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[4]日本兵の慰霊碑が意味するもの

伊藤千尋 国際ジャーナリスト

 仏教遺跡の町バガンで最も高い建物がタビニュ寺院だ。その向かい側にあるタビニュ僧院の一角に、この国で亡くなった日本兵の鎮魂、慰霊碑がひっそりと建っていた。

 「鎮魂」の2文字を刻んだ四角い碑の願主は「弓兵団」の戦友会だ。そばには「弓部隊戦没勇士の墓」と書いた墓碑が建つ。

どっしりとした鎮魂碑も建つ.どっしりとした鎮魂碑が建つ=撮影・筆者

ミャンマーと日本軍の関係

 第二次大戦中、日本軍は32万人を超える将兵をビルマ方面軍として派兵した。

 そのうち生きて故国に帰ることができたのは約13万人にすぎない。約19万人が死んだ。それも多くは戦死というより病死さらには餓死である。

 中でも悪名高いインパール作戦は白骨の山を築いた。

 その作戦の実行に執着した牟田口廉也中将は、日中戦争が本格化するきっかけとなる盧溝橋事件で戦闘命令を下した軍人だ。

 その彼がミャンマーでは無謀な作戦を指揮して多くの兵士を死に追いやった。自分は日本に帰国し、作戦失敗の理由を「部下の無能」のせいにした。

 彼が率いた第15軍の傘下にいた第33師団は宮城県仙台市で編成された。通称を「弓」と言い、弓兵団あるいは弓部隊と呼ばれた。その犠牲者をしのぶ碑である。

 ミャンマーと日本軍の関係は深い。参謀本部の鈴木大佐が作った南機関が目を付けたのが英国植民地からの独立を目指したアウンサンだ。

 鈴木大佐はアウンサンら「30人志士」を日本に招き、彼らに武器を与えて中国南部の海南島で軍事訓練をした。英軍を追い払ったあとはミャンマーを独立させると約束したため、アウンサンらは独立義勇軍を結成し日本軍とともに英国を相手に戦った。

 ところが日本軍は

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