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[2]大日本帝国憲法にさかのぼってみる

(WEBRONZA×朝日カルチャーセンター連携講座)

長谷部恭男 早稲田大学教授(憲法学)

「統治権ヲ総攬シ……」

 まずは集団自衛権の行使という問題です。集団的自衛権の「行使」というふうにわざわざ申しますのは、歴代の、今までのということですけれども、安倍政権までの歴代の政府の見解は、日本は集団的自衛権は保有はしている、ただ憲法9条があるので行使はできないという立場でした。

 この、保有はしているけれども行使はしませんというのは、実は大日本帝国憲法にさかのぼって考えてみますと、明治憲法第4条ですが、皆さんご存じの通り、「天皇ハ国ノ元首ニシテ統治権ヲ総攬シ此ノ憲法ノ条規ニ依リ之ヲ行フ」と書いてあります。

 現代語訳をいたしますと、天皇は統治権を全部保有している。しかし、それを行使するときにはこの憲法の規定に従ってしか行使はしません、という条文です。

 ですから、天皇は行政権をすべて保有しているのですが、行政権をいざ行使するというときには国務大臣の副署がないとだめ。立法権を保有しているんですけれども、立法権をいざ行使しようというときには帝国議会の協賛がないと行使できない。さらに、司法権は、天皇の名において裁判所がこれを行う。ですから天皇自身は決して司法権を行使することはありません。

 保有すれども行使せず、というのが大日本帝国憲法の基本原理です。集団的自衛権をどんどん使えばいいのではないかと言っている人たちは、だいたい、「明治憲法に帰れ」と言ってる人だと私はにらんでいるんですけれども、だったら、もうちょっと明治憲法のことを勉強しろといいたい。保有すれども行使せずというのは、まったく不思議ではないわけです。

おかしな議論が横行している

 集団的自衛権につきましては、安倍政権が去年4月の閣議決定でもそういうことを言ってまして、それが今度の安保法制の中でも自衛隊法の改正の部分に取り込まれておりますけれども、要するに、集団的自衛権は今までは行使できないということになっていたんだけれども限定的な行使なんだから大丈夫だ、行使してもいいのだと。

 従来の政府の基本的な論理の枠内で、このことがちゃんと説明できるんだという理屈を立てようとしていると。これは皆さんご存じの通りでございますが、ただ問題は、その「限定的な行使」です。

衆院憲法審査会に参考人として呼ばれ意見を述べる長谷部恭男・早稲田大学教授=2015年6月4日拡大衆院憲法審査会に参考人として呼ばれ意見を述べる長谷部恭男・早稲田大学教授=2015年6月4日

 理屈はちゃんと通っているんです、今までともちゃんと理屈はつながってますと、政府与党の方々はそうおっしゃいます。しかし、限定的と言ってもどう限定されているのか。なぜ限定されているのかということは、一つ一つ見ていかないと分からない。

 すごく限定されていると言う人、これは特に公明党の方々の中にそういうことをおっしゃる人がいるんですが、どう限定されているかというと、実はこれは従来、個別的自衛権の行使とされてきたものの中の一部を、集団的自衛権の行使というふうに整理し直してるだけなんだと。だから、今までと全然変わってませんということをおっしゃる方もいらっしゃいます。ものすごく限定されているタイプの議論ですね。

 ただ、この議論はとてもおかしな議論です。というのも、集団的自衛権の行使というのは、我が国に対する直接の攻撃はまだない、攻撃の着手もまだない、その段階で外国、まあ日本と密接な関係にある外国が攻撃を受けたときに、それに対して対応するために日本が武力を行使するというものですね。

 ということになりますと、まだ日本に対する直接の攻撃はない、攻撃の着手もない、ただ密接な関係にある外国に対する攻撃があるという、ただそれだけです。だとすると、個別的自衛権の行使としてみれば、これはまったくの純粋な先制攻撃になります。そんなことができるはずがない。少なくとも個別的自衛権の行使としてはですね。

 とすると、これは従来、個別的自衛権の行使として整理されていたものを集団的自衛権の行使として整理し直しただけです、ということになるはずがない。

 そんなことは個別的自衛権の行使としても許されていなかったはずだから、この議論はとうてい成り立たないはずで、そのことは、例えば宮﨑礼壹という元内閣法制局長官の方がたびたび指摘をしておられます。

 別の議論がありまして、やはり限定されているというのですが、どう限定されているかというと、これは皆さんもたびたびお聞きになって耳にタコができたかもしれませんけれども、我が国と密接な関係のある他国に対する武力攻撃があって、そのために我が国の存立が脅かされる。

 国民の生命、自由、および、幸福追求の権利が根底から覆される明確な危険がある場合に限定されるというわけです。何度も何度も聞かされると頭の中でこの言い回しがグルグル回ってくるようなんですが、これでどう限定されてるんだろうかというのが次の問題でして、それが実はよく分からないんです。

 と申しますのも、どういう場合がこれに当たるのかということ、何と具体的に対応してるのかということがよく分からないわけです。なぜそうなってるかというと、皆さんこれはご存じの通り、この言い回しはもともとは1972年の政府見解、あの、田中角栄内閣のときに出された政府見解から取り出してきたものです。これはどういう政府見解かというと、憲法9条の下で許されるのは個別的自衛権の行使だけなんです、集団的自衛権の行使は許されないんですということを説明するときに、そのために理由付けとして出されてきたものです。

 全体の議論の流れとしては、要するに憲法9条があるわけですから、一般論として武力行使はできないというのがまずは出発点です。とはいえですね、じゃあ国民の生命、財産の安全について政府が何の配慮もしない、何のサービスも提供しないということは本当にそれでいいのかと。そうはいかないだろうと。ですから、個別的自衛権の行使、その限りでは、最低限、いや必要最小限の武力の行使で国民の生命、財産を守ることはできるはずだ。

 そのときの理由付けとして、今申しましたような、我が国の存立を脅かされる、国民の生命、自由、および幸福追求の権利が根底から覆される明白な危険があるから、だからそういう場合には個別的自衛権が行使できるんだ。そういう理屈だったんです。

 それを盾にしてって言うんですか、その言い回しだけを取り出してきて、こういう場合だったら集団的自衛権の行使もできるんだと言ったのが去年の7月の閣議決定だったわけです。

正当化の根拠になっていない理屈

 ただ実はこれから申し上げるのは、私が自分で思いついた話ではなくて、アメリカのシアトルにあるワシントン大学の比較法の先生にこういうことを言われて、ああなるほどなと思ったことなんですが。この、我が国の存立が脅かされ、国民の生命、自由、および、幸福追求の権利が根底から覆される明白な危険っていうのは、実は個別的自衛権の全体でさえ覆っていない、個別的自衛権行使全体の正当化根拠に実はなってないんです。

 どういうことかと申しますと、例えば尖閣諸島が日本の領土であるにもかかわらず、どこかほかの国がやってきて不法に占拠したとします。そのときに、あそこを占拠されると日本の存立は脅かされますか? 尖閣諸島が占拠されたら、日本国民の生命、自由、および、幸福追求の権利が根底から覆される明白な危険が存在することになるでしょうか。

 例えば竹島、あるいは北方領土。政府の説明ですと、あれは日本の領土であるにもかかわらず、外国が不法に占拠している。その結果、どうでしょう、日本の存立は脅かされたでしょうか。日本国民の生命、自由、および、幸福追求の権利は根底から覆されそうになっているんだろうか。どうもそれではなさそうです。

 ただそれにもかかわらず、もし尖閣諸島がそういう形で外国から武力による攻撃を受けたときは、当然、個別的自衛権を行使して対応できることはできます。これは国内法上もそうですし、国際法上もこれは疑いのないところです。ただそれを、先ほど申し上げましたあのぐるぐる回っているような言い回しで正当化できるか、支えてるかっていうと、それは非常に怪しい。

 ですから、この我が国の存立が脅かされるうんぬんというのは、実は、まっとうに行使できるはずの個別的自衛権の行使全体の範囲から見ても、ずいぶん内側に引いてる正当化根拠になっている。個別的自衛権の枠からしても、ものすごく内側に引いてるはずの正当化根拠なのに、それを基にしてなぜ集団的自衛権の行使を正当化できるのか。とてもおかしいんです。

 「死活的利益にかかわっている」

 別の話に移ってまいりますが、「我が国の存立うんぬん」というのがあまりにも面倒くさいからか、安倍首相にしても岸田外務大臣にしても時々言い換えをします。どういう言い換えをしてるかというと、我が国の「死活的利益」がかかわっているときには、集団的自衛権の行使ができるんだと言います。

 この死活的利益うんぬんという議論は、実は国際法学界の中に今までもある議論です。ただ、死活、つまり死ぬ、生きるの死活ですが、この死活的利益うんぬんというのはなかなか難しい概念でして。と申しますのも、犬とか猫とかですとですね、生きてるか死んでるかってとってもよく分かります。何せ生き物ですからね。ただ国家というのは、これは突き詰めると頭の中にしかない約束事なもんですから、生きてるか死んでるかってよく分からないんですね。どういうことが起こると死ぬのか、またどこまでだったら生きているのかっていうのは分からないんです。

 そうなってくると、物の見方によって、人によって変わってくることになる。例えば戦前で言いますと、「満蒙は日本の生命線」とかいいましたが、じゃあ満蒙を取られちゃうと日本は死んじゃうのかってことなんですね。でも、人によっては満州を守るためだったら武力は行使しますということになりますし、ちょっと前までですと、ホルムズ海峡です。ホルムズ海峡は死活的利益だというのですが、ただどこが死活的かって言うと、寒冷地の救急車のガソリンが足りなくなるからって、それって死活的だとかっていう。まあ、そんな話ですね。

 こうなってくると本当に限定されていると言えるのか、とても判断が難しくなってくることになります。ただ、話を翻すようですけれど、実は今申し上げましたが、国というのはもともと、突き詰めていくと頭の中にしかない約束事なんですよということからして、実は、国として実はこういう場合に死んでしまうと言うことはできます。国家はしょせん頭の中だけの約束事ですっていうことは古来、いろいろな人が指摘していることであって、私はそれは本当のことだからいろいろな人が指摘しているんだと思いますが、昔の思想家で言うと、例えばホッブズとかルソーとか、ロックとかいう人がそういうことを指摘しています。


筆者

長谷部恭男

長谷部恭男(はせべ・やすお) 早稲田大学教授(憲法学)

1956年広島市生まれ。79年東京大学法学部卒業。東京大学法学部教授を経て現職。主な著書に「比較不能な価値の迷路」「憲法の理性」(以上、東京大学出版会)、「憲法の理性」「憲法のimagination」(以上、羽鳥書店)、「憲法の円環」(岩波書店)、「憲法と平和を問いなおす」(ちくま新書)等。

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