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[3]新しい革命の構想が必要だ

ジョン・ロックとシェルドン・ウォリン

千葉眞

注)この立憲デモクラシー講座の原稿は、昨年11月27日に早稲田大学で行われたものをベースに、著者が加筆修正したものです。
立憲デモクラシーの会ホームページ http://constitutionaldemocracyjapan.tumblr.com/

トクヴィルのテーゼ

千葉眞教授拡大千葉眞教授

 自由民主主義体制において「大きな革命」について語るのは不適切だと、19世紀半ばにアレクシス・ド・トクヴィルというフランスの政治思想家が『アメリカにおけるデモクラシー』という書物の中で指摘したのですが、彼はその第2巻第3部で「大きな革命が今後稀になるのはなぜか」という章を書いています。

 民主化によって、社会の平等がかなり実現されることによって、結局のところ、社会から不満がだいぶ取り除かれ、格差が少なくなることで、革命の要因がだんだん無くなってくる、と。だから民主主義の社会においては、フランス革命のような大きな社会変革は稀になっていく、と。今後、近代史において初めてステータス・クオ(現状維持)に何らかの利益を保持する中間層が増えてくるのであって、そうであれば革命が起こる頻度は少なくなる。これが、トクヴィルの議論でした。

 このトクヴィルのテーゼは、今日、いろんな形で再叙述されており、たとえば、自由民主主義社会というのは民主主義革命を成し遂げた社会なのだから、もう革命はいらないという議論、あるいは民主主義社会においては、憲法において裁判所による違憲審査であるとか、選挙が制度化されているとか、議会に内閣の解散権があるとか、そうしたことが必ず規定されている。

 そのことが意味するのは、支配権力への抵抗の原理が民主主義の中には埋め込まれていて、だから革命というような大きな変革に訴える必要はもはやなくなったという議論があります。これらの議論は、ある意味で前述のトクヴィル・テーゼの現代的な再定式化と見なすことができるでしょう。

 シェルドン・ウォリンはそこをどう考えたのかというのが、私の次のテーマです。

 ウォリンは、1980年代前半に『デモクラシー──政治の刷新とラディカルな変革』という季刊雑誌を自らの編集責任において立ち上げました。立憲デモクラシーの会も、こういうジャーナルを立ち上げたらどうでしょうか。デモクラシー論を具体的に論じて深めていく雑誌の刊行もいいかな、と思います。

 この雑誌は数年間続いたのですが、世界中の第一線で活躍している政治学者や政治思想史家や思想家などが、この雑誌に寄稿しています。これらの諸論文は当時かなり読まれ、大きな話題となりました。この雑誌に当時ウォリンは “What Revolutionary Action Means Today?"という論考を寄稿しましたが、日本でもいち早く『世界』にその訳が載りました。杉田敦訳で「革命的行為とは何か」という題で『世界』1983年8月号に掲載されています。

ウォリンが問いかけたこと

 ウォリンの問いはこうでした。

 政治制度上は、民主主義の特徴のいくつかを保持していたとしても、政府が次第に恣意的に反民主主義な法制や政策をやるようになり、憲法違反のインフレとなり、暴走し始めたとき、民主主義的革命の必要について語ることは許されるのか。

 この問いを掲げ、彼は許されると論じ、ではどんな革命的行為が今日、リーズナブルなもの、理にかなう革命的行為として要請されるのかという議論をしています。

 その中でも印象的なフレーズは、次の文章です。

 「民主主義革命は新しい革命の構想を必要としている。そのテキストは、カール・マルクスではなく、ジョン・ロックである。なぜなら問題は、新しい社会階級が権力を奪取するというのではないからだ。先進社会のいかなる社会階級といえども、マルクスが彼の時代に労働者に見た権利の普遍性を保持しているように見せかけることなど不可能だからである。今日、問題は、集合的生活に関する民主主義の抵抗を表現できる諸種の形態や実践を創出していくことである」。こう言っています。

 そして彼は、ロックの議論の中でとくに『統治二論』後篇の最後の19章「統治の解体について」で語られている「抵抗権」あるいは「革命権」が大事なのではないかと続けています。

 それはどういう議論かというと、人民の「生命、自由、財産」に対する権利(自然権)を、支配者が犯すような形で支配権力を行使しようとしたり獲得しようとしたりしたとき、人民の「信託」により支配者が保持しているその統治権力は人民の手に戻り、人民は新しい立法部や行政部を作ることができる。ウォリンはロックのこの議論に着目しているのです。

 つまり、人民は、新しい政府を創出する権限を、人民の権力として、「信託」を裏切られた場合に持ち得るのだという議論です。そこで強調されているのは、新しい行政部や立法部といった政府の政治制度、新しい憲法や法制度、新しいいろいろな仕組みを、人民の正統な権力行使によって下から作り上げ、それを統治の構造の中に還流させていく、インプットしていくという議論です。

「シティズンシップ」という言葉

千葉眞教授拡大千葉眞教授

 このロックの議論を現代の文脈に落とし込むときに、彼は英語で「シティズンシップ」という言葉を使っています。日本語に訳すことが難しいこの言葉は、市民性とか市民参加という仕方で訳されてはきたのですが、市民の自由な民意表明や参加という意味で理解できると思います。

 この市民の自由の政治がここでは決定的に大事になってくるわけです。それは、人びとが協働と連帯を通じて、権力を下から作り出す共同行為であり、そこに生じる共同権力を分かち合い、それを制度の創出につなげていくという考え方です。

 その基本をロックが言っているのであって、ロックの時代は君主制ですから人びとは臣民なのですが、ウォリンは、現代の民主主義の文脈において人びとは主権者であるから、この議論は今日、必然的にさらに有意義なものとなっていると言っています。

 ウォリンの言葉をそのまま紹介すると、「デモクラシーが人びとの生活世界に生きづくときに、政治的なものは、無数の民衆の日常生活、暮らしに、しっかりと組み込まれたものとなる」。そしてその時、「デモクラシーは継続的な可能性となる」。

 ジョン・デューイもそうですが、ウォリンも、デモクラシーは政治制度である前に、人びとの共同的な生き方といいますか、共同の実存と言うとちょっと重くなりますが、「人びとの自由で豊かなコミュニオン(交わり)」(デューイ)のあり方、生き方だと考えているわけです。

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筆者

千葉眞

千葉眞(ちば・しん) 国際基督教大学(ICU)特任教授(政治思想)、平和研究所所長

1949年生まれ。1972年に早稲田大学政治経済学部政治学科卒業、大学院へ。1983年プリンストン神学大学でPHDを取得。シェルドン・ウォリンの研究者としても著名。著書に『ラディカル・デモクラシーの地平──自由・差異・共通善』(新評論、1995年)、『アーレントと現代──自由の政治とその展望』(岩波書店、1996年)、『思考のフロンティア デモクラシー』(岩波書店、2000年)、『「未完の革命」としての平和憲法──立憲主義思想史から考える』(岩波書店、2009年)など。訳書にシェルドン・ウォリン『政治学批判』(共訳、みすず書房、1988年)、シャンタル・ムフ『政治的なるものの再興』(共訳、日本経済評論社、1998年)、エルネスト・ラクラウ、シャンタル・ムフ『民主主義の革命』(共訳、ちくま学芸文庫、2012年)など。

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