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[1]フォルクスワーゲン排ガス不正事件の衝撃

不正の背景に、米国市場制覇への焦り

熊谷徹

超弩級の「地下室の死体」 

 ドイツ語に「Leiche im Keller」という表現がある。直訳すると、「地下室の死体」だが、企業や組織が他人に見せたくない不祥事が、秘密の場所に隠されているということを意味する。

 世界の様々なスキャンダルを見ると、多くの企業が「地下室の死体」を隠していたことがわかる。それにしても、9月18日に米国の環境保護局(EPA)が公表したフォルクスワーゲン(VW)・グループの排ガス不正は、超弩級の「地下室の死体」だった。

 世界中に12の自動車メーカー、60万人の従業員を抱え、ドイツ産業界の看板役者だったVWグループが、1100万台もの自動車に規制当局の排ガス規制をかいくぐるための違法なソフトウエアを組み込んでいたのだ。

VWの排ガス不正は、ドイツの多くのドライバーを驚かせた(写真に写っている車両は今回の不正事件とは直接関係ありません)拡大VWの排ガス不正は、ドイツの多くのドライバーを驚かせた(写真に写っている車両は今回の不正事件とは直接関係ありません)

 同社はトヨタを抜いて、世界一の自動車メーカーとなることを最も重要な目標にしていた。VWは栄冠を手にするまで、あと一歩の所にいた。VWの販売台数は今年上半期にトヨタをわずかに上回り、通年でもトップの座に立とうとしていた。だがEPAの発表直後、同社の株価は1週間で約40%下落し、株式時価総額が250億ユーロ(3兆5000億円・1ユーロ=140円換算)も減った。2007年からCEO(経営最高責任者)だったマルティン・ヴィンターコルンは、「私は排ガス不正について知らなかった」と弁解したが、引責辞任に追い込まれた。トヨタ打倒の夢は、一瞬にして崩れ去った。

 VWは不正ソフトが入っている車をリコールして修復するための費用として、65億ユーロ(9100億円)の資金をすでに準備している。VWは、欧州最大の自動車メーカーであり、この国の産業界を代表する企業だった。世界で最も有名なドイツ企業の1つであるVWの転落は、多くの日本人の首をかしげさせている。日本のビジネスマンたちからは「販売台数や収益性を年々増やしていたVWに、なぜこのようなことが起きたのか?」という疑問の声をよく聞く。

 いまヴォルフスブルクのVW本社は、貝のように口を閉ざしている。EPAの発表から2週間以上経っているのに、VWはどの車種に問題のソフトウエアが搭載されているかについて、リストすら公表していない。

 同社は、10月2日から、顧客がVWのウエブサイトに自分の車の車台番号を入力すると、不正ソフトウエアが入っているかどうかを調べられるページを公開している程度だ(ただし米国とカナダで同社の車を買った顧客は、調べられない)。

巨大な法務リスク

 VWの沈黙には、米国やドイツで起きている訴訟に絡んで、原告側弁護士に機微な情報を与えてはならないという配慮が感じられる。

 同社は、今後世界一の訴訟大国である米国で、今後深刻な法務リスクに直面する。

 まず米国のEPAが科す罰金。同国のクリーン・エア法によると、EPAは法律違反のためにリコールされた車1台につき、最高3万7500ドルの罰金を科すことができる。VWが米国で48万台の車をリコールした場合、罰金の総額は約180億ドル(2兆1780億円・1ドル=121円換算)に達する。

 VWは、今後米国で長く複雑な法廷闘争を強いられる。EPAは、法律に違反した企業に厳しい態度で臨むことで知られ、多くの企業から恐れられている。しかも、VWの不正は、過去に起きた大半の自動車メーカーの不祥事とは異なり、当局の規制をかいくぐるために、メーカーが故意に行った疑いが濃厚だ。つまり、これまでの不祥事に比べると、裁判官や規制当局から「悪意を伴う行為」と見なされる危険が高いのだ。

 同社が今回のスキャンダルに関する米国での弁護を、米国の法律事務所Kirkland & Ellisに一任したことは、同社が今回の事態をいかに深刻に見ているかを示している。

 この事務所は、2010年にメキシコ湾で起きた海底油田掘削施設「ディープ・ウォーター・ホライゾン」の爆発事故をめぐり、石油会社BPが米国で訴えられた時に、弁護を担当している。環境関連訴訟では、米国で最も経験が豊富な弁護士事務所だ。

ミュンヘン市内のフォルクスワーゲン販売店(写真に写っている店舗は今回の不正事件とは直接関係がありません)拡大ミュンヘン市内のフォルクスワーゲン販売店(写真に写っている店舗は今回の不正事件とは直接関係がありません)

 さらに、市民からの民事訴訟も待っている。米国では、今回の不祥事によってマイカーの価値が下がったことをめぐり、すでに損害賠償訴訟が提起されている。米国にはクラスアクション(集団訴訟)という制度があり、1人の原告が同じ被害を受けた市民全員を代表して訴訟を起こすことができるので、賠償金や和解金の額が、日本やドイツでは想像もできない金額に達することがある。

 加えて、多くの投資家が株価の暴落によって経済損害をこうむった。すでに米国やドイツでは、VWの取締役たちから損害賠償を請求するための、株主代表訴訟が提起されつつある。

 法務リスクだけでなく、米国政界の追及にもさらされる。VWのマルティン・ミュラー新CEOは、米国議会上院の公聴会に召喚され、議員たちの厳しい追及にさらされる。自動車の欠陥をめぐる過去の不祥事では、外国のメーカーの社長が議員たちによって7時間にわたって尋問されたこともある。

 こういった法務リスク、政治リスクを考えれば、VWが不正の全貌を簡単に明らかにできないのも無理はないだろう。取締役を監督する立場にあるVWの監査役会も、10月1日に「今回の不正の解明には、少なくとも数か月はかかる」という見方を明らかにしている。このため、11月9日に予定されていた株主総会をキャンセルしている。

立ちはだかる米国の排ガス規制の壁

 ドイツのメディアでも、「なぜVWがこのような不正を行ったのか?」という最も重要な問いについては、憶測に基づいた記事が多い。だが1つだけ言えることは、「欧州よりも厳しい米国の排ガス規制をめぐり、VWの技術陣が壁に突き当たっていたこと、そしてVWが自動車大国アメリカでマーケットシェアを拡大できずに苦しんでいたことが、排ガス不正の重要な背景となっている」という点だ。

 ヴィンターコルンが2007年にVWのCEOの座に就いた時、同社の米国市場での販売台数によるマーケットシェアは、3%に満たなかった。このため、VWは「クリーン・ディーゼル」と呼ばれる技術によって、米国でのシェアの拡大を計画。ディーゼル技術によってトヨタのハイブリッド車を凌駕することを目指した。同社は、ディーゼル・エンジンによる有害物質の排出量の少なさを、米国でのセールスポイントにしようとした。

 だが同社の前に立ちはだかったのが、米国の厳しい排ガス規制の壁である。

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筆者

熊谷徹

熊谷徹(くまがい・とおる) 在独ジャーナリスト

1959年東京生まれ。早稲田大学政経学部卒業後、NHKに入局。ワシントン支局勤務中に、ベルリンの壁崩壊、米ソ首脳会談などを取材。90年からはフリージャーナリストとしてドイツ・ミュンヘン市に在住。過去との対決、統一後のドイツの変化、欧州の政治・経済統合、安全保障問題、エネルギー・環境問題を中心に取材、執筆を続けている。著書に「なぜメルケルは『転向』したのか・ドイツ原子力40年戦争の真実」、「ドイツ中興の祖・ゲアハルト・シュレーダー」(日経BP)、「脱原発を決めたドイツの挑戦」(角川SSC新書)など多数。「ドイツは過去とどう向き合ってきたか」(高文研)で2007年度平和・協同ジャーナリズム奨励賞受賞。
WebSite:http://www.tkumagai.de
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