メインメニューをとばして、このページの本文エリアへ

ネット選挙と公共空間――衆愚政か、それとも優れた民主主義か?

小林正弥 千葉大学大学院社会科学研究院教授(政治学)

ネット公共空間の両義性――その光と影

 筆者は、「参議院選挙前日(7月20日)を国民的な『ネット熟議の日』にしよう――『ダモクレスの剣』は落ちるか否か」(2013年7月18日)で、歴史的な参議院選挙を前にして、人々が自発的に「ネット熟議の日」を設けることを提案した。この提案には思想的な理由もあるので、公共性を軸にして、より深くネット選挙の問題を考えてみよう。

 もともと、インターネットには人々が自由にアクセスできる公共空間を開くという夢が存在していた。たとえば、ハーバード大学(エドモン・J・サフラ財団倫理センター所長)のローレンス・レッシグ教授は、このような理想を追求して、著作物や情報の共有や再利用を促進するために「クリエイティブ・コモンズ」を推進している。今年、私は教授の講演を同大学で聴き、倫理センターでお会いして、その道徳的情熱に打たれるところがあった。

 しかし、インターネット空間には危険性も存在する。ドミニク・カルドンは、『インターネット・デモクラシーーー拡大する公共空間と代議制のゆくえ』(林昌宏・林香里訳、トランスビュー、2012年)で、インターネット・デモクラシーを「公共圏」ないし「公共空間」の拡大という観点から捉えつつ、そこに「薄暗がりのウェブ」が広がるという現象を指摘している。

 このネット空間は「全員が見ることができる」という点では公開された公共空間・公開空間であるが、これまでの公共空間とは異なって、公共的な利益や公共善をもたらすという意味における公共性は必ずしも伴わない場合が多い。

 つまり、そこには親密な者同士の空間や、自分の私生活をみせびらかすような「薄暗がりの空間」が存在する。だから、従来のように公私は明確に分かれず、公共的領域と私的領域との境が不明確になって、その中間領域が拡大している。そして、2ちゃんねるやネット右翼を考えればわかるように、そこには、従来の公共的メディアでは掲載されえないような陰湿な発言や、品位や良識を欠いた発言が見られるのである。

 ここには、公共哲学の観点から見れば、肯定的・否定的な両義性が存在する。

 肯定的側面を見れば、「活私開公」という言葉で表されているように、人々の関心が私的領域から始まって活性化し、公共性へと開かれていくことが可能になる。

 はじめは、MLやブログやフェイスブックなどで、親密な友人・知人たちなどを念頭に私的に発言するところから始め、次第に多くの人々との交流を行うようになって、真に公共的な発言や議論へと展開することが可能になる。また、はじめは政治的な関心を持たなかった人が友人・知人のフェイスブックなどで公共的意見にふれ、公共的関心を持っていくことも考えられるだろう。

 他方で、否定的側面を見れば、親密な仲間内で、従来の公共空間では許されなかったような出鱈目や誹謗・抽象、反自由主義的・反民主主義的な考え方、非人間的な意見を書いたり、ヘイト・スピーチ、つまり侮蔑的・差別的発言や議論などをすることが可能になる。このような現象が拡大して、政治に影響を与えるようになれば、民主政は衆愚政へと堕してしまう危険性が存在するだろう。

 アメリカや韓国では、ネット選挙が新しく民主政の活性化をもたらすという肯定的側面が注目されていたのに対し、日本の場合は、むしろネット右翼が注目を集めていたように、否定的側面にも注目が集まっていた。もっとも、安倍首相はネット右翼に

・・・ログインして読む
(残り:約3769文字/本文:約5201文字)