱体化が「非組織化の時代」を強く感じさせる。「集団主義」が日本の文化的特徴であるといわれた時代は去った。それは冷戦後の日本における政治を含む文化全体の変容の兆表であろう。
9)明治20年前後の日本における「将来之日本」(徳富蘇峰)と現在の日本における「将来の日本」
明治19年に当時の最先進知識人で、若きジャーナリストあった蘇峰徳富猪一郎は、ベストセラーとなった『将来之日本』を刊行した。それは、当時のヨーロッパの社会経済的変化について次のように書いている。
「商業の進歩は……一の咄々驚くべきの現象を発出したり。何ぞや曰く、信約(信用)機関の発達、是也。彼の信約なるものは実に近世文明の一大事業にして若し之を前世期の人に告げば渠輩は此の如き機関は『アランビアン、ナイト』の小説にこそあらんと冷笑す可し。実に此の機関の奇巧快活なる決して今世紀(19世紀)の人にあらざるよりは……了解する能はざる所のものなり。所謂負債なるものは一種の富にして社会には負債の売買を以て一種の商業を営む銀行者なるものあり。而して此の信約の機関の商業世界に於ける尚蒸気機関の運動の世界に於けるが如く尤も絶大の働きをなるもの也。即ち彼のダニエル、ウエブストルは云はずや、「信約なる者は近世商業の大活気と云はざる可らず。之が為に各国を富ますや、全世界の礦山より採取する所の金銀に比するも幾千倍なるを知らざるなり。之が為に勤労を励まし、製造を熾にして海外の通商を突飛せしめ、各人民各王国、若くは各小種族をば互に相接近せしめ、互いに相交際せしめ、以て知音とならしめたり。之が為に精鋭なる陸海軍を整理し唯兵数に依頼するの暴力に勝たしめ、之が為に国家の勢力なるものは一国の才智と富栄と及び其道を得たるの製造等の基礎によりて巍立せざる可らざしめたり。」
「もし其実を知らんと欲せば彼の万国信約の問屋とも云う可き英京ロムバルト街に行て之を見よ、実に欧州の生活社会の進歩は吾人の喋々するを俟たず。」
「彼の明治十五、六年の頃佛京に滞在したる吾在野の政治家板垣退助氏曰く「余の佛国にあるや、同国の学士アコラス氏を訪ひしに氏は余に向けて子は欧州に来りて事物を観察し如何なる感覚を発したるや問はれしに付、……今回余が最も驚愕したる所のものに二あり。其一は生活社会の大に進歩したること是なり。其二は生活社会に比すれば政治社会の大に進歩せざること是なり。」「アコラス氏は大に余が此言に感じて曰く……欧州は生活社会は進歩したるも政治社会は大に進歩せず。故に十九世紀に於いて最も宜く改良すべきは政治社会なりと云うに在り。左れば子が観察は寔に能く我欧州の現状を看破したりと意外の賞讃をうけたり。」
(※以上、青文字は三谷氏が強調した部分)
「寔に然り……則ち彼の欧州なるものは其昔時に於ては政治社会を以て生活社会の進歩を促し、経済世界の交際を以て政治社会の割拠を打破り生産機関を以て武備機関を顛覆するは早晩避く可らざの命運と云はざる可らず。」
ギリシャ・スペイン・イタリア、さらにはフランスにも及ぶ事例に見られるようなヨーロッパ諸国において金融不安・金融危機(あるいは財政不安・財政危機)が政治不安・政治危機に連動しつつある現状は、現在から見た「将来之日本」ともつながっていると思われる。それは、ヨーロッパ列強をモデルとしていた明治前半期の日本から見た「将来之日本」へのオプティミズム(あるいはアメリカをモデルとしていた60数年前の戦後日本から見た「将来之日本」へのオプティミズム)とは対照的である。
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◆三谷太一郎氏(みたに・たいちろう)
1936年生まれ。東京大学名誉教授(日本政治外交史)。大正デモクラシーの研究から、日本で政党政治が確立した背景を分析。戦後の日本政治の位相を明らかにした。2011年秋に文化勲章。同年の新渡戸・南原賞も受賞した。著書に『大正デモクラシー論』『ウォール・ストリートと極東』など。
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