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クジラ「神格化」の行き着く果ては?――文化人類学の視点から

脇阪紀行 大阪大学未来共生プログラム特任教授(メディア論、EU、未来共生学)

国立民族学博物館の岸上伸啓氏(文化人類学)に聞く

 南極海での日本の調査捕鯨に対する国際司法裁判所による中止命令判決は、日本の調査捕鯨そのものに「ノー」と言ったわけではない。ましてや、クジラを食べる日本の文化を否定したわけでもない。

 しかし国立民族博物館の岸上伸啓教授はこの判決をテコに、クジラは神聖で特別な動物であり、捕鯨そのものが非人道的だとするクジラの「神格化」がますます勢いづくのではないか、と懸念する。

 文化人類学者の岸上氏は、カナダ北部の先住民イヌイットや米国アラスカ州北西部のイヌピアットの生活に接し、そこで行われる伝統捕鯨を観察してきた。クジラを伝統食として守り続ける人々は、春秋の2回、仕事を休んでクジラ捕りに没頭する。

 クジラは人間のために命を投げ出し、人間はクジラによって生かされる。だからクジラから取った肉や皮をみんなで分かち合う。クジラの霊を彼らの世界へ戻せば、いずれ再生して戻ってくる。伝統捕鯨に息づいているのは聖なる存在としてのクジラ観だ。

 欧米先進国で過去半世紀近くの間に起きたのは、これとはまったく次元が異なる「神格化」だ、と岸上教授は言う。

 人類は長い間、捕鯨を続け、鯨油を取ったり食用にしたりしてきた。日本は、戦後の食糧不足を補うために捕鯨が盛んになった。ところが欧米社会ではこの間、クジラを環境保護のシンボルとする考え方が広がった。頭が良くて、人間にも親しみを持つが、現実には存在しない「スーパーホエール」のイメージが広がった。マスメディアのテレビや映画を通じて出来上がったのは、クジラを殺したり、食べたりするのは悪い人間で、それを守るのはいい人間だというクジラ観である。

 1972年の国連人間環境会議で米国が「クジラを守るべきだ」との提案を提出。欧米諸国で反捕鯨の世論が盛り上がり、1982年に国際捕鯨委員会(IWC)が、大型クジラについて商業捕鯨のモラトリアムを決定した。その後、環境NGOの活動の活発化と欧米諸国の反捕鯨世論によって、IWCでの捕鯨反対派と捕鯨容認派との対立が激化した背景には、こうした欧米諸国におけるクジラ観の変化があった。

 欧米諸国が主導するクジラの「神格化」は、世界の食文化の均一化、単一化に拍車をかけかねない、と岸上氏は懸念する。エスニック料理への関心など、世界では食文化の多様性を認める動きが進んでいるように見える。しかし実際にはマクドナルドに象徴されるように、ファストフードの普及による食文化の均一化の拍車が進んでいるからだ。

 岸上氏との主な一問一答は次の通り。

Q 判決を聞いた時の感想は?

A 予想より厳しいと思った。この半世紀、クジラの神格化が進み、捕鯨への風当たりが厳しくなってきた。この判決で欧米風の考え方がさらに強まった印象だ。日本ばかりか、世界中の捕鯨活動に対して強い影響を与えるだろう。

国立民族博物館の岸上伸啓教授=撮影・筆者
国立民族博物館の岸上伸啓教授=撮影・筆者
Q クジラの神格化とは何ですか。

A 「クジラは神聖不可侵で特別な存在だ」という観念だ。人類は長い間、捕鯨を続け、鯨油を取ったり食用にしたりしてきた。日本は、戦後の食糧不足を補うために、GHQの許可を得て2隻の捕鯨船が南氷洋に向かったことが、捕鯨活動が盛んになるきっかけだった。ところがクジラの保護を求める声が欧米で高まり、クジラを食料資源や産業資源とみなす考え方に対して、クジラは人間が利用する資源ではないという考え方が強まってきた。

Q クジラは特別な動物なのでしょうか?

 確かに、シロナガスクジラは地球上で最大の動物であり、バンドウイルカは地球上で最大の脳容積を持ち、コククジラは人間に対して友好的でもある。しかし、クジラが環境保護のシンボルになるにつれて、これらのすべての特徴を併せ持つクジラのイメージができあがっていった。ノルウェーの人類学者A・カランは、この架空のクジラを「スーパーホエール」と呼んだ。欧米では、政府も産業界も環境保護を訴え、クリーンなイメージを得る道具としてクジラの保護を利用している。

 どうして神格化が急速に広がったのでしょうか?

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