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[3] 「新9条論」について考える

憲法の条文の解釈には限界がある

杉田敦 政治学者、法政大学教授

注)この立憲デモクラシー講座の原稿は、1月29日に早稲田大学で行われたものをベースに、講演者が加筆修正したものです。

立憲デモクラシーの会ホームページ

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講演する杉田敦教授拡大講演する杉田敦教授

 

ルールとプリンシプル

 新9条論への批判の第二点です。現行憲法9条の特に2項は、「陸海空軍その他の戦力は、これを保持しない。国の交戦権は、これを認めない」と、こういう話になっている。これをどう読むのかですが、長谷部さんの説明では、これはいわゆる原理(プリンシプル)であって準則(ルール)ではない。

 準則というのは普通のルールであり、文字通りに読まれるべきものです。例えば、国会が二院制と憲法に書いてあれば、三つつくることはできないし、一つにすることもできない。仮に参議院を廃止しようと思ったら、これはやはり憲法を改正しなければならないわけです。国会というのは別に一院制でもいいんですが、私たちは二院制をとっている。そうすると、はっきり二院制と書いてあるものを運用で、あるいは解釈で一院制にはできないのです。

 しかしながら、憲法にはそういう、見たままに読める、あるいはそのままに運用しなければいけないというものばかりではなくて、例えば25条は「健康で文化的な最低限度の生活はこれを保障する」と書いてあります。これは私たちの社会はそうあるべきだという方向性を示していて、そっちに向かっていくべきだという、社会の追求すべき目的を示している。こういうものが原理です。

 9条も、もし長谷部さんの主張するような形で原理として読めるとすれば、これはまず1項において平和主義を掲げた上で、2項ではそれに伴って、「陸海空軍その他の戦力はこれを保持しない」と言っていますけれども、それを文字通りにとらずに、憲法全体との関係で考える。そうすると、国家というものが国民の安全を守るためにあるという観点から、侵略された際の防衛までは禁じていないと解釈できるわけです。これが従来の政府解釈でもありました。

「文理の制約」はあるのか?

 これに対して、例えば法哲学の井上達夫さん、彼はいくつかの本で十年来、持論として展開されているんですが、例えば最近の『法の理論33』の「9条問題再説」では、かなりまとまった形で、次のように述べておられます。長谷部さんみたいな「アクロバティック」な読み方はダメであると。「憲法っていうのは素直に読むものです」と言っています。そして9条の2項を素直に読めば、自衛隊の存在と矛盾する。それを、無理矢理に解釈して憲法の字面と違うようなことをやっていると、憲法というものを人びとがないがしろにするようになり、それこそ立憲主義を傷つけるんだ、とおっしゃるわけです。

講演する杉田敦教授拡大講演する杉田敦教授
 そこでの井上さんの表現を引くと、「文理の制約上」ということをおっしゃっています。文理というのは文章の意味ということですね。「文理の制約上そうとしか読めない」。「そう」というのはつまり、自衛隊と矛盾するようにしか読めない、とおっしゃっているんですが、ここで私が非常に疑問に思ったのは、井上さんはそのところで、「日本国憲法の名宛て人たる日本国民の通常の日本語感覚からして理解しがたい」というふうにおっしゃっている。

 日本国憲法の名宛て人。「名宛て人」というのは宛先ですね。宛先たる日本国民の通常の日本語感覚からして理解しがたい、と言われているんですが、日本国憲法の名宛人が日本国民だというのは非常に特殊な考え方でありまして、なぜこういうふうにおっしゃっているのかわからない。

日本国憲法の名宛て人は政府

 通常の理解では、日本国憲法というのは日本国民がつくったものですから、名宛て人のはずがない。自分たちがつくった側ですので、名宛人は政府です。だから日本国民が読めるように書いてあるはずだという、この前提がそもそも間違っているんじゃないかと思うんです。私たちは読ませるために書いただけで、自分が読むために書いたわけじゃありません。立憲主義について理解がそもそもちょっと違うのかなと思いますが、そういうふうに井上さんは書かれている。

 まあそれはともかくとしても、字面がどう読めるか、ということがすべてなのか。憲法21条には「一切の表現の自由は、これを保障する」と書いてあります。これは見た感じだと、どんな表現でもできる、何を表現しようが自由だと、人を侮辱しようが何しようが表現である以上、自由だというふうに読めますが、これはさすがにそういうふうに読んではとんでもないことになるということで、名誉毀損とか、そういうふうなことはできないという解釈が定着しているわけです。

 では「一切の」と書いてあるのはおかしいのか、「表現の自由は原則としてこれを保障する」というふうにしていいのかというと、そんなことをしたら表現の自由はあっという間に損なわれてしまう。だから「一切の」と強く書いてあるわけです。「一切の」とは書いてあるけれど、侮辱表現まで認めるなどという意味ではない、ということで、解釈の余地は常にあると言わざるを得ないわけです。

解釈の限界をどこに置くのか

 井上さんは文理解釈で、解釈の幅をほとんど認めないので、9条プラス自衛隊がダメなのは自明であり、自衛隊を持ったこと自体が解釈改憲であり、問題であったとします。その上で、今回の集団的自衛権行使容認も解釈改憲ではあるが、そのことを、自衛隊合憲論者は批判できないというのです。昔の解釈改憲に与しつつ、最近の解釈改憲を批判するというのは矛盾であるからできないと。つまり自衛隊を認めるなら、集団的自衛権も認めなければいけないと、こうおっしゃっているわけです。

 しかし、私は、ある問題について、ある幅のある解釈をしたからといって、 ・・・続きを読む
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筆者

杉田敦

杉田敦(すぎた・あつし) 政治学者、法政大学教授

1959年生まれ。東京大学法学部卒。主な著書に『権力論』『境界線の政治学 増補版』(いずれも岩波現代文庫)『政治的思考』(岩波新書)

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