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[7]儒教道徳と大和魂の接合をねらった計画

ケネス・ルオフ ポートランド州立大学教授

 石原巌徹の8項目にわたる野心的な提案の細目を、少し要約したかたちで、解説を加えながら、以下に示すことにしよう。

 1、国廟の指定
  政府は曲阜孔廟を国廟として指定し、管理条例、祭典令などを規定する。
 2、祭祀の盛大化
  イ、春秋の祭期に政府は地位の高い公式代表を派遣し、同時に各省および特別市代表、全国各界代表などを参列させ、盛大に祭を挙行する。
  ロ、春秋いずれかを大祭とし、明治神宮大祭に範を取り、曲阜において各種の全国的大会を開催する。
 3、孔子神位の配布
  曲阜孔廟において「孔聖神位」(いわば孔子の位牌)を配布し、学校や官庁はすべてこれを受領し、毎月および行事のたびに位牌に拝礼するようにする。
 4、聖教大学の開設
  曲阜に普通の官立大学に準ずる大学を建設し、儒教を学ばせる。入学者は中国各省から選抜し、卒業者は中学以上の学校に派遣し、儒教の教科を教えさせる。
 5、研究所、博物館、図書館の開設
  儒教を研究する研究所をつくり、資料、書籍を出版する。儒教関係資料を展示する博物館をつくる。また儒教関係の資料を保存する図書館をもうける。
 6、観光施設
  イ、鉄道(ならびに市街電車)を敷設し、曲阜への交通の便宜をはかる。曲阜中心部を観光圏とし、鄒県の孟子廟その他の遺跡までつながる鉄道を整備する。
  ロ、大規模な旅館を建設し、鉄道会社や有力な民間企業がその経営にあたるほか、建設にあたっては助成金を与える。
  ハ、特別割引の参拝切符を発行し、全国各駅で販売する。
  ニ、動植物園をつくる(博物館の付属施設としてもよい)。
 7、その他の施設
  イ、明治神宮外苑競技場に準じて運動施設をつくり、地方からもこれを広く利用できるようにする。
  ロ、聖域を汚さない程度の距離に市街地をつくり、かつ関係従業員の住宅を建設する。
  ハ、古楽研究所をつくる。
 8、その他
  イ、中央および地方の要職者に曲阜参拝を義務づける。
  ロ、中学校以上の修学旅行の目的地に曲阜を加えさせる。
  ハ、「国廟参拝記念章」をつくり、曲阜訪問者に配る。

 この論文では、中国人に孔子再発見を促すことよりも、曲阜への来訪者を増やす基本計画のほうに、ずっと重きが置かれている。

 とはいえ、両者は簡単に分離できない。

曲阜の孔子廟前で買い物する日本兵 =1938年曲阜の孔子廟前で買い物する日本兵=1938年
 石原が中国の儒教回帰を提言していたことは重要である。日本人は「適切な場所(分相応)」といった考え方を引きだすことによって、帝国のヒエラルキーに奉仕するというイデオロギーとして儒教を利用していた。

 この意味で、曲阜観光の可能性を掘り起こそうという石原の計画は、儒教が現存のヒエラルキーを正当化していると考えられるかぎり、日本の支配を脅かすものではなかった。

 にもかかわらず、石原が北支交通の顧問をしていたことを忘れてはならないだろう。

 この会社は、鉄道やバス路線でも、その利用者が増えることを望んでいた。さらに1937年7月以来の日中戦争にからんでいえば、帝国全域に広がる観光旅行界の関係者のほとんどが、余暇旅行はいずれ国家に役立つという見方を公言していた。

 言い換えれば、たとえ石原が曲阜訪問者の増加しか考えていなかったにしても、時勢はかれの提案が単にレジャーの機会を増やし、経済活動を活発にする以上の高い目的に役立つものであることを証明するよう求めていたのである。

動物園をつくろうとした理由

 石原の提案で、ひとつはっきりしていることは、それがどちらかというと地元の人びとに向けられていて、日本の観光客をさほどあてにしていなかったことである。

 しかし、中国人の孔子再発見が、帝国日本の大陸政策と共存し、むしろその後押しをするという石原の提言は、とりわけ当時の中国ナショナリズムの台頭をかんがみれば、まったく実効性に乏しかったといえるだろう。

 かれの計画は、儒教道徳を大和魂と接合しようというもので、それは言い換えれば、日本人をトップとし、それ以外の人びとを日本が率いるアジア新秩序の適切な場所に位置づけようという考え方だった。

 それでも、公式の支援を要する石原の提案が、細かいところまですべて受け入れられ、曲阜が公式に神聖な国家歴史遺産と認められ、優先的に生徒の修学旅行の行き先に指定されていたなら、曲阜に行く人の数も劇的に増加したにちがいない。

 日本の内地では、生徒の修学旅行は1920年代にはすでに決まった行事のようになっており、それ以降も進化し、戦況が悪化するまでは、外地をも目的地にするようになっていた。石原は曲阜に関するかぎり、中国の学校の修学旅行を同じように定着させようと考えていたと思われる。

 観光客を引き寄せるという全般的な見通しからいえば、石原の提案も、しっかりとした土台の上に立っていた。その提案が、観光をますます広めようという当時の文化資本に立脚していたからである。

 観光客が旅先を選ぶうえで決め手になったのは、こうしたあちこちの場所が公式に必見の歴史遺産と指定されるかどうかによっていた。曲阜地域の現存観光資源の開発に加えて、石原もまた博物館から動物園(どちらかというと家族向き)にいたるまで、新しい娯楽施設をつくるよう提案していた。

 石原が動物園をつくるよう求めたのは、観光客に親しみやすい環境をつくろうとしたことの現れだった。

 石原はどんな動物園をつくるのかを詳しく論じているわけではない。ちいさなふれあい動物園なのか、それとも東京の上野動物園にひけをとらない規模を考えていたのか、あるいはその中間を考えていたかははっきりしない。

 そのため、かれがはたして曲阜の動物園を、歴史学者のイアン・ミラーが考察したように、恩賜上野動物園が当時果たしていた複雑な社会的機能を有するものにしようとしていたかどうかを推し量るのはむずかしい。動物園をほかの娯楽施設と組み合わせる植民地モデルは、台北やソウルなどでも見ることができた。

 たとえば、ソウルに置かれていた日本の朝鮮総督府は、植民地時代初期に昌慶宮を昌慶苑と呼ばれる公園に改造しており、そこに動植物園をつくっている。石原が孔子廟について思い描いたほど神聖化されたわけではないが(少なくとも日本の当局はそんなことを考えなかったのだが)、この公園は、残存する宮殿の建物のような歴史遺産を、動物園のような新しい施設と合体させることで、在住者にも観光客にも人気のある場所となっていた。

 当時、動植物園や博物館は、とりわけ動植物やさまざまな人間文化を分類することを通じて、今日よりもはるかに強く近代性を象徴する施設となっていた。そして動植物園は、人を自然から疎外したとされる、近代の都市化された生活にたいする潤いの場ともなっていたのである。  (訳・木村剛久

 本稿は2014年夏に国際日本文化研究センターから刊行された雑誌「Japan Review」27号に掲載されたケネス・ルオフ氏の論考、Kenneth Ruoff, Japanese Tourism to Mukden, Nanjing, and Qufu, 1938-1943 を著者の許可を得て訳出したものです。ページの都合上、<注>は割愛しました。原文、<注>および参考文献についてはhttp://shinku.nichibun.ac.jp/jpub/pdf/jr/JN2707.pdfをご覧ください。