メインメニューをとばして、このページの本文エリアへ

政権が変わっても森本敏防衛大臣を再任せよ

小谷哲男 小谷哲男(NPO法人岡崎研究所特別研究員)

 6月4日の内閣改造により、民間から森本敏・拓殖大学大学院教授が防衛大臣として入閣した。野田佳彦内閣になってからはすでに3人目の防衛大臣である。思えば、野田政権にとって防衛大臣のポストは鬼門であった。最初の一川保夫大臣は「素人」を自認し、後任の田中直紀大臣はしどろもどろの答弁を国会で繰り広げた結果、ともに問責された。田中大臣に対するクイズまがいの質疑は、国民の失笑とため息を誘ったものである。

 しかし、森本新大臣は誰もが認める安全保障のプロである。野党自民党にとって森本大臣は師匠も同然で、これまでのように防衛大臣の資質を問うことは難しくなるだろう。民間人が防衛大臣になることに対する批判もあるが、憲法上も文民統制上も問題はない。少なくとも防衛大臣のポストに関しては、野田首相が掲げる「適材適所」が実現したと評価できる。

 だが、野田政権の防衛省人事は、防衛大臣には防衛の知識が必要だという風潮を生み出してしまった。鳩山由紀夫・菅直人両内閣で防衛大臣を務めた北沢俊美・参議院議員は安全保障の素人であったが、2年にわたって大臣の職に留まり、その間普天間をめぐる迷走で指導力を発揮し、防衛計画の大綱も策定した。北沢元大臣が、現場の自衛官に対する理解が乏しかったことは否めないが、防衛省内局に対しては大きな影響力を持っていたし、国会対応もそつなくこなした。

 一川・田中両大臣に関しては、防衛知識の欠如そのものよりも、最低限の国会対応もできない政治家としての資質が問題だったのである。防衛大臣にある程度の防衛に関する知識が必要なことは当然だが、より重要なことは防衛省という組織を管理運営し、国会で説明責任を果たすことなのである。

 では、なぜそもそも野田首相が「素人」を2代にわたって防衛大臣に任命したのだろうか。それは、民主党の党内融和のためである。北沢大臣の時から、民主党政権では防衛大臣は参議院、しかも小沢一郎元代表に近い人物に割り当てられるポストとなった。2011年9月の民主党代表選で勝利を収めた後、野田新代表は「ノーサイド」を宣言し、親小沢・反小沢グループに分かれていた民主党内をまとめることを重視した。幹事長人事はその象徴であったが、その結果、参院出身の輿石東新幹事長が事実上防衛大臣ポストの人事権を握ることになった。こうして、「素人」防衛大臣が2代も続いたのである。

 とはいえ、「素人」防衛大臣の下でも日本の防衛政策は前進した。南スーダンにおける国連平和維持活動への自衛隊の派遣や、F-X(次期戦闘機)の選定、武器輸出三原則の緩和、そして普天間飛行場の移設と海兵隊のグアム移駐の切り離しという大きな決定がなされたことを鑑みれば、国会での答弁が心許なかったとはいえ、一川・田中両大臣の下でも日本の防衛政策は前進したのである。

 なぜなら、民主党の防衛政策は長島昭久首相補佐官、渡辺周防衛副大臣、榛葉賀津也元防衛副大臣らごく一部の防衛専門家が実際には動かしている。自民党の防衛族議員は人数が多すぎて意見がまとまりにくかったが、民主党は少数精鋭で防衛政策をとりまとめているのである。このため、防衛大臣が「素人」であっても、防衛政策は前進することができた。

 「素人」防衛大臣だったからこそ前進した案件もあった。普天間移転と海兵隊グアム移駐の切り離しである。両者をパッケージとしたのは防衛省主導の決定であったため、両者を切り離すことは防衛省には無理だった。

 しかし、「素人」大臣率いる防衛省は影響力を失い、外務省主導で切り離しが実現したのである。野田首相が、「素人」大臣を受け入れて党内融和を図りつつ、一方で外務省に普天間問題の主導権を取らせたことを意識していたのだとしたら、非常にしたたかなやり方であったといえる。

 今回の大臣人事も、実は野田首相のしたたかさを反映しているのかもしれない。民間人を起用したのは、民主党内に人材がいないからではないと考えられる。

・・・ログインして読む
(残り:約441文字/本文:約2068文字)