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日本版「緑の党」は荒れることを恐れず、日本の英雄に学べ

三島憲一

三島憲一 大阪大学名誉教授(ドイツ哲学、現代ドイツ政治)

 日本でも緑の党が結成された。まことに時宜を得たというべきだろう。

 野田政権は、審査に審査を重ね、熟議に熟議を重ね、慎重の上にも慎重に、国民生活の将来と原発のリスクをなんどもなんども秤に乗せ、苦渋の上にも苦渋をさらに3回重ね、大飯原発の再稼働をやむをえず実行したばかりだ。お役所というのは、まことに尊敬すべきありがたいところだ、と感嘆するひともいるかもしれない。

 でも、観点を変えると、事情はまったくちがう。形式を重ねれば、現実を制御できると思っているのが「専門家」と称する人々のようだ。「安全基準をクリア」という言葉をおまじないのように繰り返せば安全になるのだ。

 しかし、おまじないと現実を取り違えるのは「あした天気になりますように」とテルテル坊主をのきばにかける子どもとおなじだ。役人も専門家も本当は不安なのだろう。不安だからおまじないを唱えているのだろう。

 それに対して、緑の党は、現実とおまじないを取り違えずに、まさに現実から議論を起こそうというのだろう。夢のような経済成長はもうあり得ないという醒めた現実。仮にあったところで、ろくなことにはならないという悲しい現実。資源にはかぎりがあるという冷徹な現実。地震国における原発の危険性という絶対の現実。その管理が一部の利害共同体でなあなあになされているという醜い現実。そしてなによりも使用済み燃料の処理がコストも方法も場所もまったく見えていないという恐るべき現実。

 日本でとかくもてはやされる、ドイツの緑の党も出発はこのおなじ現実認識だった。原発以外にも酸性雨、土壌汚染、河川・湖沼汚染、巨大工事による故郷の破壊、車社会などテーマは多かった。1970年代の各地のさまざまな活動、景観保護などでは、一部の保守的な市民層とも融合した。1980年の党設立から1983年の連邦議会への進出、1998年の連立政権参加までは長い道のりだった。

 当初はまったく新しいスタイルの政治と議論をめざしていた。党の役員も国会議員も2年交代にして、党の中に暗黙の幹部を作らない、という底辺民主主義がめざされていた。しかし、そうした試みは個人的野心と実際の運営の難しさのために、うまく行かないことがあきらかになった。

 それでも党大会は執行部からの起案に対して、何千という修正提案がなされ、それぞれについて徹底的な議論が延々と続いた。雇用その他の観点から既成勢力やイデオロギーに一定の譲歩をする穏健派と、車の運転をはじめ、いっさいの既成のやり方にノーを言い続ける急進左派との無限の論争は、80年代後半からしばらくは党を疲弊させた。

 政権についてからのコソボ爆撃(1999年)では絶対平和主義を放棄し、国際規範から見てかなり疑わしい作戦に参加するという「裏切り」もあった。この時は離党者が続出した。

 だが、一貫して目につくのは、おたがいに安易に妥協せずに徹底的に討論するという姿勢である。日本で重視される「協調性」などは徹底的に無視する態度が重要だ。暗黙のうちに前提される共通目標のために積極的に協力しあうことを、日本では小学校から仕込まれるが、そんなことは無関係という姿勢である。「議論するばかりで雑巾がけをしない」と非難するのでなく、「議論で問題を深め、多角的に見る」人が「のし上がっていく」構造である。

■二つの危惧

 そうした経緯を30年以上それなりにフォローしてきた目から見ると、今回結成された緑の党には、さまざまな危惧が湧いてこざるを得ない。

 危惧の第一は、本当に生き生きした党内議論が可能になるのかということだ。底辺民主主義というのは、格好いい言葉かもしれないが、実践はなかなか厄介である。

 党大会が「荒れる」のをいやがる風土を乗り越えられるだろうか。「荒れる」のは当たり前という論争の文化が可能だろうか。小さなことから言えば、集会にいっさいの儀式性を排除することが可能だろうか。乾杯やバンザイや拳つきだしなどの、連合から自民党までに共通した、みっともない空疎な儀式までやめられるだろうか(これも心情的一体感や、戦いの儀式で現実を変えられるという子どもじみた幻想だ)。

 ちなみにパーティの乾杯からしてドイツでは存在しない。小さなことだが、ライフスタイルはデモクラシーにとって重要である。

 危惧の第二は、

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