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[4]「左翼」はなぜ説得力を失ったか

革新勢力が、憲法以外の様々な論点を取り込み、深化させることができなかったからだ

外岡秀俊 ジャーナリスト、北海道大学公共政策大学院研究員、元朝日新聞編集局長

「二つのシステム」の果てに

ジョン・ダワー氏拡大ジョン・ダワー氏

 アメリカの日本研究者ジョン・ダワー氏は、「二つのシステムにおける平和と民主主義」という論文(「忘却のしかた、記憶のしかた」所収、拙訳、岩波書店)で、この保革の対立を歴史的に跡づけている。ダワー氏が「二つのシステム」と呼ぶのは、「サンフランシスコ体制」と「五五年体制」である。

 前者は日本がサンフランシスコ条約で「自由陣営」の側に属し、日米安保条約によって米国の冷戦政策の盟友になったことを指す。後者は、長く統治を続ける自民党が成立し、「戦後政治」の構図が固まった1955年のシステムである。

 この与党支配に対し、「平和と民主主義」という舞台において、自由主義派・マルクス主義政党の野党が、ときには影響力を発揮した。こうした「五五年体制」は、70年代半ばに崩れ、左派は政治力を使い果たしてしまった。それが、ダワー氏の描く戦後政治像の骨子である。

 なぜ左派は説得力を失ったのか。ダワー氏は、大きく分けて二つの理由がある、と指摘する。

 一つは、その間に日本が急成長を遂げ、「資本主義」は衰退する、という左派の批判の土台を掘り崩したことや、海外にも通じる経済大国になって、「アメリカ経済への従属」という議論も信用性を失ったという理由だ。

 もう一つの理由は、イデオロギー的に柔軟な保守が、反体制的な論点を巧みに政策に取り込んだためだ、という。

 ダワー氏が「五五年体制」と呼ぶのは、単なる政界の問題ではない。

 この年、まずサンフランシスコ講和条約への支持をめぐって分裂していた社会党の左派と右派が再統合に合意した。この年の総選挙で左右両派は三分の一を超える議席を得て、憲法改正を合同で阻止できる力を与えた。これに対抗して鳩山一郎の日本民主党、吉田茂の自由党が合体して自民党を結成した。

 しかし、こうした政界の動きの背後には、経済的、社会的な変動があった、とダワー氏はいう。この年は、国民総生産(GNP)が戦前のピークを初めて超えた。保守合同に対して、経済4団体が財政支援の準備を整え、一党支配による継続性は、日本の経済成長を支える長期計画を保証することになった。

 大衆消費文化の到来を告げる節目もこの年に起きた。通産省が「国民乗用車計画」を打ち出し、電気洗濯機、冷蔵庫、テレビという「三種の神器」という言葉が登場したのもこの年だった。ちなみに、社会党左派と連携する総評が「春闘」を制度化したのも、この年のことだ。

東京・大阪二元街頭討論会「岸首相と街の声」に集まった人たち。朝日放送が大阪・上六近鉄駅前、ラジオ東京が東京・新橋ステージにマイクを置き、岸信介首相と市民の声をつないだ。出演は政治評論家の唐島基智三氏 拡大東京・大阪二元街頭討論会「岸首相と街の声」に集まった人たち。朝日放送が大阪・上六近鉄駅前、ラジオ東京が東京・新橋ステージにマイクを置き、岸信介首相と市民の声をつないだ。出演は政治評論家の唐島基智三氏

 こうした動きが始まるなかで、野党勢力は60年の安保改正への反対や三池闘争で存在感を示した。60年代後半には、新左翼が先導するベトナム反戦運動が最高潮に達し、反公害運動や住民運動、被害者運動などの草の根市民運動が広がった。

 しかし保守は、より柔軟に、批判派の論点を取り込み、対立点を消していった。

 1967年に、佐藤栄作首相は「非核三原則」や「武器輸出三原則」を打ち出し、三木武夫首相はそれを強化したうえに、防衛費は「GNPの1%枠」を上限とするガイドラインを宣言した。アメリカに対する「日本の従属」を象徴する中国問題については、アメリカ自身が1971年に対中友好関係を樹立して、論点から消えた。72年には沖縄が日本に返還され、もう一つの「従属」の象徴も、論点から外された。

 こうして、本土の在日米軍基地や核兵器、兵器製造、中国、沖縄といった「平和と民主主義」をめぐるテーマはほとんど失われ、ベトナム戦争の終結で、批判派の最後の大義も取り除かれる。後に続いたのは、経済大国の恩恵に浴しつつ、物質的な豊かさを追求する「マイホーム」、「マイカー」時代である。

 1990年代初めに書かれたダワー氏の論文は、「民族精神と道義の高揚」を掲げる新民族主義(ネオ・ナショナリズム)の台頭を予見するところで終わっている。

 もともと弱体化していた「革新」や「左翼」の基盤は、その後、決定的なダメージを受けた。一つは1989年のベルリンの壁崩壊、91年の旧ソ連崩壊に象徴される冷戦の終結だ。そして、もう一つは改革開放路線に大きくカジを切った中国の変容だ。この二つによって、戦後の「左翼」は止めを刺されたといってよいだろう。

 もちろん、ここで、戦後の「革新」や「左派」に意味がなかったと言いたいのではない。それぞれの論点、対立点において、革新が激しく批判を重ね、多くの国民の共感を買ったからこそ、保守は多くの論点で譲歩せざるを得なかった、ともいえるからだ。

 私が強調したいのは、革新勢力には、憲法改正に欠かせない三分の一議席を確保しさえすれば、それなりの存在感を発揮する力があったが、それ以外の論点を取り込み、深化させることできなかった、という点だ。

 「革新」や「左派」が退潮した結果、もともと、中心に位置すべき「リベラル」な伝統が弱かったために、「非立憲主義」に対する批判精神は目立たなかった。

 それが、21世紀に入っても、15年夏まで長く続いた、「空気を読む」という同調圧力の実体だったのである。

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筆者

外岡秀俊

外岡秀俊(そとおか・ひでとし) ジャーナリスト、北海道大学公共政策大学院研究員、元朝日新聞編集局長

1953年生まれ。東京大学法学部卒。朝日新聞入社後はニューヨーク特派員、欧州総局長などを経て2006年から07年にかけてゼネラルエディター兼東京編集局長。11年3月に早期退社。著書に『地震と社会』(上・下、みすず書房)、『震災と原発 国家の過ち』(朝日新書)、『3・11 複合被災』(岩波新書)など。中原清一郎名義で小説『未だ王化に染はず』(小学館文庫)、『ドラゴン・オプション』(小学館)、『カノン』(河出書房新社)がある。

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