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 「抽象的な言葉が人を傷つけるとき、それが可能になるのは、まさに人を傷つける力を蓄積し、かつ隠蔽しているからである。だから人種差別的な誹謗をする人は、そういった誹謗を引用し、言語を介してそのような発言をしてきた人たちの仲間になっていくのである」(ジュディス・バトラー著、竹村和子訳『触発する言葉――言語・権力・行為体』岩波書店、2004年、81頁)

 京都朝鮮学校の周辺で「在日特権を許さない市民の会(在特会)」メンバーらが街宣活動し、人を傷つける言葉であるヘイトスピーチを浴びせて授業を妨害した事件の訴訟で地裁判決が下った。京都地裁が在特会の街宣活動を「人種差別撤廃条約で禁止した人種差別に当たり、違法だ」とし、学校周辺での街宣活動の禁止と1226万円の損害賠償の支払いを命じる判決を下したことは、まだ記憶に新しい。

 この判決について、菅官房長官は同日の記者会見で「個別の裁判所の判断について言及することは控えたい」としつつも「ヘイトスピーチと呼ばれる差別的な発言で商店の営業や学校の授業、各種の行事が妨害されていることは極めて憂慮すべきだ。関係機関で法令に基づいて対応していくことが大事だ」と述べた。

 2009年12月に起きた同事件は、在特会のメンバーらが学校の生徒・児童らに授業中、拡声器で「日本からたたき出せ」「スパイの子ども」などと差別的な罵声を浴びせ続け、大音量の街宣活動を行ったものだ。当時、学校での活動が中断を余儀なくされ、生徒・児童たちは被告らの罵声に怯え恐れ、心に深い傷を負ってしまったであろうことは想像に難くない。

 レイシストに対して毅然と立ち向かっている有田芳生参院議員がこの度『ヘイトスピーチとたたかう!――日本版排外主義批判』(岩波書店)を出版した。手にとって読んでみると同書で描かれている在特会の活動は端的に愚劣であり、憤りを感じるものばかりだ。

 在特会はおもに在日コリアンを敵視した活動をしている。彼らが在日コリアンを批判するさいに必ず用いるのが、現実には有りもしない「在日特権」なるものだ。そもそも戦後の在日コリアンの歴史は、社会学者の市野川容孝によれば「特権」ではなく「奪権」の歴史である。

 市野川によれば、在日コリアンは1952年4月に日本政府から国籍を一方的に剥奪され、かといって当時故郷に経済的生活基盤を持たなかったがゆえに日本に残らざるを得なかった方々も多くいたという。また彼らは1970年代までは国民健康保険にも、また1980年代までは国民年金にも加入できなかった。こうした「特権」ではなく「奪権」の歴史を多くの日本人は知らない。

 だが、在特会の桜井誠会長以下、幾名かの幹部は「在日特権」など存在しないことは知っているにもかかわらず「特権」の不存在を語る代わりに、日本政府による戦後の在日コリアンへの「奪権」の歴史を多くの日本人が知らないことを悪用し、架空の「在日特権」をネット上や街頭でデマをたれ流し、人々をたばかり続けている。

 日本社会のマジョリティである読者の多くにとって、在特会による蛮行は自分には関係のない問題だと思うかも知れない。だが、在特会が牙をむく相手は、実際には在日コリアンだけではない。

 彼らは、奈良の水平社博物館に情宣をかけて被差別部落出身者に差別発言を浴びせかけたのみならず、生活保護受給者、広島の被爆者や福島の被災者らの権利ですらも「特権」だとして、日本で弱者の立場にある人々に容赦なく攻撃を加えるのだ。

 在特会が東京・新宿駅南口で生活保護が「特権」だと情宣をしたさい「うるさいよ」と反論した老人に向かって桜井誠会長をはじめ在特会関係者は言葉で反論するのではなく老人に詰め寄って倒し、蹴り飛ばすといった暴力行為におよぶとともに、以後もこれと同様の行為を繰り返してきた。

 こうした数々の蛮行の延長線上に、今年になってからの「善い韓国人も悪い韓国人も殺せ」というプラカードを掲げさらに過激化した新大久保デモ、「殺せ!殺せ!朝鮮人!」といったコール、そして大阪・鶴橋のヘイト・デモでは女子中学生が「(在日コリアンが)憎くてたまらない。殺してやりたい」、「いつまでも調子にのっとったら、南京大虐殺ではなく『鶴橋大虐殺』を実行しますよ」と叫ぶ著しく乱暴な行いがある。

 なぜ、こうした人を傷つける言葉は蔓延するのか。このことを導きの糸として、ジェンダー論の大家でもある哲学者ジュディス・バトラーの他人を傷つける言葉についての論説は示唆的だ。人を傷つける発言によって成立している集団が存続できているとすれば、それはその集団の意図が発話行為を取り仕切るのに成功したからではなく、その中傷発言という行為がそれに先立つ行為に反響し共振するからに他ならない。

 すなわち、言葉の反響と共振によって先行する権威的な一連の実践を反復・引用することを通じて、権威の力を彼らのなかに蓄積したことによるのだという。つまり、中傷発言という発話行為が実践のなかでのみ生起しているのではなくして、その行為自体が、紋切り型のひとつとして儀式化された実践に根ざしているというのだ。

 バトラーによれば中傷発言が社会のなかで「機能する」のは、ひとえにそれを起動させているところの社会構築的な慣習に頼っている限りにおいて、そして同時にこれら慣習を隠蔽できている限りにおいてである。言葉というものは、ネガティブなものであれポジティブなものであれ、その力を蓄積しつつ隠蔽するという歴史性がある程度受け継がれていなければ、差別をする言葉が他者を傷つけるほどの威力を発揮する表現として機能することはないのだ。

 だからこそ、冒頭で挙げたように「抽象的な言葉が人を傷つけるとき、それが可能になるのは」、わたしたちの日本語として流通している言葉の体系が蔑視表現や差別を「まさに人を傷つける力を蓄積し、かつ隠蔽している」ものとなっているためである。それゆえ「人種差別的な誹謗をする人は、そういった誹謗を引用し、言語を介してそのような発言をしてきた人たちの仲間になっていく」というサイクルが出来上がるのだ。

 バトラーは続けて「中傷を行うには反復性が必要不可欠である」というのだ。つまり、そこには歴史が存在するのである。そうであるならば、その系譜をたどってみることが人種差別的な誹謗の蔓延がどこから来るのかを把握できるかもしれない。

 では、わたしたちの社会でとくにエスニック集団やマイノリティを傷つける言葉を反復的に、いうならばサウンドバイトで繰り返し発言をしているのはいったい誰なのか。

 本稿に続く文章では、人種差別的な発言がどのようにして近代の日本社会で作り上げられ、なぜ全体主義と決別したはずの第二次世界大戦後も温存されてきたのか、そして現在でも差別表現によって帝国の幻影の衣を借ることで利益を得ている者たちの姿を明らかにしてゆく。

*次回(中)は10月21日に配信します。


筆者

五野井郁夫

五野井郁夫(ごのい・いくお) 高千穂大学経営学部教授(政治学・国際関係論)

高千穂大学経営学部教授/国際基督教大学社会科学研究所研究員。1979年、東京都生まれ。上智大学法学部卒業、東京大学大学院総合文化研究科国際社会科学専攻博士課程修了(学術博士)。日本学術振興会特別研究員、立教大学法学部助教を経て現職。専門は政治学・国際関係論。おもに民主主義論を研究。著書に『「デモ」とは何か――変貌する直接民主主義』(NHKブックス)、共編著に『リベラル再起動のために』(毎日新聞出版)、共訳書にウィリアム・コノリー『プルーラリズム』(岩波書店)など。

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