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[1]「イスラム国」はどこから出てきたのか

川上泰徳 中東ジャーナリスト

 朝日新聞社を今年1月に退職するまで中東取材に20年間関わってきた。カイロ、エルサレム、バグダッドなどに特派員として駐在した。中東は地理的にも文化的にも、日本からは遠い世界であり、次々と世界を揺るがせるような事件が起きる。

 私が特派員として現地で関わっただけでも、パレスチナ暫定自治(オスロ合意)開始(1994年)、パレスチナのインティファーダ(2000年)、イラク戦争(03年)、アラブの春(11年)、シリア内戦(11年)、エジプトクーデター(13年)、「イスラム国」の出現(14年)……と歴史的な出来事が並ぶ。

 ほとんどの出来事は、いま問題になっている「イスラム国」(IS。以下「イスラム国」)のように、予想もしない形で始まり、世界に衝撃を与える。そのつど、ジャーナリストとして事件の真相や意味を知ろうとして、現場に行き、人々にインタビューしてきた。

 ジャーナリストとして中東に関わるということは、常に事件に翻弄されるということである。中東は様々な顔を持ち、その正体は簡単には見えてこない。しかし、次々と起こる出来事を追っていくことによって、中東の感触や呼吸に触れることが多い。

 この連載では20年間の取材を通して手にした中東の実感をつづっていきたい。

若者たちが集まる「イスラム国」

 「イスラム国」による後藤健二さん、湯川遥菜さんという2人の日本人の惨殺は日本に衝撃を与えた。殺害した覆面の男が、ナイフをかざして「これからも日本人を標的にする」と宣言したことは、単に脅しではなく、日本人が、いつ、また次の犠牲者になってもおかしくないという恐怖を植え付けるものだった。

 日本人の多くが、残忍な殺人を犯し、それをインターネットで発信する「イスラム国」の行動を、正常な理解を超えたものと考えるだろう。

 そう感じるのもやむを得ない。しかし、「理解不能」と思考を止めていては、「イスラム国」に対応することもできない。

 中東で起こることは、唐突に始まったように見えても、様々な前触れや伏線がある。「イスラム国」の正体を考えるために、私自身の中東経験をたぐりながら、「イスラム国」がどこから出てきたのかをたどってみよう。

 「イスラム国」の宣伝映像は動画サイト「ユーチューブ」でたくさん流れている。

 あごひげを生やした男たちが集まってカラシニコフ銃を高く突き上げて、「アッラー・アルアクバル(神は偉大なり)」と気勢を上げている映像や、集団の礼拝の映像もある。子供たちを集めて教育をする若者たちや、子供のがんを治療する医師たちの映像もある。

 「イスラム国」の大きな特徴は、登場するのがほとんど若者だということである。アラブ人は一般的に日本人よりもかなり年長に見えるし、あごひげを蓄えているので、老けてみえるが、「イスラム国」の映像に出てくるのは、年配の宗教者を除いてはほとんどが20代と30代と考えていいだろう。

 私は2011年春、エジプトの若者たちがムバラク体制に対して立ち上がった「エジプト革命」の日々をカイロ中心部のタハリール広場で見た。その時の取材については、改めて「アラブの春」の項目で書くが、「イスラム国」について考える時、革命から2年近くたった2012年11月にカイロのタハリール広場を埋めた「サラフィー主義者」と言われるイスラム厳格派の大規模集会を取材した時の記憶がよみがえってくる。

サラフィー主義の台頭

 私は当時、朝日新聞で東京を拠点とする「機動特派員」という職務にあり、2011年春の「アラブの春」で強権体制が崩壊した後に、エジプト、チュニジア、リビアなどで台頭してきた「サラフィー主義」に焦点を当てて中東の取材をしていた。

「アラブの春」の後のサラフィー主義者の台頭に焦点をあてた記事(2013年1月4日付、朝日新聞)「アラブの春」の後のサラフィー主義者の台頭に焦点をあてた記事(2013年1月4日付、朝日新聞)
 私がタハリール広場で出会ったのはサラフィー主義者らが広場を埋めて「イスラム法の実施」を要求する大規模集会だった。

 「サラフィー」とは、「サラフ(先祖)」から派生したアラビア語で、イスラム教徒が、模範的な統治が行われた初期イスラム時代を「サラフ」と考えて、その教えに立ち返ろうとする考え方である。

 「イスラム法の実施」は、サラフィー主義の基本的な主張である。

 イスラムの預言者ムハンマドが啓示として伝えた唯一絶対神アッラーの言葉を集めたコーランや、ムハンマドの言行録であるハディースをもとに、政治、社会、経済、刑法などあらゆる人間活動をイスラムの教えに基づいて律しようとするものである。

 イスラム世界の多くの国で、現代でも離婚、結婚はイスラム法によって規定されているが、民法や商法、刑法には幅広く欧米の近代法が導入されている。

 一方で、サウジアラビアやイランなどのイスラム体制の国ではイスラム法は刑法でも実施され、斬首処刑も行われている。

 エジプトでは12年6月にイスラム穏健派の「ムスリム同胞団」出身のムルシ氏が大統領選挙で軍人出身の候補を破り、大統領となった。

 ムルシ政権は憲法起草委員会を任命し、革命後初の憲法草案作業を始めた。起草作業が大詰めを迎えた11月にサラフィー主義者たちが圧力をかけようとしてタハリール広場で示威行動にでたものである。

広場を埋めたサラフィー主義者

 タハリール広場に行って驚いたのは、群衆の大きさだった。数万人規模である。

 いまでは「イスラム国」の象徴となっている黒旗が、タハリール広場のあちこちで翻っていた。黒地に「神は偉大なり。ムハンマドは神の使者」と、イスラムの信仰告白の言葉が白抜きで書かれている。「ジハード(聖戦)旗」とも呼ばれるものだ。

 サラフィー主義者といえば、男性は長いあごひげ、女性は目だけをだしたヌカーブ、というのが代表的な外見であり、イスラムに厳格であり、気難しい印象である。私にも、サラフィー主義者の群衆の中に入って写真を撮ったり、話をしたりするのに、若干の不安があった。

 まず、入り口の方にいるサラフィー主義者に「アッサラーム・アライクム(あなたたちの上に平穏を)」とイスラム式のあいさつをし、握手をする。「私は日本人のジャーナリストですが、今日は何の集まりですか」とアラビア語で話しかける。私はすべての取材を、アラビア語で直接行ってきた。

 そこにいる人間と話をすれば、その場の雰囲気は分かるものである。

 サラフィー主義者と次々とあいさつと言葉を交わしながら、少しずつ先に進む。外国人ジャーナリストは常に「よそ者」であり、どのような場所でも、その場の雰囲気を感じながら取材をする必要がある。相手の反応に反発や拒否をする様子があれば、無理をしないで、できるだけすみやかに、その場を離れるようにしている。

 このサラフィー主義の集会では、イスラム組織に詳しいエジプト人の新聞記者と一緒だった。話を聞いても、参加者の反応は非常に好意的だった。集会の中心部にある3メートルほどの高さのステージの真下にたどり着いた。演説を聞いている人々の写真や、壇上から演説しているリーダーたちの写真を撮った。

若者たちの親日的な対応

 偶然にも、数日前にインタビューをしたサラフィー主義のリーダーの一人が、檀上にたって演説を始めた。

 カイロのタハリール広場に集まったイスラム厳格派サラフィー主義者の大規模集会=2012年11月、写真はいずれも川上撮影カイロのタハリール広場に集まったイスラム厳格派サラフィー主義者の大規模集会=2012年11月、撮影・筆者
 私もステージの上から群衆の写真を撮りたいと思った。

 櫓(やぐら)の裏に回って、壇上にあがる梯子の下で、上がり降りを仕切っている若者にカメラを見せて、「日本人のジャーナリストです。壇上から写真を撮りたいから上がらせて欲しい」と頼んだ。

 「ヤーバーニ(日本人)か」と、長いあごひげの若者が確認するように言い、ちょっと待てという合図をして、周りの人間と言葉を交わした後、「上がってもいいぞ」と許可が出た。ありがたいことに、中東ではサラフィー主義者でも、「ヤーバーニ(日本人)」と言えば、よい印象を持ってくれている。

 ステージに上がって、群衆の写真を撮った。遠くまで見渡すことができ、改めて集まっている群衆の規模に驚いた。下から見たリーダーにも挨拶をした。そのリーダーはカイロのダウンタウンのある商店主だったが、白髪交じりの立派なあごひげを蓄えていた。

サラフィー主義者とキリスト教徒の対立のもと

 数日前のインタビューで、商店主はシリアのアサド政権と戦うために内戦に参加したいという若者にシリア行きの支援をしていると話した。本当か嘘か分からない話だと思いつつも、もし、シリア内戦に行く若者がいたら直接話を聞きたいから紹介してくれるように頼んだ。

 店でインタビューをしている時に、目だけを出したベールで顔を覆った女性が店に入ってきた。真っ黒な長服を全身にまとい、まるで黒い影が店に入ってきたようだった。商店主は女性と言葉を交わした後、私の方に向き直って、「彼女は以前、キリスト教徒だったのだ」と言った。

 サラフィー主義者の間では、エジプトにいるキリスト教の一派のコプト教徒をイスラム教に改宗させる活動をし、それをイスラムの勝利として喧伝しているという話を聞いたことがある。

 サラフィー主義者が「コプト教徒が、改宗した女性を連れ戻して、教会に監禁している」といって、カイロ市内のコプト教会を追いかけ、衝突が起こったこともあった。

 偶然だったが、キリスト教徒からイスラム教に改宗した女性と、改宗させたサラフィー主義者が目の前にいた。この商店主がシリアに戦いに行こうとする若者に支援をしているというのも本当だろう、と思った。 (つづく)