政府は世論に「騒がれる」ことを嫌うのだ
2015年09月21日
日本は表現の自由を守る国であると安倍首相は言う。天安門前の中国公安の警備は嫌いなはずだ。
だが、それを上回るほどの、さすがに先進国(?)、巧みに密集駐車された装甲車の万里の長城に守られて自由な抗議表明もままならないまま、安倍首相の年来の念願であった安保法案が通ってしまった。
この夢は、実は祖父で通称は「昭和の妖怪」、本名佐藤信介、養子に行って岸信介となった満州帰りの官界の大物の信念でもあったらしい。
A級戦犯容疑者から首相に上りつめた岸信介は戦前の東大の秀才だったようだから、この信念もいたしかたないかもしれない。当時は東京帝国大学が大日本帝国の思想を半ば体現していたからだ。
しかし、戦後も大分経ってから大学へ行ったなら、こうした定義は基本的には第一次世界大戦の前、つまり19世紀のものであることを習わなかったのだろうか。
二つの世界大戦を経てからは、しかも大戦の「火つけ人」である国の後継国家としては、そのような前戻りはあり得ない。国連をはじめとする種々の平和の「仕掛け」が出来上がっているときに、お行儀の悪いことこのうえない。まさに「平成のゾンビ」だ。
もちろん、多くの国が実際にはお行儀の悪い19世紀的振る舞いをしていることは否定できない。
でもそんな国家群の真似をしたいのだろうか。あるいは真似をする気がないならば、やはり明治以来のエリートの、「一等国になりたい」という念願も働いているのだろうか。文明や民主主義の名と暴力をくっつけられる国に。
だが、第二次世界大戦は別にして、戦後こうした「一等国」の戦争がうまくいったことがあるだろうか。ベトナムやイラクをはじめ、どこも多くの国の、安倍首相の好きな言葉を使えば「平和としあわせな生活」を破壊してきたのではなかろうか。
植民地的人道主義に依拠したフランスのリビア介入も結局はとんでもないことになっている。アメリカという帝国型の民主主義国家が協力してきた独裁者や権威主義的国家のリストは長い。そういう国にすり寄って、憲法違反が明らかな法律を通したのだ。
戦時中に商工大臣を務めた岸信介が典型だが、「一等国」志向のナショナリストたちは、国家への自分の愛、つまりただの国威発揚にいそしむ自己満足のために、本当は国家が守るべき市民を犠牲にしてなんとも思わない脳内構造になっているようだ。国が「立派」になっても、守ってもらえるはずの「しあわせな生活」を奪われる市民はたまったものではない。
反対運動が、普通の学生から、普通の研究者から、なによりも普通の市民から盛り上がったのは、消費税率上げ、ガソリン税値上げ、薬価変更といった、銭勘定とはあきらかに局面が異なるからだ。原発などとおなじく、現代の国家や社会の基本にかかわるからだ。
日本の保守政治家はよく「国家と国民のために」というが、この表現からしてとんでもない
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