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【憲法学で読み解く民主主義と立憲主義(4)】――二つの憲法の対立

木村草太 首都大学東京教授(憲法学)

 仮に安倍政権の政策を支持するとしても、彼らは自分たちで決めた枠を守らないでしょうと前回申し上げました。これははっきり言って、相当おかしな事態です。ですから、今後は、誰が閣議決定を解釈するのかが重大な課題になります。この閣議決定の解釈は当然、市民の側もやっていく必要があるし、法律専門家の側もやっていく必要があります。

 この解釈という作業は、すごく難しい作業ではあるのですが、何故、あえて解釈という作業があるのか、ということをお話します。それは、法律を決めた人と法律を解釈する人を分けるためです。

 これは、権力分立の一つの表れで、立憲主義の重要な工夫です。立憲主義の下では、非常に複雑な形で、権力者が自分と異なる考え方をする「他者」に向き合わなければいけないようにしているんです。強制的に他者と向き合わせる、他者の視点を経由させるように工夫されている、そういう憲法が立憲主義の憲法なのです。 

 抽象的に話しても意味が無いので、先ほどの國分先生のお話を思い出してください。國分先生は、行政権と立法権が合体することはとても怖いという話をされました。

 行政と立法が合体してしまうと、権力者は自分たちのやっていることはすべて正しい、何でもやりたいことをやっていいんだ、と思ってしまう。「自分たちが正しいと思うことをやる」のも信念のある行動という意味では大事ではあるのですが、そのままでは他者の視点が入らない。

 「それは、ちょっと違うのではないか」という他人の視点を経由することができないまま、ベタに進んでいってしまう。そうなると、意見の違う人たちは悪い奴だ、排除してしまえ、という話になりやすいんですね。これでは、個人の尊重なんてありえません。

 立憲主義の下では、そうならないようにいろいろな権限を分割しています。法律を解釈する人と法律を作る人は分けておくという工夫も、その一つです。規範制定者に対してあえて他者としての規範翻訳者、技術者を配置する。あえて他者の視点を設置する。これが立憲主義の重要な工夫です。

 最近の政治状況を見ていると、「他者の視点」を経由することを回避しようという姿勢があちこちにみえているのが、大きな懸念材料です。2013年は、96条を改正して、国会議員の過半数で憲法改正の発議が出来るようにしようとしました。これは、少数派の意見を無視しようという態度です。

 また、先ほどの北岡先生をはじめとした安保法制懇のメンバーは、集団的自衛権をぜひとも行使しよう、という考えで一致した人ばかりです。さらに、内閣法制局長官の人事でも、これまでは法制局勤務の長い方が長官に就任していたのですが、安倍首相は、集団的自衛権について積極的な立場である小松氏を、自身の判断で異例の抜擢をしたりしました。

 こうした、自分と異なる意見の人を排除してことを進めようという態度は、とても危険です。政策論的には、集団的自衛権を行使できる国というのも、十分にあり得ることです。立憲主義・民主主義の先進国とされているフランスやドイツでも、集団的自衛権を行使しています。しかし、他者を排除する態度というのは、立憲主義にも民主主義にも反します。

 集団的自衛権、外国の自衛を手伝いにいくこと自体にはいろいろ議論があっていいでしょう。外国の人でも困っている人は助けなくてはいけないというのは一つの考え方です。しかし、それをやるにしても、その検討のために必要な他者の視点というのを置けるのかどうか。そこが今、問われていると思います。

 実は法解釈というのは、あえて他者の視点を経由するために行っているという面があります。

 なぜ、法律の条文に縛られなければいけないのかと、市民の皆さんはよく思われるでしょう。政治家の皆さんもたぶん、何故、憲法に縛られなければいけないんだと思っているでしょう。そんなものに縛られていたら、現実的で迅速な対応ができなくなってしまうと。

 だから、法律家は嫌われ易いんです。法律を解釈するとかいって、まるで自分が法律であるかのように偉そうにしているやつ、既得権を持ったいけ好かないやつというふうに見られることが多いわけです。実際、そういう法律家もたくさんいますが――そういう法律家を抹殺するのが私の使命でありますが(笑)、その話はちょっと横に置いておきます。

 条文というのは法律家にとっても他者です。つまり法学として、あるいは法律解釈論として説得的な議論をするためには、自分のベタな思い、俺はこうしたいというだけでは説得力を持たない、これが法律解釈学のルールです。法解釈として説得力を持つためには、「ほら、条文とこんなに整合的に説明できるでしょう」と、あえて自分ではないものに引きつけて説明をしなければいけません。

 私も、いやな人に会えば、「そんなやつはすぐ捕まえてしまえ」と言いたいことはあります。でも、法解釈のフィールドで闘うときには条文とあえて結びつけなくてはいけない。「条文の内容がこうなっていて、こうだから、こうなんですよ」と自分で自分を型にはめなくてはいけない。だから、非常に窮屈な思いをするわけですが、そうした思いを経る中で自分の視点を相対化する、これが法解釈のルールです。

 それでは最後に、何が大事かという問題提起をさせていただこうと思います。今、立憲主義と民主主義は対立する、これをどう調整するのかという議論が注目を集めています。『atプラス』(太田出版)という雑誌で憲法特集をしておりますが、そこでも立憲主義と民主主義の対立がテーマとされています。

 しかし、この立憲主義と民主主義は対立するという言い方にはよく注意しなくてはいけません。現在の日本では、憲法を守るべきかどうかが政治的争点になってしまっています。

 たとえば、國分先生も話されたように、さいたま市の三橋公民館で、「梅雨空に『九条守れ』の女性デモ」という俳句が、会報には載せられませんと公民館から言われたということがありました。市や教育委員会の側は、「憲法9条は政治的争点なので」とおっしゃったわけです。でも、この句は、集団的自衛権の行使に反対ではなくて、憲法を守れという俳句です。

 つまり、さいたま市の教育委員会は、憲法を守るべきかどうかということが政治的争点であると考えたらしいのです。しかし、当然のことながら憲法を守るべきかどうかは、立憲主義を採る限り当然守るべきものでありまして、政治的争点ではないはずです。形の上では、安倍首相だって「はーい。憲法9条無視しまーす!」と言っているわけではない。集団的自衛権行使も、憲法に適合していますという説明を一応はしています。

 ですから、このさいたま市教育委員会の言い方は安倍総理に大変失礼な言い方になっております。なぜなら、さいたま市教育委員会は「総理が今、憲法違反したいと言っているのに、憲法を守れとは何事か」と言っているのと同じだからです。しかし、安倍首相は「憲法違反したい」なんてことおっしゃってはいない。あくまで、9条を守った上で閣議決定をしたといっているのです。ですから、教育委員会のこの対応については、かなり疑問に思います。

自分のしたいように決定する反知性主義憲法

 さて、こういう現状を見ると、なおさら、憲法を守るという主張と、憲法よりも民主主義を守らなければいけないという主張とが対立しているのではないか、どうもそういうふうに問題を捉えがちです。しかし、ちょっと落ち着いて考えていただきたい。

 國分先生が先ほど紹介していた長谷部恭男先生は、私の師匠筋にあたるわけですが、彼は大変恐ろしい人でして、先ほど、紹介していただいた新書ではわりとライトな感じなのですが、学術論文では大変な主張をしています。

 少し前なんですが、公法学会の総会報告の冒頭、一番偉い人がやる報告で長谷部先生が何を話したかというと、「憲法制定権力という概念は無意味であって、国民主権とか国民の憲法制定権力という概念は有害なので、捨てましょう」と言いました。

 これは非常に恐ろしいことです。これは、まさに哲学的な論点なのであとで議論させていただこうと思っています。

 予めポイントだけ指摘しておくと、国民主権とか国民の憲法制定権力という概念を使うと、国民が憲法を制定する権力があるんだ、だから今ある憲法を国民が変えてもいいし、あるいは、国民が新しい憲法を制定してもいいというタイプの議論につながっていくわけです。

 けれども、では、そこで言う「国民」を定義しているのは、誰かという問題があるわけです。そこには、果たして在日外国人が入っているのかいないのか、それによって全然国民主権の内容が違ってきますね。あるいは「国民」というけれども、実は国民の範囲が東京都民に限定されていたとかという可能性もあったりするわけです。

 これは、空論に思えるかもしれませんが、スコットランド独立に関する住民投票では、誰に投票権を与えるかが議論になっていました。結局、住んでいる場所で決めたようですが、先祖代々スコットランドの家系の人なのに、川を渡った側にいるから投票権が無い、ロンドンで就職した息子に投票権が無い、逆に、たまたまこの数年で引っ越してきた人には投票権がある、ということになり、不満が続出したようです。

 そういう意味で、国民が主権を持っているとか、民主主義と言っただけでは内容は全く定まらない。民主主義とか国民と言ったときに、それを定義する何らかのルールがある。そのルールが憲法です。ですから、実は今、対立がもしあるとしても、それは憲法と民主主義が対立しているのではなくて、憲法Aを守れという立憲主義Aと、憲法Bを守れという立憲主義B、それが対立をしているということです。

 國分先生はこの問題状況を反知性主義、つまり「あいつらはアホで何もわかっていない」というふうに批判されておるわけですが、その後に「そう言うだけではだめだ」とおっしゃいました。よく考えると、前半部分では「あいつらはアホだ」と言っているわけですが(笑)、簡単に言うと、憲法Bとは反知性主義憲法です。

 反知性主義憲法というのは私の言葉で言いかえますと、つまり技術者としての、あるいは他者としての規範解釈者を置かずに、もう本当に、ある人が自分のしたいように決定を行うという、そういうタイプの憲法です。

 今ある日本国憲法の、あらゆるところに他者を配置して、統治機構を動かすためにさまざまな他者の視点を経由しなければいけないという非常にややこしい体系と、もっと一元的に何らかのベタな主体によって、ほかの他者を全く無視した形で動かせる憲法のほうがいいのではないか、という二つの憲法が対立している。

 これは立憲主義と民主主義という対立ではなくて、今ある憲法と、他者を排除するタイプの憲法Bの対立です。今、問われているのは、日本国憲法のこの他者の視点を置きつつ統治を進めようという、民主主義でもあり立憲主義タイプの憲法Aと、技術としての法を無視するタイプのもう一つの憲法Bが対立をしている。この二つの憲法が対立しているという状況だと思って、今後の政治状況を見ていく必要があるのではないか。

 きっと、どんなに民主的だとしても、安倍首相はくじ引きで首相を決めることには同意をされないと思います。しかし、先ほども言ったように、裁判員などはくじ引きで決められているのですから、それもまた一つの民主主義であるということです。

 結局民主主義という漠然としたくくりで議論をしていても、なかなか話は深まりません。民主主義と立憲主義に対立があるのではなくて、彼らの前提としているルール、憲法こそが問われているのではないか。現行憲法と彼らの憲法のどちらの憲法が魅力的かが問われているのだということだと思います。 (了)

*次回から國分功一郎さんと木村草太さんの対談を配信します。

*この原稿は、2014年8月31日、東京・国立市公民館で開かれた「『図書室のつどい』 哲学と憲法学で読み解く民主主義と立憲主義」(國分功一郎氏、木村草太氏)の講演をもとに構成したものです。

國分功一郎 【哲学で読み解く民主主義と立憲主義(1)】――7・1「閣議決定」と集団的自衛権をどう順序立てて考えるか (2014/10/17)

國分功一郎 【哲学で読み解く民主主義と立憲主義(2】――解釈改憲に向かう憎悪とロジック (2014/10/18)

國分功一郎 【哲学で読み解く民主主義と立憲主義(3】――民主主義と立憲主義はどういう関係にあるのか? (2014/10/20)


筆者

木村草太

木村草太(きむら・そうた) 首都大学東京教授(憲法学)

1980年生まれ。東京大学法学部卒業後、同大学助手、首都大学東京准教授を経て現職。専門は憲法学。著書に『平等なき平等条項論』(東京大学出版会)、『憲法の急所』(羽鳥書店)、『キヨミズ准教授の法学入門』(星海社新書)、『憲法の創造力』(NHK新書)、『テレビが伝えない憲法の話』(PHP新書)、最新刊に『集団的自衛権はなぜ違憲なのか』(晶文社)、共著に『未完の憲法』(潮出版社)、『憲法の条件――戦後70年から考える』(NHK出版新書)、『検証・安保法案――どこが憲法違反か』(有斐閣)など。趣味は音楽鑑賞と将棋観戦。棋譜並べの際には、菱湖書・竹風作の彫埋駒を使用。

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