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【北大HOPSマガジン】 震災の現場から(上)――複合災害とメディア

講師/外岡秀俊(ジャーナリスト)

 私は2011年の3月に、朝日新聞社を早期退社してフリージャーナリストになりました。ちょうど札幌が私の田舎なものですから、札幌に帰ることを決め、あとは送別会の予定も入って……というときに起きたのが「3・11」でした。

 3月18日に朝日新聞社の飛行機に乗って上空から被災地を見たあと、翌日から仲間にカンパを頼んで、ありったけの米や食料、水を車に積んで1週間、現地を見てまいりました。新聞記事で3本、それから雑誌「AERA」にルポを書かせていただいて、その後、札幌に帰りました。

 それから半月くらいたったとき、私の母親が「どうして、おまえはここにいるんだ? 東北に行かないのか?」と声をかけてきました。私自身、かつて阪神淡路大震災を取材し、今回も一度現地を見てまわった人間の責任というと大げさかもしれませんが、今度はフリーの立場で現地を見つづけたくて、1カ月後に札幌から現地に出かけて、東北を見てきたわけです。

 ここでは、東日本大震災の特徴と、それから災害とメディアの関係について話します。今回の震災の特徴を四つ挙げるなら、第一に、きわめて規模の大きな震災であったこと、次に、きわめて広域に被害が出た災害だったことが挙げられます。三つ目は、震災に大津波と火災、それに福島第一原発事故と風評被害といったものが重なった、複合的な災害だったということ。四つ目は、被害が長期化して今後も続くだろうということです。

 ほとんどの災害の場合は、発災の時点がピークで、それからだんだんと災害の影響がやわらいでいって復旧、復興が始まります。しかし、東日本大震災はピークが発災時ではありませんでした。津波のあと、原発事故があったがために、これからどのくらい続く災害になるのかも、いまだに予測ができないような状況です。

 たとえば阪神大震災の場合は、幅1キロ、長さ20キロの「震災の帯」にほとんどの被害が集中していました。ところが今回は長さ500キロにわたって被災しています。これほどの規模というのは、あとに見るように日本ではあまり例がなかったと言っていいと思います。

(写真を示して)これは、3・11から1週間たった時点で私が見てきた宮城県気仙沼市内の様子です。ご覧になってわかるとおり、奥のほうに見えるのが湾、入り江です。20メートルくらい高いところから撮っているんですが、海から流れ着いた瓦礫やガラスの浮き玉が押し寄せているわけです。

(写真1)気仙沼唐桑で。後方のスーパーの屋根に流された車が見える

(写真1)これはそのすぐ近くで撮った写真です。スーパーの屋上に黄色い車が乗っています。このようにものすごい力で津波に車が押し上げられていくというのが当時の状況でした。

(次の写真)これも気仙沼の郊外の状況です。みなさんはもう、テレビなどで繰り返しご覧になっているから驚かないかもしれませんが、テレビで映し出せないのはその広がりです。テレビというのは必ずカメラで切り取っていますから、映っているのはごく瞬間的な一場面の状況でしかありません。実際には、前後左右、何キロにもわたって延々と同じ風景が続いています。

(次の写真)これは岩手県の陸前高田です。先ほど見たように、家がひしゃげて流されているような場所は、まだそこに町があったということがわかりますが、ここは町がすっかり流されて、ほとんどコンクリートの土台の部分しか残っていません。ここに町並みがあったということすらわからないような状況です。

(写真2)気仙沼の避難所で出会った吉田さんご一家

(写真2)これは私が避難所で出会った吉田さんご一家の写真です。お母さんとこの子は、おじいさんが裏山に避難しようと言ったのを振り切って小学校に避難したそうです。その裏山は、チリ地震のときに水が来なかった場所だったんです。それでおじいさんは、裏山なら大丈夫だと思って、ひとりで登った。しかし、その裏山には何も設備もなくて吹きさらしです。それでは子供を守ることができないと、お母さんは車に乗って小学校に行ったわけです。ところが、途中から渋滞で車が進まなくなった。それで、車を捨てて逃げろと言われて、必死になって坂道を上がった。そして、のぼりきったところに水が来て、下にあった車は全部流されたそうです。

 一方、旦那さんは、もう一人のお子さんがいる幼稚園に行きました。駆けつけてみると、子供たちはみんな、近くの小学校にいるというので、そちらに行きました。もう夜になっていたんですが、周りは水浸しで、腰まで水に浸かって小学校に入ろうとした。ところが近づけない。そのとき、「助けて」という声が聞こえたそうです。しかし、周りは真っ暗で何も見えない。どこから声がするのかさえわからない。やむをえず引き返して、車の中で一晩を過ごします。そして翌朝、もう一回水に浸かりながら小学校に入ったら、3階でこの子が寝ていた。揺り起こすと、いきなり泣きだしたそうです。このご家族の場合、その後、おばあちゃんが入院している病院でみんなが再会して、この避難所に来たそうです。

 約2万人の方が亡くなるか行方不明になったという今回の災害ですが、助かった方々も、このご家族のように、本当に身一つで何も持たずに逃げ出して、とても考えられないような事態を切り抜けてようやく生き延びている。もちろん、家族を失った方もたくさんいます。このご家族も、おじいさんを失っています。そういったことを、語らない方もたくさんいますが、そういうドラマがあちこちにあったことを想像することが必要だと思います。

(写真3)すべてが押し流された仙台市荒浜

(写真3)これは仙台の荒浜です。市内から5~10キロくらい離れたところにあります。市の中心部からの交通手段はありません。仙台は被害が少なかったと思っている方もおられるかもしれませんが、とんでもないことで、この地域一帯、十数キロにわたってこういう状態です。この写真はたまたま私が通りかかったときに見かけた情景です。ご位牌やアルバムがあります。同じ方が写っているので、たぶん持ち主の方の写真か、またはご両親の写真だったと思いますが、大切なものを持ち出そうとして、途中で波にさらわれたのでしょう。

(次の写真)これは福島県の須賀川というところです。向こうに写っているのは、人工ダムです。このダムが地震のときに決壊して、水が山道に沿ってずっと下に流れて、7、8人の方が亡くなっています。ふだんであれば新聞の一面トップに載るような事故ですが、これが福島で起きたにもかかわらず、社会面とかごく一部でしか報じられませんでした。つまり、東日本大震災は全体としてそれくらいスケールの大きな、いろんなことが起きた震災だったわけです。

 過去にマグニチュード8.0以上の大きな地震が起きた地点を世界地図上で表した地図を見るとわかるように、ほとんどの巨大地震は環太平洋の端で起きています。日本には50基(福島第一原発の4基を除く)の原発がありますが、巨大地震の多発地帯で原発がある国は、日本以外にはありません。第一位の米国も西海岸の立地を避けていますし、第二位のフランスもこの多発地帯からは外れています。われわれがどれほど危険な地域に原発を集中させてしまったかがわかると思います。

 巨大地震と言いますと、日本では関東大震災、それから最近では阪神大震災が記憶に新しいでしょう。2004年にはスマトラの大津波があって、2008年には四川の大地震がありました。それぞれの震災で亡くなった方々の死因を比較すると、関東大震災の場合は圧倒的多数の方が大火災で亡くなっています。阪神の場合の多くは圧死です。一部の方は火災で亡くなられました。東日本大震災の場合は溺死、窒息による死亡が圧倒的に多くて、家ごと、車ごと流された方が多かった。 

 東日本大震災は、大津波という点ではスマトラ沖の地震に近かったし、被害が広域にわたったという点で四川大地震に近かったとも言えます。両者を合わせたような規模の震災であったうえに、はじめに述べたように原発事故が重なった複合災害であり、都市型の災害プラス地方の市町村を巻き込むような災害になりました。これらの点を考え合わせると、これは20世紀以降で最大級の災害だと言っても過言ではないと私は思います。

 津波にも二つ種類がありまして、まず、一挙に高い波が押し寄せて、30メートルも40メートルも駆け上るような波があります。他方、波がぐっと立ち上がって奥深くに広い範囲にわたって浸水させる波もあります。今回は、それら二つの波が何回かに分けて押し寄せた。その結果、仙台を中心とする宮城県の沖では、とりわけ平野部に水が押し寄せてしまいました。

 こうした津波の結果、何が起きたのか。いちばん最初にみなさんが感じたのは情報通信が途絶えたということだと思います。ふつう、震災が起きると携帯が輻輳して、なかなかつながりにくくなります。今回の場合は、さらにハードの部分で電気通信がダウンしている。たとえば通信ケーブルが倒れたり、鉄塔が倒れたり、あるいは電話の伝送装置をつなぐケーブルが切られたりということが起きています。

 私がまわったのは岩手、宮城、福島の3県ですが、あちこちで使える携帯が違いました。そういうなかで、ボランティアに駆けつけたお医者さんたちも、まず衛星電話を確保して、そこからようやく作業がスタートするという大変厳しい状況に立たされたわけです。

 先ほど四川大地震のことをお話ししましたが、このとき、中国では「対口支援」ということをやりました。つまり、上海が都江堰を、広東省が●(さんずいに「文」)川県を、山東省が北川県をというふうに、各省が、あるいは北京、上海といった市がそれぞれ重点地区を決めて、そこでパートナーシップを結んだわけです。これは実は、1990年にドイツが統一されたときに旧西ドイツがパートナーシップを組んで東ドイツのある地域を支援するという方式をとったのを見習ったものです。ドイツではパートナーシップが小学校や中学校にも及んでいて、市町村の行政から小学校、中学校までみんな相手校をみつけ、そこで交流を深めたり支援をしたりするという仕組みをとりました。

 実はこれが、東日本大震災でも行なわれました。関西広域連合という、2010年にできたばかりの連合組織があります。震災後の3月13日に兵庫県が呼びかけて、この2府5県で対口支援をしようということになり、大阪と和歌山が岩手を、兵庫と徳島と鳥取が宮城、京都と滋賀が福島というふうにそれぞれ相手県を決めて、さらにそれを市町村にわりふって支援しました。

 これは阪神大震災で起きたことへの反省に立つ試みでもありました。阪神の場合、避難所から抽選で仮設住宅に移るときに、それまでにできた避難所のコミュニティが壊れてしまって、仮設住宅でみなさんが孤立してしまった。四川大地震ではその教訓をいかし、コミュニティ単位で仮設をつくった。さらに関西広域連合は、四川大地震の教訓を汲んで、対口支援を試みた。国境を越え、災害に襲われたときも知恵を伝え合おう、ということが実際に行なわれたのだと思います。

 さらに指摘しておかねばならないのは、この広域災害に加えて、福島第一原発の事故が大きな爪あとを残してしまったことです。これまで、原発事故が起きても、「止める、冷やす、閉じ込める」という三つの作用で防ぐから原発は安全だと宣伝されてきたわけですが、今回は地震の影響で外部電源が全部なくなってしまいました。

 福島原発には、1号機から4号機までと、5号機と6号機とが互いに電源を融通し合う仕組みになっていたわけですが、1~4号機と、5~6号機とが結ばれていなかった。このため、生きていた6号機の非常用電源が使えたのは5号機だけでした。そして1号機から4号機まで非常用電源がなくなり、最終的に1~4号機の原子炉と使用済み核燃料プールを冷やす機能が失われました。1号機から3号機までは稼動中で、ご存じのようにメルトダウンになったわけです。4号機は定期点検のために全部の燃料棒をプールに保管していたため、かろうじて今に至っています。

 さて、今回の事故では避難区域が設定されましたが、これは現地に行ってみないと、実情はなかなかわかりません。最初は原発から半径3キロ、そのあと20キロから30キロは屋内退避が指示されて、その後、4月の時点で、20キロ圏内の「警戒区域」、そして「緊急時避難準備区域」と「計画的避難区域」の三つが設定され、6月には「特定避難勧奨地点」が設定されました。これを聞いているだけだと、どういう違いがあるのかよくわからないと思います。

 屋内退避はしなくてもいいけれど、いざ何かが起きた場合にいつでも避難できる準備をしなさい、というのが「緊急時避難準備区域」です。それから、30キロよりは外だけれども汚染量が非常に高い地域があることがわかってきました。これが「計画的避難区域」です。飯舘村などの人たちには、5月の末にはみなさん外に出てください、と全村避難が要請されたわけです。ところが、さらにその先で放射線量が高い場所が見つかったために、6月になって、ここに住む世帯は避難してください、と要請することになった。これが「特定避難勧奨地点」です。

 緊急時避難準備区域で実際に何が起きたかというと、まず学校が閉鎖になりました。それから、病院には入院できないとか、特別養護の老人ホームは事業をしてはいけないことになりました。お年寄りや子供、病人、これらの方々はいざ避難ということになっても逃げにくいから、そこにいてはいけないことになったのですが、実際にはそこにたくさん住んでいました。

 原発が爆発した直後、この地域の人口が7万人から2万人くらいに減りましたが、その後、私が訪ねた5月には4万人くらいに回復していた。ところが、そこでは入院できない。あるいは、子供たちはいるのに学校に通えない。それから、特別養護老人ホームでは、お年寄りはいるのにそこには行けないという状況になったわけです。

 さて、原発事故が起きた後の3月15日、現地で雨が降って、大気中の放射性物質を大量に吸着して地面に落ちました。そのときの雲(プルーム)は2方向でした。実は政府はその方向を予測していました。SPEEDI(緊急時迅速放射能影響予測調査)というシステムを文部科学省が所管していて、原子力安全委員会と原子力安全・保安院が使っています。

 この計測結果が、保安院から、官邸に設置された対策本部の原子力関係者に伝わったものの、首相や官房長官には伝えられていなかった。そのため、避難を20キロ、30キロと同心円状に設定してしまった。そこから外れた飯舘村とか浪江町では、人々が高い放射線を浴びて1カ月も2カ月も過ごしてしまうという状況になりました。

(新たな資料を示して)こちらはセシウムの残存量を図にしたもので、先ほど見たように、二手に分かれて拡散していったんですが、実はこの高い部分が、さきほど話に出た特定勧奨地点の伊達や、さらにその先の福島、それから少し南のほうの郡山で、いずれも30万人人口圏であったわけです。そこにまで達していたということが、ようやく2カ月後くらいになってわかりはじめた。そのため、あのときに子供たちを被爆させてしまったんじゃないかと、お母さんたちは急に不安になりました。

 実際、当時はまだ水が出ていなかったり、あるいは食料品が底をついていたりして、多くの方がスーパーの前に並んだりしていたわけです。春休み中で、子供連れのお母さんも多かった。何時間も外に立って子供を被爆させてしまったんじゃないか、その影響がいつか子供に出るんじゃないかと、いっせいに子供を連れて避難が始まったわけです。

 私も札幌に避難したお母さん方にお目にかかりました。自主避難で北海道まで逃げてこられたのです。そして、いまだに15万人の方が福島県内か、あるいは県外に避難しているといいます。そういう人たちにとっては、「帰れない」「帰りたくない」あるいは「いつ帰れるかわからない」という状況が、今も続いているわけです。

 最後に、災害とメディアの関係について、少し触れておきたいと思います。

 私は先ほど申し上げたように、2011年3月末で朝日新聞社を早期退職して、フリーのジャーナリストとして取材をさせていただきました。その際、在職時とはいろいろな違いを感じました。一つは、マスコミというのは「ベースキャンプ」を作って、そこから記者が取材に行き、それをキャンプから送ってくるという、いわばグループ型の登山のようなことをおこなっています。それに比べて、フリーの記者というのはまったくそういうベースがなくて、ふらふらとその辺りを歩いて、どなたかのご好意にすがって取材をしていくという、単独型の登山のようなところがあります。

 原発事故の取材で、私が感じたことがあります。

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