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【憲法学で読み解く民主主義と立憲主義(1)】――「多矛盾系」としての集団的自衛権

木村草太 首都大学東京教授(憲法学)

*この原稿は、2014年8月31日、東京・国立市公民館で開かれた「『図書室のつどい』 哲学と憲法学で読み解く民主主義と立憲主義」(國分功一郎氏、木村草太氏)の講演をもとに構成したものです。

 國分先生からもお話がありましたが、今、やはり公民館とか公共施設で、こういう話題を扱うことにセンシティブになっているというのは事実だと思います。

 私もある公共機関の市民講座の担当者から、「集団的自衛権の話はしないでください」と言われました。もちろん、「集団的自衛権」の話をしても問題ないことを憲法学的にお話しすることは可能なわけですが、あえてそう答えることでもないと思ったので、「そうですか」とだけ返しました。

提供=国立市公民館拡大提供=国立市公民館
 本題に入る前に、一応、この問題について憲法学的に解説をしておきます。

 当然のことですが、公共施設をある政治団体が特権的に使用することは許されません。例えば民主党や自民党の政治家がずっとその場所で、毎日、毎週講演会を開いているということがあっては、もちろんいけません。

 けれども、我々が今、やろうとしていることは、専門的見地から「こういうことなんですよ」という解説をしているだけです。それは別に政治的な話ではなくて、専門的、技術的な見地から「こうではないでしょうか」とお話しするということです。

 政治的な主張を一方的に公的機関が押し付けてはいけないのは当然です。

 しかし、今ある政治問題を、学問的に読み解くとどう見えるのか、歴史学、政治学、社会学、哲学、経済学など、さまざまな研究分野の視点から分析することは、とても大切です。もちろん、憲法に関して議論しようとするなら、法学の視点から検討することも絶対に必要でしょう。

 問題をどう読み解くかという理論的な視点がなければ、なかなか合理的な判断はできません。単に世間の空気に流されてしまうことになるでしょう。学問的な分析は、どんな政治的立場を採るかに重要な影響を与えることがあるのは事実ですが、だからといって、学問的検討がそのまま政治的な発言である訳ではありません。個人的な好みや主義主張と、学問的な評価を区別しなければ、学問は成立しないのです。

 ですから、私は特定の政党や政治団体とは一線を画しております。その証拠に、公明新聞からも取材を受けてしゃべっておりますし、この前、民主党の議員の方と一緒にシンポジウムにも出ましたし、何と、この前は、しんぶん赤旗さんからも取材がありまして、不偏不党を貫いているわけです(笑)。

 そういうわけで与野党、どのような団体に対しても「不偏不党」ということでコメントをしております。今日のテーマは、國分先生が最初に強調してくださったように、どういう筋道で考えるべきか、順序立てて考える。また、憲法と民主主義、憲法の内容について正確な知識を持っていただき、皆さんがどういう政治的な決定をするにせよ、正確な知識に基づいて賛成なら賛成、反対なら反対をしていただこう、その材料を提供できればと考えております。

 現在の憲法をめぐる政治状況は、非常に混乱していて、わけがわからないという感想を持っておられる方も多いのではないでしょうか。

 法律学というのは理論の世界、つまり、理屈を使って説得し合う世界です。もちろん完全無欠で矛盾もなく、全部説明し尽くされているという議論が一番いいのですが、なかなかそうは行きません。たいていの議論は矛盾を孕んでいるので、そこを指摘されたら修正していかねばなりません。修正ができないなら、負けを認めて退場するしかないのです。

 この世界で、非常にわかりやすく負けてしまうタイプの議論というのは、矛盾点が1個だけあるというタイプ。1個だけの矛盾点というのは、そこがポキッと折れればおしまいです。これはみなさんにすぐわかっていただけると思います。

 しかし非常に不思議な現象として、矛盾点が二つ以上あると、なぜか妙な説得力を発揮するというタイプの議論があって(笑)、「多矛盾系」と呼ばれております。あ、ちなみにこの呼び方は、私が最近、考えて、普及活動に努めております。

 これはどういう現象かというと、冬季五輪が今年ありましたね。羽生結弦さんがフィギュアスケートで金メダルを取りましたが、「羽生(はぶ)が金メダル」というふうに将棋クラスターの中で話題になって、「冬季五輪は将棋もやってるんだね」と言っている人がいたわけですが(笑)、これは矛盾点が1点だけなので論破は簡単なんです。「いや、五輪で将棋はやってないです」と言えば終わりです。

 しかし、ある友人が「将棋のラージヒルはいつ始まるんだ?」というふうに質問してきました。そもそも将棋には、ラージヒルとかノーマルヒルはありませんから、それに対して「ラージヒルはないですよ」と言ったら、まるで冬季五輪で将棋もやっているような感じがしてしまいます。

 一方、「いや、冬季五輪で将棋はやっていないですよ」と言ったら、将棋にノーマルヒルとラージヒルがあるような感じがしてしまう。つまり、矛盾が2点あると、一遍に一つしか批判できないので、残りの1点はまるで矛盾してないかのように残ってしまうという、現象が起きるわけです。

 現在の政治状況というのはまさに多矛盾的な状況です。

 どういうことかと申しますと、勘のいい方には既に、濃厚に嫌な予感が漂っていると思いますが、要するに、集団的自衛権を行使できるようにしたいというところに、突っ込みどころがたくさんある。ところが、もう一つ、現行憲法で集団的自衛権の行使ができるかというところも非常に突っ込みどころがあるので、矛盾点がまさに二つあるわけです。

 ですから、「いや、やはり集団的自衛権が行使できるようにするのは政策的におかしいんじゃないか」と批判すると、憲法上は問題がないかのような感じがしてしまうし、「いや、それは現行憲法では違憲で、やるなら改正が必要でしょう」と言うと、まるで、政策的には問題がないかのようなことになってしまう。

 テレビなんかだと時間が限られていますから、多矛盾系を指摘するのは、ほとんど不可能です。これからの国の方向性を左右しうる、重要な決定がなされるときなのに、その判断の前提となる十分な情報が、伝わりにくくなっているんですね。本気で何かについて考えたいと思ったら、テレビの情報だけではどうしても足りなくて、自分で本を探すなどして、基本を固めていくしかないんです。

 ところで先日、私のゼミのOB会がありました。集団的自衛権の話題になって、多矛盾系の議論になりました。先ほどは将棋のラージヒルの話を多矛盾系の議論の例として挙げましたが、飲み会の場だったのでもう少しどぎつく、「たとえばさ、あいつがちょんまげに全裸でこの場にいたらどうする?」という例を出したわけです。

 「ちょんまげはやめろ」と言うと「全裸はいい」ということになってしまうし、「全裸はやめろ」と言ったら、「ちょんまげはいい」ということになってしまう、と(笑)。

 そのときに、うちのゼミの主(ぬし)みたいな人がいて、彼女は法律書に強い出版社に勤めていて、「おまえ、もっと仕事しろ」ってOB会のたびに言われているのですが(笑)、その人に言わせると、「そんなやつは、ただ『帰れ』と一言、言えばいいだけじゃないか」と(笑)。

 「ああ、なるほどな」と思ったのですが、まさに今の政治はそういう状況であるということになります。

 ただ、「帰れ」と言うだけですめばいいのですが、どうもそうではない。私には何の権力もないので、私が「帰れ」といっても意味はないんです。日本の主権者は国民ですから、国民が「帰れ」というべきかどうかを考えて頂くしかないわけです。

 というわけで、国民の判断材料の一つとして、憲法学の立場から、技術的に何がどうなっているのかをお話しさせて頂こうと思います。

 最終的に私の話がどこにたどり着くかというと、民主主義と立憲主義がまさに現在課題になっておりますし、國分先生が教えてくださったとおり、順序立てて筋道を追って考えることが課題になっていると思います。

 ここで、ある本を引用します。

 「ここは一つ、民主的に決めようじゃないか」
 トケソさんがこう言って、リュックの中をゴソゴゾしはじめた。私も含めて皆、投票用紙を取り出すのだろうと思って見ていたが、彼が取り出したのは、あみだくじだった。 (巻真紀『陽気な平行線』漏電出版 35ページ)

 これは、私が一般向けに文章を書くときによく引用をする架空の本です。『atプラス』(太田出版)という雑誌で、皆さんには大変不興かもしれませんが、特定秘密保護法にはそんなに大きな問題はないという原稿を書いたときにも引用しています。これをちょっと読んでいただけると、非常に私が邪悪な人間であることがわかっていただけると思います(笑)。

 民主主義にも実はいろいろあって、ここに挙げた例は、要するに民主主義は投票だけだと思っていたら、それは違う、あみだくじだって民主主義だという話です。くじというのは民主主義の一つの重要な方法です。例えば裁判員制度というのはすごく民主的な制度だと思われていますが、裁判員とか陪審員を決めているのはくじです。

 投票で誰が裁判員をやるかということを決めているわけではなくて、無作為抽出で決めた人の考え方を反映させる、これも民主主義ではないかというのは、一つの考え方なわけです。

 これを、もう少し、統計学的に考えると世論調査のような話になるかもしれませんが、世論調査だって別に全員で投票しているわけではなく、無作為抽出で、日本全国1億人いるのに3000人ぐらいに聞いて、「内閣支持率が何%です」などと言うわけです。

 けれども、世論調査は、全員に聞いてないから全く無意味だとは普通考えません。くじというのも一つの方法だし、みんなで投票するのも一つの方法である。そうすると、民主主義というのは、実はそこから導かれる制度が一つには定まらない概念だということです。このことを頭の片隅に置きながら、これからの話を聞いていただければと思います。

武力行使を許容する根拠はどこに?

 私の専攻は憲法学ですから、結局集団的自衛権の行使容認が政策的に望ましいかどうかという話は――意見はありますが、それは横に置いておきまして――憲法学的にどう扱うかという話を最初に確認しておきます。

 日本国憲法には9条という条文があります。こんな条文です。

9条1項 日本国民は、正義と秩序を基調とする国際平和を誠実に希求し、国権の発動たる戦争と、武力による威嚇又は武力の行使は、国際紛争を解決する手段をしては、永久にこれを放棄する。
2項 前項の目的を達するため、陸海空軍その他の戦力は、これを保持しない。国の交戦権は、これを認めない。

 これは比較的有名な条文ですが、要するに1項で戦争は放棄しますと書いてあり、2項では戦争のための戦力を持ちませんと書いてあります。

 9条をどう理解すべきか、憲法学説はいろいろ分かれているのですが、A説というのは非常にシンプルに、1項で全ての戦争が放棄されているから、日本政府が外国に対して武力行使することは全て違憲だという説です。

 B説は、1項は国際紛争を解決するための戦争を、限定的に、ある種の戦争だけを放棄している。けれども、2項で戦力は持てないので、結局武力行使は全面的に禁止されるという説です。

 どちらにしても結論は、武力行使の全面禁止です。だから、どちらをとるかということはあまり実益のある議論ではありません。けれども、どちらが、よりエレガントな説明ができるかを競うのが法律学者です。世間的にはどちらでもいい話ですが、学界では長く議論されてきました。

 ここでは、どちらの立場を採ろうと武力行使は全面禁止であるというところが重要です。全面的に武力行使が禁止されているので、海外で武力行使をする場合には、その例外を正当化する根拠を、憲法のどこかから見つけてこないといけません。

 例えば、刑法199条で日本の法のもとでは人を殺すという行為は禁じられています。けれども、正当防衛という例外を認める規定があって、この場合には、やむを得ないから、違法性を阻却し無罪にする、というルールになっています。

 法律の世界では、こういうふうに、全面禁止をまず一般的に置いた上で、例外を許容する規定があればそこの部分だけは認めるということもあるわけです。

 ですから、9条で武力行使を全面禁止するまではいいのですが、それだけでは結論が出ない。例外を許容する積極的な根拠が条文のどこかにあるのかを探す必要がある。これが9条と武力行使に関する、憲法解釈の基本的な構造になります。

 私の例え話は、かえってわかりにくいとよく言われるのですが(笑)、好きなのであえて言っておきますと、要するに、憲法9条という隕石によって恐竜が全部消滅している、だから、恐竜がいるという主張をする側に立証責任がある、という状況です。

 恐竜は全部絶滅していて例外は無い、つまり、全ての武力行使は許されない、自衛隊も違憲だ、という解釈をする先生もたくさんいらっしゃいます。確かに、憲法を読んでいても、「こういう時は武力行使をやっていいですよ」とはっきり言っている条文は見当たりません。

 ただ、政府はそういう解釈は採ってきませんでした。「個別的自衛権」という恐竜だけは生き残っていると理解しています。つまり、これまでの政府解釈は、我が国の存立が脅かされ、国民の生命、自由及び幸福追求の権利が根底から覆される事態であれば実力行使が許される、というものです。

 こうした解釈の根拠、つまり例外を許容する積極的根拠がどこにあるのかといえば、憲法の前文と憲法13条という事になっています。具体的には、前文で「全世界の国民が、ひとしく恐怖と欠乏から免かれ、平和のうちに生存する権利を有することを確認する」と書かれています。また、13条には、「生命、自由及び幸福追求に対する国民の権利については、……立法その他の国政の上で、最大の尊重を必要とする」と書かれています。

 こうした条文からすると、日本国民の平和な生活のために、日本国内の領域の安全を確保する責任が日本政府にあるので、その安全確保のために、必要最小限度のやむを得ない武力行使であれば許されるのではないかという説明です。そのための実力行使であれば2項にも違反しないのではないか、という基準でこれまでやってきました。

 我が国に対する武力攻撃は、当然、我が国の存立を脅かす事態です。したがって、我が国の存立を守るための武力行使は許容される。こういうふうに政府は長らく解釈をしてきたわけです。

 こういうふうに、まず日本国憲法の解釈として、「我が国に対する武力攻撃を排除するための武力行使」は許される、ということが導かれます。それを前提に、この武力行使は、国際法上の解釈としては、個別的自衛権の行使は許容される、という話が続くことになります。

 ちょっと誤解しやすいのですが、これまでの憲法解釈で個別的自衛権の行使が許容されてきたというよりは、憲法上許容される武力行使というのがあって、それは国際法上は「個別的自衛権」によって正当化されると言ったほうがより正確なわけです。

 ですから、憲法上の評価と国際法上の評価は分ける必要があります。実際、憲法上は可能だけれども国際法上は違法とか、逆に憲法上はだめなのだけど国際法上は合法ということは、法体系が違うのですから、よくあるわけです。 (つづく)

國分功一郎 【哲学で読み解く民主主義と立憲主義(1)】――7・1「閣議決定」と集団的自衛権をどう順序立てて考えるか (2014/10/17)

國分功一郎 【哲学で読み解く民主主義と立憲主義(2】――解釈改憲に向かう憎悪とロジック (2014/10/18)

國分功一郎 【哲学で読み解く民主主義と立憲主義(3】――民主主義と立憲主義はどういう関係にあるのか? (2014/10/20)


筆者

木村草太

木村草太(きむら・そうた) 首都大学東京教授(憲法学)

1980年生まれ。東京大学法学部卒業後、同大学助手、首都大学東京准教授を経て現職。専門は憲法学。著書に『平等なき平等条項論』(東京大学出版会)、『憲法の急所』(羽鳥書店)、『キヨミズ准教授の法学入門』(星海社新書)、『憲法の創造力』(NHK新書)、『テレビが伝えない憲法の話』(PHP新書)、最新刊に『集団的自衛権はなぜ違憲なのか』(晶文社)、共著に『未完の憲法』(潮出版社)、『憲法の条件――戦後70年から考える』(NHK出版新書)、『検証・安保法案――どこが憲法違反か』(有斐閣)など。趣味は音楽鑑賞と将棋観戦。棋譜並べの際には、菱湖書・竹風作の彫埋駒を使用。

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