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[4]「脅し」は自民党にも返ってくる?

五野井郁夫 高千穂大学経営学部教授(政治学・国際関係論)

 「憲法の定める政教分離の原則と申しますのは、信教の自由の保障を実質的なものとするため、国及びその機関が国権行使の場面において宗教に介入しまたは関与することを排除する趣旨であるというふうに解されておりまして、それを超えて、宗教団体が政治的活動をすることをも排除している趣旨ではないというふうに考えているわけでございます。」(大森政輔内閣法制局長官、1999年7月15日の衆議院予算委員会にて)

 先の「飯島発言」は「公明党と創価学会の関係は政教一致と騒がれてきたが、内閣法制局の発言の積み重ねで政教分離ということになっている」ものの、内閣法制局の答弁を変えさせることで、公明党を憲法上の政教分離違反へと持ち込む可能性を示唆した「脅し」であった。

 ところで、この飯島氏が持ち出してきた内閣法制局は、なぜ憲法解釈を委ねられているのだろうか。

 日本では憲法解釈を最終的に確定すると解されているのは、国家機関のなかでも最高裁判所である。そもそも司法以外の国家機関である立法と行政は独自の憲法解釈を行えないかといえば、もちろんそうではない。

 立法、行政、司法という国家機関による憲法解釈を「有権解釈」という。国家機関による憲法の最終的解釈主体である最高裁判所が政治をめぐる憲法判断には消極的であることが、結果的に、司法以外で「有権解釈」を行いうる内閣法制局の憲法解釈を前景化させている一因となっている。

 では、内閣法制局は具体的にいかなる権能を持ちうるのか。内閣法制局設置法の第3条に定められた内閣法制局の所掌事務には「法律問題に関し内閣並びに内閣総理大臣及び各省大臣に対し意見を述べること」とある。この条文からは、内閣法制局の解釈が「有権解釈」の一主体たる行政における専門的意見として、制度的に最大限尊重されることが目的とされている権能だと読み取ることが出来よう。

 このような権能を有する内閣法制局の大森政輔長官(当時)による、冒頭で掲げた1999年7月15日の衆議院予算委員会答弁のとおり、従来は国家権力の側がある特定の宗教を擁護し、国民に強制することを禁じるのが憲法上の「政教分離」だとされてきた。憲法が、国による権力の濫用を防ぐために国を縛る法律として存在していることからも、「国及びその機関が国権行使の場面において宗教に介入しまたは関与することを排除する」というのはごく自然な答弁である。

 また、同答弁では「宗教団体が支援している政党が政権に参加したということになりましても、そのことによって直ちに憲法が定める政教分離の原則にもとる事態が生ずるものではない」とも明言している。

 しかしながら、先の「飯島発言」は宗教団体による政治的活動を憲法上の問題としたのだ。従来の憲法解釈の範囲では「政教分離」違反とはならないはずだが、「飯島発言」の含意にそのまま従うならば、創価学会同様、神政連の活動も憲法第二十条に抵触する可能性が大いに生じうるだろう。

 というのも、先に触れた神政連の目的である「神道精神を国政の基礎に」と「正しい政教関係の確立」とは一体何を指すのかが、「飯島発言」の限りでは問題となり得るためである。

 この点をどう考えているのかについては現在神政連に確認中であるものの、神道の精神が国政の基礎に置かれることが正しい政教関係の確立に何らかの形で寄与するという意味であった場合、もし仮に「飯島発言」の基準で「政教分離」を判断するならば、「神道が日本政治に影響力を増している」というジャパン・タイムズによる分析を引くまでもなく、確実にアウトだろう。

 なお、過去の創価学会は第2代会長の戸田城聖によって「王仏冥合」が説かれていた時期もあった。しかしながら、のちに創価学会は「公明党」の支持団体に過ぎないという立場を明確にし、今日ではあくまで憲法上の「政教分離」原則に収まっているとの構えを見せている。

 先に挙げた神政連の主張と比較すると、現在の公明党ならびに創価学会は「創価学会の精神を国政の基礎に」などとは明示的に記しておらず、また創価学会側の主張を探しても自らの宗教規範や精神を「国政の基礎に」と掲げている文言は、管見の限りでは見あたらない。

 ところで、「飯島発言」が含意するところの憲法の規制対象になりかねない神政連の「神道精神を国政の基礎に」という文言を、その規制から自由にする逆転の発想がないわけではない。

 それは、現行憲法から政教一致を許容する新憲法へと変えてしまえば、

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