聞き手、まとめ:WEBRONZA編集長 矢田義一
2014年08月15日
最近、歴史に沿いながら考えなければいけないと強く感じています。
戦後には二つのタイプがあります。敗戦への怨念を引きずって、再び強国になりたいという郷愁を追いかける第一次大戦後のドイツのパターンと、戦争を反省し、戦争を引き起こした全体主義を否定する第二次大戦後のドイツ、イタリアのパターンです。日本の第二次世界大戦後のデモクラシー体制は、ドイツの第一次世界大戦後のワイマール型に終わるのか、同じ第二次世界大戦後のドイツ、イタリアのデモクラシーであるのか、その分かれ目にいま来ているということです。
ご承知のように、ワイマール体制のドイツでは、第一次大戦の敗北に対する屈辱感が非常に強く、社会にナショナリズムの気分がもともと横溢していました。それに加え、巨額の賠償と世界大恐慌で経済的に疲弊したところにヒットラーが登場し、全権委任法をつくって、デモクラシー体制を内側から壊していったという歴史です。
戦後日本でファシズムというと、警告を発した「進歩的知識人」はすぐにオオカミ少年のたとえで馬鹿にされてきたわけですが、今日は、本当に民主主義の崩壊、あるいは、局地的ではあれ、戦争の可能性みたいなものが、非常に現実味を帯びてきた。戦後70年で、これまではまったくなかった新しい状況が出現していると思います。
麻生太郎副総理が「改憲はナチスも手口に学べ」と言ったのは、ご本人の意図は別にして、時代の本質を表現した言葉だったのです。
もちろん、日本の場合は、戦後のデモクラシー体制は70年近く続いてきた。その理由は、敗戦の経験、あるいは、戦争による受難の経験を知っている人たちが、何はともあれ助かったということで、戦後の体制を受け入れた、支持したということが大きかったと思います。そこには保守も含めて、戦争は繰り返してはならない、とか、国家が国民を道具にして、国民の命をもてあそび、虚構の国家の権威とか栄光のために犠牲にするということはやめよう。そういう最低限度の民主主義にたいする理解というものがあったのだと思います。
今から思えば、自民党の中の大きな部分を占めていた田中派型の利益誘導政治なども立派なデモクラシーであり、池田勇人、大平正芳らの宏池会もそういう意味では立派なデモクラシーだったわけです。
一応、その戦争の受難と敗戦の解放という経験を知っている人が生きている間は、戦後デモクラシー体制の正当性は確保されていたのです。戦後五〇年の時には、そのような世代が歴史解釈の問題に決着をつけようとしたわけです。ところが、今日では、いわば戦後デモクラシー体制が時間切れ、期限切れを迎えようとしているという状況だと認識しています。
戦後約70年が経って、戦争の受難と敗戦の解放の経験を知っている人がほとんど政治の表舞台からいなくなった時に、「安倍的なもの」が猛威をふるうというのは、非常に分かりやすい構図だと思います。
歴史に沿いながら、ということで考えると、このままでは、戦後日本のデモクラシーはワイマール民主制の運命をたどってしまうのではないか、と強い危惧をおぼえます。安倍政権はもちろん全権委任法という法律はつくっていないけれども、やっていることはほぼ全権委任に等しい。選挙に勝って、国会で多数を持っているのだから、何をやってもいいだろうという姿勢です。その多数派がやることがイコール民意だと、いう非常に飛躍したフィクションのうえに、今の安倍政権の政策展開があることを忘れてはなりません。
こうした「安倍政治」を許せるかどうかというのは、けっこう分かりやすい話です。
8月6日と9日の原爆忌の式典で、コピペ演説というのがひとしきり話題になりました。式典でのあいさつ文が昨年のものと重なる部分が多く、ネットなどでコピペではないかと批判が続きました。こういうところに、人間の質が現れるのだろうと思います。
目の前にいる被爆者とその家族らに対する敬意や共感というのはまったくない。人を馬鹿にしきっているわけです。他方で、彼は靖国に祀られていると称する戦死者に対して、尊崇の念を常に表す。これはいったい、何なのでしょう。目の前にいる人たちに対する敬意や共感がまったくもてないとは、
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