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[2]保守本流の転換と55年体制

自民党も「民主主義らしく見せる必要」を感じていた時代

山口二郎 法政大学法学部教授(政治学)

注)この立憲デモクラシー講座の原稿は、昨年12月11日に早稲田大学で行われたものをベースに、著者が加筆修正したものです。
立憲デモクラシーの会ホームページhttp://constitutionaldemocracyjapan.tumblr.com/

自民党の主流派が右から中道にシフト

山口二郎教授の話に聴き入る人たち山口二郎教授の話に聴き入る人たち

 話を戦後史に戻しましょう。60年代以降の自民党はどうなったかということなのですが、先ほども申しましたように、安保闘争は自民党内の政権交代を引き起こしました。つまり、自民党の主流が、右から中道にシフトとしたということが言えるわけです。

 もともと1955年に自民党が結党されたときには、その綱領で「自主憲法制定」と書いてあったのですから、やはり自民党をつくったときの主流派は、自主憲法制定という党是を信じていたわけですね。しかし60年代以降は、もうその自主憲法制定というのは棚上げになった。

 要するに、国会でも社会党などの革新派が3分の1以上議席を持っていましたし、何よりも憲法9条に手をつけたら、また安保闘争みたいなことが起こるのではないかと。こういう恐怖心が、やはり保守政治家の中にも埋め込まれたわけです。

 つまり岸信介みたいに、9条や憲法などを争点として振りかざすというのは愚策であって、政権を長期安定させるためには、むしろ経済発展と利益配分によって国民を統合していくことが上策である、という現実的な判断が主流派になっていくわけです。

利益の再分配で支持層拡大

 それ以降自民党は、政治学で言うところの「包括政党Catch-all party」になります。つまり、その伝統的な支持基盤である大企業や農民だけではなくて、都市の中間層などにも政策的な恩恵を広げていき、支持基盤を全方位的に拡張していくという路線です。自民党は、右手で経済界と握手して、経済発展を進め、左手で成長の果実を全国津々浦々に再分配するという路線を取りました。

 そこをとらえて、ある種の平等を指向する社会民主主義的な政策だと評価する人々もいます。私などは、ヨーロッパの社会民主主義を日本でもやりたいという考えなので、自民党の再分配とヨーロッパの本家の社会民主主義は違うと言いたいところですが。とはいえ、ある種の平等を追求したということは間違いないでしょう。

 つまり、戦後の保守というのは、まず出発期においては戦前的価値を信奉しつつ、市場経済、資本主義経済を守るという路線であった「右派的保守」だったわけです。

 この右派的保守が主流であって、自民党をつくったときも自主憲法制定なんて言っていたわけですし、岸信介はその先頭にいたわけですが、60年安保を経て、その後は市場経済を守りつつ、戦後的価値も承認するという保守内リベラル派が主流派になっていったのです。

 池田勇人以降、佐藤栄作も、中道的というよりも保守的な人でした。しかし、路線はやはり池田路線を継承しています。ですから、佐藤栄作、田中角栄、三木武夫、福田赳夫、大平正芳、このあたりの総理大臣まで、つまり自民党政治の黄金時代においては、「保守内リベラル」の路線で国を運営してきたということが言えるわけです。

マルクスの影響を強く受けていた左翼

 いっぽう、革新左翼のほうはどうだったかというと、日本の左翼は、結構長い間、マルクス・エンゲルスの影響を強く受けていて、市場経済を否定し、社会主義を信奉していました。かつ、政治的には憲法で書かれている戦後的価値、つまり、民主主義とか自由とか平和というものを信奉するという組み合わせでした。これはこれで3分の1程度の勢力を持っていたのです。

 余談ですけども、市場経済を承認しつつ、ある程度の再分配で平等化をはかり、政治的には戦後の民主主義や平和を守るという社会民主主義勢力は弱かった。戦後の出発期において、社会党の主流は西尾末広、片山哲などの右派でした。しかし、左右分裂を経て50年代の憲法擁護運動の中で左派が急速に成長し、55年の社会党統一の際には左派が優位となりました。

 60年に社会党の西尾派などが分離して民主社会党という政党をつくりましたけど、これもぱっとしないまま終わりました。要するに民間大企業の労働組合を代表する小さい政党でとどまったという経緯があったのです。社会民主主義について正確な理解がなされなかったことは、のちの日本政治に大きな影を落とすことになります。

保守本流が転換ー改憲勢力は傍流に

山口二郎教授山口二郎教授

 このように60年代以降は、保守本流が転換しました。つまり、自民党政治には、ある種の統治理性があり、無謀な軍備拡張、あるいは戦前賛美などということをして、諸外国から不信の目で見られないように、と考えていたわけです。

 要するに戦後的なデモクラシーを守りつつ、国内的には経済発展と、ある程度の再分配をして、国民からも愛される、こういう路線を進んだわけですね。

 ここには二種類のアクターが存在しています。

 一つは池田勇人の系譜、つまり官僚出身政治家の合理主義です。それからもう一つは、利益配分政治という民主主義があります。その代表は言うまでもなく田中角栄です。地方出身の保守政治家の支持基盤というのは、戦後の農地解放によって、自作農になったような人たち。こういう人たちが大勢いたわけです。この人たちも、やはり戦後改革の受益者でした。

 田中角栄の支持者には昔、小作争議を闘ったような農民がいっぱいいたわけです。そうすると、やはり民主政治というのは、地方出身の政治家が東京に行って、お金を取ってくる。つまり、利益配分を意味していたのです。そういうプラグマティズムが自民党の多くの政治家に共有されていたということです。その中で、改憲勢力が傍流になっていたということです。

冷戦を反映した55年体制

 1955年に自民党ができて、60年代以降、平和と繁栄の路線を追求したわけです。1955年に自民党ができ、日本社会党が左右統一したということで、自民党と日本社会党の政治政党システムを「55年体制」と呼ぶわけですが、これは十全な民主主義とは言えませんでした。しかし、半分ぐらい、セミ・デモクラシーであったと言うことはできるわけです。

 55年体制というのは冷戦構造を反映しており、自民党が親米、社会党は反米というか、親ソ連、親中国という路線をとっていました。つまり国内で、冷戦的東西対立を反映していたということになります。そして、日本を西側、つまり自由主義陣営であるアメリカ側につなぎとめるために、自民党による長期安定政権が必要とされていたのです。

 アメリカも日本の経済界も、自民党の安定政権を必要としていた。したがって、多少の汚職や、腐敗にまみれるとかいうようなことがあっても、まあ大目に見るということでした。それから党内に復古主義的、要するに戦前賛美、あるいは自主憲法制定といった平和や自由をあまり理解しない人がいても、そこも大目に見るということでした。ここのところが同じ第2次世界大戦の敗戦国の西ドイツの保守政党、キリスト教民主同盟と日本の自民党の大きな違いです。

「民主主義らしく見せる必要」を感じていた

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 しかしながら、全体として見れば、自民党はわりと穏健な路線をとり、慎重な統治を行いました。要するに、〝自民党〟という一つの政党が国を統治する一党優位というのは、非常に閉塞的な仕組みではあるのですが、国を統治する政党がひとつしかないということは、自民党の政治家にある種の責任感を与えたわけです。自分たちは自民党支持者だけではなく、国民全体の代表者だ、と。だから自分たちと対立する人たちのところにも目配りをしなきゃいけない、というような感覚です。

 元朝日新聞の田中番記者、早野透さんの回想によれば、田中角栄は「親戚が十人いれば、一人や二人は共産党もいる」というセリフを口癖にしていたそうです。

 自民党が数の力で好き放題、自分たちの主張を実現していったのでは、これは暴走、独裁と言われる。だからやっぱり野党の言うことも聞きながら、慎重に政権を運営していこう、というような配慮があったということです。つまり政治家たちは「自民党を民主主義らしく見せる必要」を感じていたのです。とはいえ、不十分な民主主義だった。

 要するに、民主主義的な側面と、そうではない側面があったわけですが、民主主義的でない側面とは、どういうものであったか。

 それは、一党優位体制において、自民党と国家権力がくっついてしまうという点でした。つまり、自民党の意思決定がそのまま国の意思決定につながる。直結する。議院内閣制の下で、自民党が国会で多数を持っていますから、自民党として意思決定したことは、そのまま法律や予算として実現する可能性がきわめて高いということになります。

 例えば、自民党の政務調査会という機関に霞が関の省に対応したいろんな部会があり、そこで農業とか建設とか、さまざまな分野の政策を審議したり、予算を調整したりするのですが、そこでの党としての意思決定が、そのまま国の法律や予算につながるわけです。そう考えれば、まさに中国の共産党なんかと似ている側面があります。党イコール国家という直結の構図があった。

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