メインメニューをとばして、このページの本文エリアへ

RSS

無料

[3]日本の憲法原理にとって最悪の敵は安倍政権

(WEBRONZA×朝日カルチャーセンター連携講座)

長谷部恭男 早稲田大学教授(憲法学)

「戦争では相手国の社会契約が攻撃目標」

 社会思想家のホッブスとかロックとかルソーとかいう人たちは「国家というのは頭の中にしかない約束事です」と言うだけではなくて、「国家というのは本当に約束に基づいてできているんです」と言ったわけです。これが社会契約です。

 社会契約を結んで国家ができる以前の状態は、自然状態。つまり、国家がない状態だったわけですね。そこではいろいろと困ったことが起こる。だから社会契約を結んで国家をつくりましょうということで、実際に国家が出来上がって、人々は国家に従うようになるという話です。

 その中でジャン・ジャック・ルソーですけれども、ルソーによると、、そうしてできた国家は、お互いに戦争をする、戦争は国家と国家がするものだって言うんですね。国家と国家が戦争をするとき、これは突き詰めれば、頭の中の約束事にすぎないもの同士が戦ってるということになりますが、そのとき、じゃあ、攻撃の対象は何なんだろう、というのが次の問題です。

 ルソーに言わせますと、それは相手の国の社会契約だと。相手の国の社会契約を攻撃目標にして戦っているんだというのが、ルソーが言ってる話でして、ですから究極的に戦争を終わらせようとすると、戦っている国同士が同じ社会契約にならないと戦争は最終的には終わらないということをルソーは主張しています。

長谷部恭男・早稲田大学教授拡大長谷部恭男・早稲田大学教授

 ということはどういうことか。例えば、最近の歴史で申しますと、日本は第二次大戦に負けたわけですが、負けたときにアメリカはどういう要求を日本にしたのか。それがポツダム宣言です。

 このポツダム宣言というのは、つまびらかに読んだことはないという首相もいらっしゃいますが、大ざっぱに申しますと、天皇主権というあなた方の社会契約はやめてください、そして我々と同じ、自由で民主主義的な国家になってください、というのがポツダム宣言が言っていることです。

 ですので、日本を占領したアメリカ軍にとって肝心だったのは、明治憲法を変えて、新しい憲法をつくってください、自由で民主的な憲法をつくってくださいということでした。だからこそマッカーサーは何度も、日本政府に憲法を変えてくれと要求したわけでして、そうしないとアメリカから見たとき、戦争が終わらないからなんです。

 それで現在に近づいてきますと、20世紀の終わりに冷戦が終結をしました。冷戦というのはご存じの通り、東側陣営と西側陣営とが、どっちがどっちをたたきつぶすかという戦争だったわけですね。お互いに大量破壊兵器を備蓄して、どちらがやられるか、それとも人類皆殺しになるかと、まあそういう戦争状態だったわけです。

 これがどうして終わったかというと、結局、東側諸国が、西側と同じ自由で民主的な憲法原理に変えます。あなた方と同じ社会契約を我々も採用しますと言ったから、冷戦が終わったわけでして、戦争というのは、最終的にはそういう形でしか終わらないものです。

憲法の基本原理を攻撃している人は誰か

 お前がそう言ってるだけじゃちょっと信用できないとおっしゃるかもしれませんが、加藤陽子さんという東京大学文学部の歴史の先生がいらっしゃいますね。加藤先生は戦争の歴史の専門家で、『それでも、日本人は「戦争」を選んだ』という大ベストセラーを刊行しておられますが、この本の中で加藤先生は先ほど私が紹介をいたしましたルソーの言葉を引き合いに出して、わざわざ「長谷部が紹介している」って言っていただいたのですが、要はルソーが言う通りだ、少なくとも近代以降の戦争の歴史を見る限りでは、ルソーの言ってることは当たっているとおっしゃっています。戦争の歴史の専門家の加藤先生がそうおっしゃってますから、そうなんだろうと思います。

 そういう点から、今現在日本で起こっていることを見てみますと、今の日本の憲法の基本原理を攻撃している人はいったい誰ですか、という話になります。それは安倍さんですよね。安倍政権こそが日本の憲法の基本原理を攻撃し、破壊しようとしている人たちで、日本の憲法原理にとっての最悪の敵は安倍政権だということが言えるのではないか、と私は考えています。国を愛するどころの話ではなくて、その正反対です。

砂川判決とは何か

 今度は砂川判決の話をいたしましょう。

 最近、妙に有名になってしまった砂川事件の最高裁判決の、法廷意見の部分をコピーしてお配りしました。砂川判決がなぜ妙な形で有名になったかというと、皆さんご存じの通り、この最高裁の判決が、集団的自衛権は行使できるということの根拠になるんだ、というふうに何人かの方や、まあ安倍首相も結局そんなことをおっしゃっていました。それでとても有名になったんですが、ただこれは、大部分の法律家、元最高裁の判事の方、そして元最高裁長官も含めて指摘している通り、そんなはずがないのです。

 なぜそんなはずはないのかということなんですが、字が小さくて申し訳ないんですが、「理由」と書いてあるところの最初の段落を見ていただきますと、そこにこの判決で問題になった論争点は何なのか、つまりこの判決はどういう問題を解決しようとしているのかということが書いてあります。

 そこに書いてある通り、アメリカ合衆国軍隊の駐留が、要するに米軍が日本に駐留してることが憲法9条2項前段の戦力を保持しない旨の規定に違反し、許すべからざるものであるかどうか、そうかどうかが問題なんだ、米軍駐留は憲法9条2項に違反するか違反しないか、これがこの事件で争われてる争点だということが書いてあるんですね。

 ですから、このこと自体からしても、日本にとって集団的自衛権の行使が許されるのか許されないのかなんてことはまったく争点になってないということが分かります。

 ただ念のためにもう少し説明をしますと、その段落の後に、「しからば、わが国が」と始まっているところがありますね。昔の判決文というのは味がありますね、「しからば」ですからね。

 「しからば、わが国が、自国の平和と安全を維持しその存立を全うするために必要な自衛のための措置をとりうることは、国家固有の権能の行使として当然のことといわばければならない」

 これが実は、集団的自衛権の行使を認めている根拠とされている文です。これだけです。別に個別的自衛だけだとは書いてないではないかと言うんですね。こんな片言隻句なんですが、この片言隻句がいったいどういう論理の中で使われているかというと、その後を見ていただきますと、こう書いてあります。

 「すなわち、われら日本国民は、憲法九条二項により、同条項にいわゆる戦力は保持しないけれども、これによって生ずるわが国の防衛力の不足は、これを憲法前文にいわゆる平和を愛好する諸国民の公正と信義に信頼することによって補い、もってわれらの安全と生存を保持しようと決意したのである」

 結局、憲法9条2項がある、だから同条項にいわゆる「戦力」は保持しない。戦力は保持しないので、それによって生ずる我が国の防衛力の不足、戦力を保持しないことになっているので我が国は防衛力が不足するわけですが、その防衛力の不足はどうするのかというと、「憲法前文に平和を愛好する諸国民の公正と信義に信頼することによって補い、で、我らの安全と生存を保持しようと決意した」というんですね。

 これだけ見ると何を言っているのかよく分からないんですが、防衛力が不足するので、平和を愛好する諸国民、もう少し具体的に言うとこれはアメリカのことです。授業でこの話をするとみんな学生はみんなびっくりするんですけど。要するに、アメリカの公正と信義に信頼をして、日本の安全と生存を保持しようと決めた、これが安全保障条約の意味ということです。この段落の最後にはこう書いてあって、これが結論です。

 「憲法九条は、わが国がその平和と安全を維持するために他国に安全保障を求めることを、何ら禁ずるものではないのである」

 さきほど言っていた、自国の平和と安全を維持するために必要な自衛の措置はとれるのだ、という文から何が出てきたかというと、アメリカ軍に駐留してもらっても構わないんだ、そういう結論を出していて、この結論を出すためにさっきの言い回しが出てくるんですね。ですから、日本が集団的自衛権を行使できるか行使できないかということとはまったく何の関係もない言葉です。それなのに、この片言隻句だけを抜き出してきて、まあ、個別的とも言ってないではないか、だから集団的自衛権もという話ですから、まあ、まったくもって驚きあきれるというのはこのことです。

「最高裁は判断しない」ー希望的観測にすぎない

 砂川判決は一種の統治行為論を採っているというふうにいわれることがあります。それはその通りで、一種の統治行為論を採っているのですが、だから仮に今回の安保法制について訴訟が起こってそれが最高裁まで上がってきたといたしても、一見極めて明白に違憲無効でない限りは最高裁は違憲判断を下さないだろう、というふうに政府与党の人たちは期待をしていますが、私はこれは希望的観測にすぎないと思います。

 なぜ希望的観測にすぎないかというと、これはもう50年以上前の判決です。50年以上前の最高裁、特に、強烈な反共主義者・保守主義者だった田中耕太郎が長官をしていたころの最高裁と、今の最高裁は同じ最高裁ではありません。仮にその同じ論理を最高裁が採るとしても、安保法制は、一見極めて明白に違憲無効であると言えば済む、それだけの話です。

 最高裁というのは、憲法判断を避けがちというふうにいわれることがあるんですが、ただ、言いたいことがあるというときには本当に明確に判断を下す。そういう方向にとくに21世紀に入ってからの最高裁はなっておりますので、まあ、少なくとも訴訟はやってみないと分からないということまでは言えるだろうと考えているところです。


筆者

長谷部恭男

長谷部恭男(はせべ・やすお) 早稲田大学教授(憲法学)

1956年広島市生まれ。79年東京大学法学部卒業。東京大学法学部教授を経て現職。主な著書に「比較不能な価値の迷路」「憲法の理性」(以上、東京大学出版会)、「憲法の理性」「憲法のimagination」(以上、羽鳥書店)、「憲法の円環」(岩波書店)、「憲法と平和を問いなおす」(ちくま新書)等。

長谷部恭男の新着記事

もっと見る