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[2]デモクラシーの根源は何だ?

「参加デモクラシー」と「代表制民主主義」は二つの違った種である

千葉眞

注)この立憲デモクラシー講座の原稿は、昨年11月27日に早稲田大学で行われたものをベースに、著者が加筆修正したものです。

立憲デモクラシーの会ホームページ

http://constitutionaldemocracyjapan.tumblr.com/

参加デモクラシーの弱点

千葉眞教授拡大千葉眞教授

 前回は「自由民主主義」体制の弱点として「寡頭制」の問題を提起しましたが、「参加デモクラシー」にも弱点があります。

 それは、民衆による統治ということでは民主主義の根本的意味を示しているわけです。ですが、「参加デモクラシー」の本拠地(フランチャイズ・本来の場)──は地方、ローカルだということです。「参加デモクラシー」の長所と短所とが同時にそこに示されているわけです。

 その長所とは、地方の住民たち、生活者たちが政治に生き生きとかかわっていく、そういうところにあります。しかし、「参加デモクラシー」を日本のような、かなり大きなインフラを持った政治社会に全面的に広めていくことは不可能です。「参加デモクラシー」は、地方自治の面で住民自治、住民投票、オンブズマン制度など、いくつかの重要な制度を創出してきました。しかし、それは、国政の面では国民投票以外には有効な制度を作り上げていません。制度面ではまだまだ完成途上のデモクラシーなわけです。

 それに加えて、参加デモクラシーを担っている大多数は普通の一般市民なのですが、政治の専門家ではありません。それぞれ専門を非政治の違った分野に持っていて、政治参加は、仏教用語を使えば、いわば「在家仏教」的にアマチュアとして行っているわけです。

 もちろん、そこに健全でいい面があります。「人民主権」の憲法および民主政治の精神から見れば、きわめて大事で貴重な民主主義の土台です。しかしまた、政治学はそういう市民の直接参加に対しては、少数の顕著な例外を除いて、一般的には冷ややかに見る傾向がありました。

 たとえば、純粋な民主主義というのは暴徒化する危険をいつも秘めているとか、それは無資格者の支配であるとか、だから民衆を支配権力から遠ざけておかないといけない、というような議論が、政治学の歴史においてはいろいろとなされてきました。これは根拠のない批判ではないわけです。

 「参加デモクラシー」にもこのように短所と言われるもの、問題点として指摘されるものがあります。しかし、それにもかかわらず、日本でも1990年代以降、地方分権が言われ始め、多くのNGOとNPOが生まれていった時代以降、「参加デモクラシー」は「生き生きとした政治」(lively politics)の代名詞として使用されてきました。

 それだけでなく、それは国政の「自由民主主義」体制を活性化させる起爆剤、政治の刷新と民主主義の民主化をインプットする活力として認識されてきました。「自由民主主義」が寡頭制に堕落するのを防止するためには、下からの入力というか、やはり、「参加デモクラシー」からのインプットがなければならない。こうして「参加デモクラシー」のエネルギーと活力と制度構想とを、どうやって「自由民主主義」の制度の中に還流させていくのか、これが1990年代以降の日本の民主主義の課題としてあり続けてきたと考えています。

参加デモクラシーと代表制民主主義

 ここでの「自由民主主義」か「参加デモクラシー」かについては、引き分けだ、どちらも大事だ、という結論になるわけです。しかし、どちらも大事だということで終わってしまっては問題が深まらないので、あえてどちらが大事なのかという問いを掲げてみたい。

 これは、この6月から9月にかけてSEALDsが、国会前の集会で、「民主主義って何だ?、これだ!」とアピールしたテーマですね。まさにこのテーマが、日本社会に今、問われているわけです。

 SEALDsは、「民主主義って何だ?」という問いに、「これだ!」という仕方で、まさに自分たちが実際に行っている「民意表明と参加」が「デモクラシーだ」と答えたと理解できると思います。私たちが国会前や街角や広場に集まり、そこで声を上げている、これがデモクラシーの根源だ、と。

 こうした市民による直接の民意表明と参加が民主主義にとって不可欠であり、こういう動きがなくなったら、民主主義は頽落の一途をたどり、没落し、死滅していく、と。これがSEALDsの今夏のメッセージだったと思います。私は、SEALDsの若い仲間たちと一緒に、やはり同じことを言おうと思います。「参加デモクラシー」こそ、「デモクラシーの根源」、「根元からの民主主義」なんだ、と。

オックスフォード英語辞典をひもとけば

千葉眞教授拡大千葉眞教授

 「参加デモクラシー」と「代表制民主主義」は同様に民主主義と呼ばれるわけですが、厳密に言うと、2つの違った種と理解すべきものです。

 「参加デモクラシー」(直接民主政)は、古代ギリシアの小規模なポリス(都市国家)で産声をあげました。中世の都市や町でも、近代においても地方の共同体などで、そこから連綿と続いています。

 しかし、「代表制民主主義」(間接民主政)は、厳密に言えば、近代の自由民主主義の重要な根幹的な制度として生まれた近代の産物です。

 このように民主主義には2つの形態があります。オックスフォード英語辞典(OED)には、最初に民主主義の定義として「民衆による統治」(government by the people)が出てきます。

 それは古代ギリシアの諸種のポリスにおける「デーモクラティア」(民衆の権力[統治]/直接民主政)を念頭に置いたものです。OEDはさらに、当然のことといった風情で、民主主義は民衆によって権力が直接的に行使される場合(直接民主政)と、民衆に選ばれた代表者によって間接的に行使される場合(間接民主政)の二通りのケースがあると説明し、これら二つの形態がどちらも正当な民主主義だと指摘しています。

 この民主主義の説明は大事な通説(一般的用法)の表明であり、辞典としての定義としてこれを私は否定したいと思いません。しかし、これは千葉の見解ですが、これら2つの民主主義を1つの種の2つの形態ないしヴァリエーションと見るのは弱いと思います。それらは、2つ異なった種(species)として理解されるべきでありましょう。というのも、両者には安易に同一種として認識するのをためらわせるだけの矛盾や齟齬があるからです。

 「参加デモクラシー」は、民衆の参加と自治を基軸とした民衆の自己統治であるのに対して、他方、「代表制民主主義」は代表者による委任型ないし信託型の統治であり、実際には多頭政(ポリアーキー)ないし寡頭政(オリガ−キー)の一形態として機能することが多いからです。

 そして近代から現代においては、これらの2つの種が結びつく形で「自由民主主義」という政治制度を構成しており、日本の民主主義もやはりそういう形になっていると考えておく必要があると思います(拙著『デモクラシー』iii-v頁、参照)。

 どちらの民主主義が民主主義として重要なのか。両方大事なのですが、どちらの民主主義がその根源なのか、根元からの民主主義なのか。鶴見俊輔さんが提起した「根元からの民主主義」、「ラジカル・デモクラシー」の問題を、やはりこれを問うてみたいのです。

デモクラシーの根源としての「参加デモクラシー」

千葉眞教授拡大千葉眞教授

 私はその問いに対して、民意と参加のデモクラシーの息吹が、日本社会の多くの地域に現れ、次第に定着していった時に、これが代表制民主主義の中に還流して、それを刷新し、活性化していくのではないかと期待しています。

 その意味で根本的な意味での民主主義というのは「参加デモクラシー」で、それがデモクラシーのルーツそして根源ではないかと考えております。

 日本国憲法は、それを認めているように思います。主権在民の原則は、主権者とは私たちが選挙で選ぶ代表者ではなく、国民それ自体であり、民衆それ自体であるという考え方を示しているわけです。また憲法前文には「国政は、そもそも国民の厳粛な信託によるもの」という文言が出てきます。ですから、日本国憲法の理解する民主主義の前提には、「代表制民主主義」だけではなく、「民衆による統治」という意味での「参加デモクラシー」も含まれていると認識する必要があります。

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筆者

千葉眞

千葉眞(ちば・しん) 国際基督教大学特任教授(政治学)

1949年生まれ。1972年に早稲田大学政治経済学部政治学科卒業、大学院へ。 1983年プリンストン神学大学でPHDを取得。シェルドン・ウォリンの研究者としても著名。著書に『ラディカル・デモクラシーの地平──自由・差異・共通善』(新評論、1995年)、『アーレントと現代──自由の政治とその展望』(岩波書店、1996年)、『思考のフロンティア デモクラシー』(岩波書店、2000年)、『「未完の革命」としての平和憲法──立憲主義思想史から考える』(岩波書店、2009年)など。訳書にシェルドン・ウォリン『政治学批判』(共訳、みすず書房、1988年)、シャンタル・ムフ『政治的なるものの再興』(共訳、日本経済評論社、1998年)、エルネスト・ラクラウ、シャンタル・ムフ『民主主義の革命』(共訳、ちくま学芸文庫、2012年)など。