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安保法制懇の無責任な報告書は訴訟リスクの塊である (中)――欠ける法的教養

木村草太 首都大学東京教授(憲法学)

2 二つのハードル:(1)明文禁止がないことと(2)根拠規定があること

 本報告書が、集団的自衛権の行使と国連の集団安全保障への参加は、憲法上許容されるとする根拠は、「憲法9条1項・2項により禁じられていない」という点に尽きている。しかし、特定条項で禁じられていないからといって、即座に、それをやって良いということにはならない。これは、憲法解釈の基本なので、少し丁寧に説明しよう。

(1)根拠法がない限り国家権力は行使できない

 日本国憲法は、「自由主義」の構想を前提とする憲法である。自由主義は先進国の国際標準であり、これを前提としない国家は、人権を蹂躙する「危ない国」とみなされる。自由主義の下では、国民の自由が最大限認められる一方で、国家権力の行使については抑制的でなければならない。なぜなら、国家行為は、国民の自由の制約となるからである。

 このことは、刑罰に代表されるように、国家が国民に対し「○○をしてはいけない」と命令する国家行為については、すぐに理解できるだろう。さらに、年金給付や海外活動といった、国民の自由を直接に制約しない国家行為についても同様であることに、注意が必要である。

 なぜなら、こうした国家行為も、国民から強制徴収した資源すなわち税金によってなされる以上、国民生活に重大な影響を及ぼす。さらに、重要な国家行為については、国民的な議論を経た上で決定すべきで、時の権力者が勝手に決めるべきではない。このため、国家が行動するには、国民的合意の証として、それを根拠づける憲法と、それを具体化する法律の規定がない限り行為できない、と考えられている。

 今述べた「根拠法なき国家行為は許されない」という原理は、憲法や行政法などを解釈する場合の最も基礎的な原理である。

 この点が、「自由に何でもできる個人」を出発点に、「法律で禁止されていない限り、自由に行動できるのが原則」となる個人を巡る議論と、国家を巡る議論との、大きく異なる点である。集団的自衛権行使という国家行為を語る際に、あまりに単純に個人の正当防衛のアナロジーでとらえるのには、注意が必要である。

 そうすると、国家権力の行使を憲法上正当化するには、二つのハードルがあることになる。つまり、第一は、それを禁じる明文の憲法規定がないこと。第二は、それを根拠づける憲法規定があること。

 安保法制懇の本報告書は、憲法9条により禁じられていない(第一のハードルは越えられる)と述べるのみで、第二のハードルについて何も述べていない。その論証は、そのようなハードルがあること自体を知らないかのように思われる。

 公法の解釈学をまじめにやってきたものからすれば、その粗雑さに驚き呆れざるを得ない。これは、安保法制懇のメンバーが、いかに法的教養を欠いているかを示すエピソードであろう。

(2)集団的自衛権の行使の根拠法はあるか?

 では、この二つのハードルについて、法解釈学的にどのように考えるべきだろうか、改めて検討してみよう。

 まず、集団的自衛権の行使・集団安全保障への参加については、そもそも第一のハードルを越えられるかどうか自体が怪しい。憲法9条1項を素直に読む限り、武力行使を一律に禁じているように読める。さらに、仮に、1項が集団的自衛権の行使などを禁じていないとしても、2項で「戦力」保持が禁じられている。したがって、憲法9条の1項か2項で、それらが禁じられていると解釈する法律家は多い。

 また、解釈テクニックを駆使して第一のハードルを越えられたとしても、第二のハードルを越えることはできないだろう。

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