「大和の国」に問われている政治の質とその理念
2015年04月22日
翁長雄志―菅義偉会談の翌日の4月7日、菅官房長官は「粛々」という言葉を封印するとしたが、中谷元防衛相は「粛々」に代えて「予定通り堅実に工事を進めたい」という言葉を使った。
そして、安倍晋三首相は8日に「粛々」という表現を参院予算委員会で使い、その翌日に「あえて私も使う必要はない」と述べた。しかし、「堅実に」という表現はさほど「粛々」と差がないように思われるし、安倍首相の発言にも真剣な反省は見られない。
ここには、安倍政権の強権的姿勢が現れている。
NHKや報道ステーションをめぐる問題のように、このような政権の強権的姿勢は本土でも顕著になりつつあり、「言論の自由」への脅威が論じられている。安倍政権の「独裁化」という議論が、国内でも国際的にもますます真実味を帯びて論じられつつあるのである(「閣議決定後の日本政治をどう捉えるべきか?――[10]権威主義化による本当の民主主義の終焉」)。
しかし、こと沖縄問題に関しては、この姿勢は本土以上にさらに大きな問題を孕んでいる。
このような日本政府の姿勢を、キャラウェイ高等弁務官の例を出して知事が批判したように、日本政府の「力」による強行姿勢は、占領地や植民地に対する支配国や宗主国の態度を連想させかねない。この沖縄県民の感覚は決して軽視できない。
そもそも、「日本民族」が単一民族であるというのは神話であり、沖縄県について言えば、琉球王国がかつて存在し、沖縄の文化には本土の文化とは異なる側面が存在し、「琉球民族」という概念を主張する人もいる。
実際、沖縄県民には、「日本国民」としての意識とともに、「沖縄人」としての意識も色濃く存在するのである。
だから、沖縄については特にこの二重の歴史的・文化的アイデンティティーの存在を無視してはならない。つまり、日本における多文化主義的側面が沖縄には確実に存在するのである。
そこで、ウチナーンチュという言葉に表れているような地域の民族的感性が刺激されれば、本土のヤマトンチュの政府の高圧的姿勢は、異民族支配を連想させるような傲慢な姿勢に見えてしまうだろう。
これは、問題をさらにこじらせてしまい、基地問題の解決をさらに困難にしてしまう。さらに深刻になれば、
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