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[3]アメリカ大使館開設の時と、メーデーと

板垣真理子

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 日々、学生もやりながら、一般生活人としてキューバにいると、当初こういう取材をしよう、と思っていたことがどんどん変化していってしまうのを感じる。

 つまり、今のキューバの人たちが何を考えて生きているのかを知りたいことに尽きる気がしてしまうが、それでも大きな社会的な出来事も外せない。今回は、今年3月半ばにこちらに着いてから、世界的にも報道されているような大きな出来事を、現地生活の眼を通して書いてみようと思う。

 まず、出発前から話題になっていた、というよりも、その瞬間を目撃しキューバの変化を見ようという目的もあってやってきていた「米国大使館開設」。

 日本での話題やネット上の外電では、4月11日、Xデーという情報もかなりあった。それは、パナマで行われる米州サミットで、4月10日にラウル氏(国家評議会議長)とオバマ氏が会談をし、その話し合いがうまくいけば、翌日にも大使館が設立されるはすだ、という仮定上の筋書きだった。

 想像を上回るあまりにも早い進展に驚きつつも「なんとか間に合ってキューバに入ることができた」と思っていたのだが、ここ、キューバの人たちは誰もその日付を知らなかった。「そんなこと聞いたこともない」「そうなんですか?」といった具合。キューバの人、日本の人も含めて。「初めてその日付を聞いたので、ドキッとしました」という方までいた。

 なので、その日に対する期待は持ちつつも「そうならないかもしれない」という危惧のほうが強まっていく。結果、そうなった。

 実際には、米国におけるキューバ大使館が、7月20日に開設され、キューバにおける米国大使館は8月14日に開設となる。この原稿は、その狭間で書いている。続けよう。

Xデーに向けて

 そもそも、その日付そのものが単なる憶測に過ぎなかったのか、別に理由があって成立しなかったのかは、わからない。

 2014年12月17日、国交正常化交渉に向けて話し合うことを、両国のトップが世界に発表した時、キューバの人たちはかなり喜んだはずだった。しかし、今年3月9日に、米国が、ベネズエラを米国の「脅威」として経済制裁を始めると、キューバでの雰囲気も一変。国営テレビで、「ベネズエラを支援しよう」などの呼びかけが始まった。

 当時、まだ日本で準備中だった私は、いつも駐日本キューバ大使館を通じて届いているフィデル・カストロ氏からのメッセージ・メイルが久々に届き、かなり激しい調子で米国の政策を批判していたので、「あらっ、この時期に? 」と思ったものだ。

 その展開は、キューバでも間違いなくあったようで、国交回復がすぐさま進んでいくという期待は、4月11日直前にはもうかなりしぼんでしまったようだった。

 私がハバナに到着する直前の3月15日、米国のジェーコブソン国務次官補(西半球担当)が、キューバ外務省のビダル米国局長と話し合うために訪キューバした時には、「ベネズエラ支援コンサート」が急きょ開かれ、ハバナ大学前の大通りには数千人が集まったという。

 惜しくもその3日後にハバナに入った私は、4月11日に向けて、通訳さんも探して準備を進めていたが、キューバの人たちのあまりにも何事もなさそうな気配に、海外で聞くこととのギャップの大きさも実感したのだった。

 4月10日、パナマでの両国トップの歴史的な話し合いは実行された。キューバのテレビでもその様子は報道されたが、私が見たニュースでは、両国トップが握手を交わす瞬間の数秒間だけが、繰り返し何度も何度も写しだされていた。

 カメラはほんの少しだけラウル氏の顔が見える側のものが使われ、オバマ氏の表情までは見ることができなかった。投宿していた宿(こちらでは家という意味の「カサ」という言葉が使われる)のひどく写りの悪いテレビで、その瞬間を撮影したことが、かえってキューバにいることを実感したような感じがした。

 そうやって過ぎてしまったXデーだったが、米州サミットでのラウル氏の演説は、とても熱いものだったらしく、過去6回、キューバが出席できなかったことを理由に、一人の持ち分8分×6=48分の演説を「いいよね?」と言いながら履行した。

 この時の、隣に座る外務大臣のさすがに気遣わしげな様子も、テレビのニュースで垣間見たが、印象的なものだった。内容に関しても、ケネディ大統領暗殺の時期に触れたことも、かなり印象的な出来事だった。

 兄であるフィデル氏、また早世したゲバラ氏のあまりにも強いインパクトの影にありがちなラウル氏だったが、現在のキューバを牽引する、重要な存在であることもあらためて知らされた。もちろん、55年前に成立した革命時にも共に行動した実歴を持ち、血族の中では唯一の政界人でもあることも付け加えておこう。

 米国大使館開設の場所は、以前からずっとある……そう、「米国利益代表部」なるものの建物であることは確かである。あの有名な海岸通り「マレコン」沿いに建ち、マイアミ方向を横目に眺めるポジションにある。

ハバナのメーデー

 では、今回のもう一つのテーマ。キューバのメーデーについて書こう。「ちゃんと」ハバナにある米国利益代表部と、メーデーのことはまたつながっている。そのことは最後に触れることにしよう。

 メーデーの前々日、つまり4月の最後から2番目の日は、驚くような悪天候で、恐ろしいほどの雷鳴がとどろき、激しく雨が降った。15年間ハバナに在住している人が「こんなのは初めて体験した」というほどだった。

 ちょうど来客を迎えていた私は、あまりにもひどくならないうちに帰っていただき、手に持っていた譜面台は危険だから、と置いていっていただいたほどだった。

5月1日、メーデーの日のパレード、キューバ国旗。雨がどんどん強くなる拡大5月1日、メーデーの日のパレードとキューバ国旗。雨がどんどん強くなる=撮影・筆者
 実際、のちに聞くと、この日は海岸沿いのマレコン通りが浸水し、バスがその高さの半分まで沈んでしまった。

 当然のこと、レスキュー隊も出動し、バスはなんとか無事だったようだが、ハバナ市内で3人が亡くなったという。ほんの数時間のスコールとしてはなかなか他に例を見ないほどの災害だった。

 そして、夕刻、ハバナ市内では初めて「交通渋滞」を目撃した。そんな翌日の夜、また雨がかなり降ったがようやく道路も水も収まってくると、今度はなにやら通常を超えた賑やかさ。

 メーデーの前夜祭のようだった。揃いの赤い服を来た人たちが、夜明けまで道路上で音楽を奏でつつ盛り上がっている。明日は、真っ赤な人の流れになるのだろうか、と思っていたら実はこれは、「ハバナ・クラブ」(キューバのラム酒の名でもある)の一団で、彼らの揃いの衣装が赤なのだった。

 当日、朝7時。この時期、革命広場前にほど近いカサにいた私は、パレードの始まるぐらいの時間に広場に向かった。

内務省前で歌う、生徒たち拡大内務省前で歌う、生徒たち=撮影・筆者
 しかし、そこにもってきて、また「雨」。しかも、「一般人」は大きく迂回させられて、パレードの出発点に到達するまでにかなりな時間がかかった。「雨にも負けず」大きな国旗を捧げて歩く人。お祭り気分で楽器も演奏しながらかなり盛り上がっている人。皆それぞれだがいろいろなグループが揃いの衣装で出てきているところは、カーニバルも連想させられて、面白い。

 1時間ちょっとかけて、主会場である革命広場まで到達。革命記念塔と、その前に鎮座するホセ・マルティ氏の白い彫像と、大きく広い道を挟んで対面にある、内務省の建物にはゲバラ氏のネオン管と、その隣には、やはり革命に大きく寄与したシエンフエーゴス氏のネオン管にも、見守られている。

 ずっとキューバのトップの座にあったフィデル氏が、自らの肖像を表出させることを嫌ったため、ここにはフィデル氏も、ラウル氏の彫像もネオン管もない。ただし、パレードの人々の中には両氏の顔を掲げた人たちもかなりある(街の中にフィデル氏の顔が登場したのは、現役を正式に引退した後のこと)。

トルコ人がパレードに熱心な理由は?

 この日、ちょっと驚いたのは、トルコから来た人たちが、とても多いこと。そして、驚くほど熱心にパレードに参加していることだった。

 式典が終わりに近づいたころに、革命記念塔を背後に素晴らしいポジションにいて、ゲバラの肖像をプリントした布を掲げているために、恰好の被写体になっていた。

 かなりな人だかりになった。しかし、なぜ、トルコの人たちがこれほど熱心に革命の闘志の肖像を掲げているかは、後にキューバ外務省に問いあわせてもわからなかった。「他のジャーナリストからも同じ質問を受けています。調べてみましたが、結局わかりませんでした」とのこと。

 革命が成立した当時は、世界中にキューバ革命のシンパは存在していた。トルコの初代大統領もしかり。とはいえ、なぜ、今の時期にこれほど熱心なのかは、キューバにとっても謎、というのも面白い。

 ずぶ濡れのパレードを終え、オテル・ナシォナル・デ・クーバの外のカフェのソファに腰を下ろしていたら、さきほどパレードに参加したらしいトルコの人々に会えたので尋ねてみると、「初代大統領が……」という理由が返ってきただけだった。つまり「なぜ、今?」というのはわからないまま。

 ただ、ひとつ付け加えると、いわゆる「キューバ危機」――この言葉はキューバでは使われない。「ミサイル危機」と言われる。当然である。出来事は、キューバだけが行ったのではなく、米国と当時のソ連の間にキューバが挟まった関係だったのだから――の時、ソ連の出した「キューバからソ連のミサイルを撤去する」条件として「米国がトルコに置いたミサイルを撤去する」というものを出した結果、成立した経緯はある。

 しかし、それも、もう50年以上前の出来事。ぜひ、なぜ今トルコがキューバに熱い視線を送るのか、知りたいものだ。

指図が大好きな人たち

 こうしてあっという間に終わり、解散したメーデーのパレード。二つの個人的な思い出がある。

 革命広場前の主会場の内側で、高校生なのか、大学生かが、大きく声を張り上げて歌わされている一団があった。コンガのリズム、と呼ばれているものだった。

 一緒に出掛けていた中国人の留学生さんは、かなりスペイン語がうまいにもかかわらず、「なにを歌っているの?」と聞いても「聞き取れない」と言う。

 ちょうど、すべてが終わって、目の前を通りすぎようとした若者に、歌の意味を訊こうとして呼び止めた。感じよく立ち止まってくれた彼。息を吸いこんで、今まさに答えようとした瞬間、警備員がやってきて、なんと彼を追っぱらってしまったのだった。

 唖然とした私たち。学生らしきその男の子は、大人しく言いつけを守り、すぐに去ってしまった。あまりなことに気の収まらない私は、思いっきりはっきり抗議した。

 「私はジャーナリストで、こうしてわざわざ海外から来て、キューバのことをリポートしようとしているのに、どうしてそれを止めるのですか!?」

 英語だった。まだこれが言えるほどにスペイン語はできていなかった……幸いなことに。

 本当に幸いなことに、警備の係の人は、後ずさって行った。勢いに驚いたのか、英語が通じなかったのか。

 以前、「板垣さんが、まだスペイン語が達者ではないことが幸いすると良いですね」、そんなことを言ってくれた人があって、本当のところ、なんのことだかわからず、びっくりしていたが、この時「これか」と思った。そのまま通じていて、そして、相手が気を悪くして……そんな展開も想像してみた。

 しかし、こうして私がここで、癇癪を起こしてしまったのには、これ以前の理由もある。キューバにおいて、あまりにも多くの人が人を支配しようとすることだ。

 特に、最初にハバナで投宿した宿はひどかった。それこそ軍隊かと思った。「ああしろ、こうしろ、これはするな、あれはするな」。

 実際、この人のメンタリティは、軍隊か、それらしい学校で受けた教育の結果なのではないかと考えている。かなりな高齢の男性だったので、「今の」というのとは違うかもしれないのだが。

 学校で、また軍隊で、こうして指図され、その指示に従うことでなんとかやり過ごしてきた人たちは、また別のひとにそれを実行する。そんな気がしてならない。

 それに加えて、ラテンの国にありがちな、マッチョな性格。「男は!」というもの。特に女性に対して。

 そういうものが日本でもひどく嫌いな私は、ここキューバに来てすぐにそれを受け入れられたり、好きになれたりするわけがない。

 しかし、こうして後になって振り返ってみると、あの時、私がした行動は正しかったのかどうかが、わからなくなってくる。もちろん、「正しい基準」などというものが、この世にしっかりと存在する、などと思ってはいないが。外国人としては当然だ。ただし、もしキューバ人だったら? 私は、かなり空気がよめていない、的はずれな行動をとった人だったのかもしれない。

 ただし、またこうも考える。私がとった行動で、「外国人は、こう感じるのか、キューバでは当然のことが、外国の人にとっては違うのだ」、とわかってもらえたら、それはそれでとても嬉しい。

 かと言って、キューバの人たちが皆、指図が大好きな嫌な人たちではもちろんない。仲良くなっても、初対面でも、明るくフレンドリーで温かい人たちがいっぱいいることも、付け加えておこう。

 と同時に、私の身近なキューバ人で、警察と喧嘩してしまったひともいた。やはりなにやら強制的な態度に対して争ってしまったようだ。こういうこともあるのだな、と後になってわかった。もうひとつ付け加えると、その人は外国経験が長い。

 ずいぶん、個人的な体験の一つ目が長くなった。もうひとつの体験。

 この日、先にも書いた、オテル・ナシォナル・デ・クーバで一息つき、ぶらっとプール沿いに歩いてみた。この日、プールは休んでいて――メーデーの日は多くの店もお休みだ――ふと目をあげて、青く光るマレコン通りを見渡すと……なんと、正面にある「米国利益代表部」前にいっぱいの旗がはためいている。

米国利益代表部前のキューバ国旗、右手はマレコン通り拡大米国利益代表部前のキューバ国旗、右手はマレコン通り=撮影・筆者
 ぎょっ、とした。ブルーと白のストライプ、赤地に星!  「いつのまに、米国国旗がこんなにたくさん立ってしまったの!?」

 一瞬後には、それは米国国旗ではなくて、キューバ国旗だったことに気がつくのだが。ややこしい。

 しかし、焦った。逆光を浴びながら、強い風にはたはたと音をたててはためくキューバ国旗は、この日のみ、こんなにたくさん掲げられる。普段は、一個だけぽつんと掲げられている。知らないままに偶然、見つけることができてラッキーだった。

 正面にある、とは言いながらそこそこの距離のある「米国利益代表部」に向かって、どんどんと歩いていく。

 前の広場では、少年たちや、かなり大きくなった人たちも、サッカーの練習に興じている。もちろん、ここが代表部前だからではなくて、そうとう広い場所が確保できているからだろう。数年前まではサッカーを遊びでもあまり見られなかった「野球大国」だったキューバは今、あらためてサッカー熱が上がってきている。自国(キューバ)の出ていない試合のテレビ中継にあんなに熱くなっている人たちも初めて見た。

 代表部前に到着し、旗のアップや、マレコン通りも入れた引きや、いろいろなカットを撮影した。ここで、これほど熱心に写真を撮りたくなる理由というのが、実はある。

2007年、同じ場所にはためいた、「黒い旗」ものすごいインパクトだった=撮影・筆者拡大2007年、同じ場所にはためいた、「黒い旗」。ものすごいインパクトだった=撮影・筆者
 米国大使館ができたら、ここには米国の旗が立つのだろうか、という想像がひとつ。そして、2007年、ここに「真っ黒い旗がはためいていた日があったこと」を思い出していたからだ。

 ここに黒い旗が立った理由については幾通りかの返事をいただいていた。「米国が利益代表部前にキューバの悪口をテロップで流していたので、それを隠すために」というものと、「撃墜された飛行機に乗っていて亡くなったキューバ人を弔うために」というものと両方あった。いずれにしても、米国との緊張感を表わすものだったことには違いない。

 ここに、米国の旗が立つのは、いつのことだろうか? 

 光るマレコン通りを超えた美しい海を見ながらも、思いはそちらに向かっていく。上記したとおり、米国におけるキューバ大使館は7月20日に開設され、キューバにおける米国大使館は、正式には8月14日に開設となる。 (つづく)


筆者

板垣真理子

板垣真理子(いたがき・まりこ) 写真家

1982年、ジャズ・ミュージシャンの撮影から写真の世界に入る。以後、ナイジェリアをはじめとしたアフリカ、南米、カリブ、アジアなどを取材。著書に、『キューバへ行きたい』(新潮社)、『ブラジル紀行――バイーア・踊る神々のカーニバル』(ブルース・インターアクションズ)、『武器なき祈り――フェラ・クティ、アフロ・ビートという名の闘い』(三五館)など多数。