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差別と区別:なぜ曽野綾子発言は問題なのか?

「居住の権利」への挑戦

五野井郁夫 高千穂大学経営学部教授(政治学・国際関係論)

 この条約において、「人種差別」とは、人種、皮膚の色、世系又は民族的若しくは種族的出身に基づくあらゆる区別、排除、制限又は優先であって、政治的、経済的、社会的、文化的その他のあらゆる公的生活の分野における平等の立場での人権及び基本的自由を認識し、享有し又は行使することを妨げ又は害する目的又は効果を有するものをいう。(人種差別撤廃条約1条1項

 2015年2月17日のTBSラジオ『荻上チキSession-22』のインタビュー取材で、曽野綾子氏が「差別は区別とは違う」と発言した。

曽野綾子曽野綾子氏
 同発言は、人種差別で悪名高い白人至上主義団体「クー・クラックス・クラン」(KKK)から「在日特権を許さない市民の会」(在特会)まで、国内外を問わず世界中で差別主義者が自身の差別意識を正当化する際に使用する常套句である。

 大阪高裁の控訴審で在特会側が「国籍による区別を主張しており、人種差別にも名誉毀損にも当たらない」と主張したのに対して、大阪高裁判決は「人種差別」にあたると認定し在特会側が敗訴し、次いで最高裁が在特会の上告を棄却し判決が確定したのは、まだ記憶に新しい。

 文部科学省が定めている中学校の『私たちの道徳』には曽野氏の「ひと言」(27頁)が掲載されている。

 教科書に引用されるほどの作家が、なぜ差別主義者と同じ主張を平気でしてしまうのか。

 同じ中学校の「公民」では人種差別撤廃条約について学ぶ。TBSラジオで曽野綾子氏は、83年の人生の中でアパルトヘイトについては学ぶ機会がなかったと臆面もなく答えていたが、その結果、南アフリカ大使が曽野氏のコラムが掲載された産経新聞に正式に抗議するという、国際問題にまで発展しているのである。

 いくら人種差別について鈍感な曽野氏でも、彼女の軽率な発言が世界中の主要メディアに報道され、南ア大使に非難されるほどに国際問題化することで「日本の威信と国益を損ねている」ほどの「国辱」だと言えば、彼女の引き起こした事の重大さが分かるだろうか。

 曽野氏といえばカトリックの信者としても有名だ。

 カトリックが教会の現代化のために開催した第2バチカン公会議で定めた現代世界憲章の第2章28では「基本的人権に関するすべての差別は、それが社会的差別であろうと、文化的差別であろうと、あるいは性別・人種・皮膚の色・地位・言語・宗教に基づくものであろうと、神の意図に反するものであり、克服し、排除しなければならない」としており、カトリック信徒はそれに応えねばならない。

 では、実際のところ差別と区別はどう違うのか。

 区別とは、ただ単に違いを表すことだ。

 他方で冒頭の人種差別撤廃条約の文言が示しているように、人種や民族に基づいて人を区分することで人々が享有、すなわち本来的に持ち合わせている人権と基本的自由への認識と実現を阻害する効果を有する場合、その区別は「差別」となる。

 ネルソン・マンデラ氏が獄中から釈放されたのと同日である2月11日に掲載された曽野氏の産経新聞コラムを改めて読み直してみると、彼女の「私は、居住区だけは、白人、アジア、黒人というふうに分けて住む方がいい」という主張は、人種や民族に基づいて人を区分していることは明らかだ。

 日本政府は法的拘束力を有する国際人権規約に加盟し、適法に在住している外国人に対しても「内外人平等の原則」を採用ることで自国市民であるか否かにかかわらず人々の基本的人権を保障している。

 ひるがえって曽野氏の区別を称揚する主張は、

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