メインメニューをとばして、このページの本文エリアへ

英国の無責任男、ファラージ氏の愉快犯罪

混乱を見たくて落とし穴を仕掛け、そこに落ちる政治家の馬鹿さ加減を楽しみたかった?

国末憲人 朝日新聞論説委員、青山学院大学仏文科非常勤講師

 英国の欧州連合(EU)離脱を決めた陰の立役者、英ポピュリスト政党「英国独立党」(UKIP)の党首だったナイジェル・ファラージ氏をメディアで見かけると、昭和の無責任男、「スーダラ節」の快優植木等さんを思い出さずにはいられない。

 似ているのは、面長に太い眉の風貌(ふうぼう)や変幻自在の表情に限らない。大口を開けて笑う能天気さ、人を食ったような話しぶり、場が白けても「こりゃまた失礼いたしました」などと切り抜けそうな度胸。何より、無責任男として軽妙に振る舞いながら、実は裏で何か考えていそうなまなざしも共通する。そう思うのは、筆者だけだろうか。

アル中の父親は5歳の時に失踪した

ナイジェル・ファラージ氏=2013年9月、国末憲人撮影ナイジェル・ファラージ氏=2013年9月、国末憲人撮影

 政治家に良家の出身者が多い階級社会の英国で、ファラージ氏はロンドン近郊の一般家庭の出身だ。アル中の父は、彼が5歳の時に失踪したという。

 高校こそ名門のダリッジ校に通ったが、大学に進学することなく、金融街シティーに出て、ロンドン金属取引所(LME)で非鉄金属を扱うトレーダーになった。有名金融機関を渡り歩く傍ら、保守党員となり、当時のサッチャー首相に心酔した。

 1991年、当時の欧州共同体(EC)は、欧州連合(EU)の創設をうたう欧州連合条約(マーストリヒト条約)に合意した。英国では、サッチャー政権を引き継いだメージャー政権が交渉を進めたが、与党の保守党内は賛否両論で真っ二つに割れた。英国を含む各国の外相や蔵相が92年、この条約に調印すると、ファラージ氏ら反対派は離党し、93年にUKIPを結成した。

 当初はほとんど相手にされなかったUKIPだが、他の反欧州統合勢力も吸収して次第に支持を広げ、99年には欧州議会選で初めて3議席を獲得した。そのうちの1人がファラージ氏である。彼は以後4期続けて欧州議会議員を務め、その間の2006年にUKIPの党首に就任した。UKIPの躍進は彼の個人人気に支えられたと、多くの人が考えている。

党首との対談は奇妙な漫才のようになった

 筆者がファラージ氏に会ったのは、英国で国民投票を実施する方針が明らかになって間もない2013年9月のことだった。フランス東部ストラスブールの欧州議会を訪ねた時、本会議の合間に時間を取ってくれた。

 民主主義の制度の中で人気を集めるポピュリストらしく、彼は陽気だった。その語り口はアイロニーとメタファー、ユーモアにあふれていた。議会内の控室で応対した彼との対話は、奇妙な漫才を演じているかのような展開になった。

――EUとはどのようなものですか。

 「あなたの国がある日、巨大国家中国に組み込まれた一つの地方になると想像してみてください。選挙で選ばれたわけでもない北京の官僚に支配されるのです。日本人はどう感じますかね。たぶん、あまり楽しくはないでしょう」

 「40年前、私たちは単一市場に加わりました。車や、ワインや、チーズや、ボクシング用品を、関税なしに買うためです。でも、それがいつの間にか、私たちの法律の75%を制定する政治連合に入れ替わってしまった。しかも『ポンドやオンスでなくキログラムを使え』などと指示するのです」
「多様な国と多様な人々を、望みもしないのに一つの中に押し込める。これはまさに『新しいソ連』です。うまくいく訳がない。人間の摂理に反しているからです」

――でも、単一市場は大きな利益を生み出していますよ。英国も十分恩恵を受けているはずですが。

 「へえ、それは知らなかった(大げさそうに)。でも、スイスを見て下さい。小さな国で、EUに加盟していませんが、日本との間で経済連携協定を結んでいます。不思議ですよねえ」

 「私は、反欧州ではありません。欧州や欧州の人々を嫌っている訳ではない。『欧州』という存在がEUにハイジャックされたのです。あの連中が呼ぶ『欧州』は、欧州じゃない。商品の流通とEUとは、何の関係もありません。英国がEUに加盟していようがしていまいが、ベンツは英国で車を売るでしょう。それがビジネスというものです」

――その考えは十分支持を得ていますか。

 「そうあってほしいと思いますよ(笑)。今に見ていてください。英国政治に大激震が起きますよ。国民投票は実施されるでしょう」

 
 この時、国民投票の実施はまだキャメロン氏が打ち上げただけで、日程は全く見えていなかった。彼の「大激震」の予言を本気にする人はいなかっただろう。筆者自身、英国がEUを離脱する日なんて永遠に来ないだろうと思っていた。

UKIPの台頭

 UKIPのようなポピュリズム政党は、英国であまり長い歴史を持っていない。

 まだ「ポピュリズム」の用語が十分定着せず、ナショナル・ポピュリズムを狭く解釈して「右翼」「極右」と呼んでいた2000年代初め、欧州内で「右翼」が台頭する国と台頭しない国とに分かれる現象が、政治家や専門家の間で話題になった。

 フランスやオランダ、イタリアなどで右翼が政治勢力として影響力を増したのに対し、英国やスペイン、ドイツなどでは政治的な影響力をほとんど持ち得ないでいた。その理由は、右派政党や保守政党が右翼勢力を取り込んだからだろう。スペインでは、フランコ独裁政権にかかわった人々が右派の大衆党(民衆党)に結集していた。英国でこうした人々の支持を引き寄せたのは、保守党政権を率いたサッチャー首相だった。

 マーガレット・サッチャー氏は代表的な保守政治家と見なされがちだが、その本質は多分にポピュリストである。庶民階級の出身で、大衆に直接訴えかける政治を得意とした。

 何より、既得権を持つ労組などをスケープゴートと定めて攻撃することによって、官僚と業界団体や労組が調整することで成り立ってきた英国の政治システムを大幅に転換した。欧州統合に対しては、懐疑的な態度を隠さなかった。

 1990年にサッチャー政権からメージャー政権に移り、保守党の中道化が進んだため、右翼に近い人々は次第に離反した。これに代わって台頭したのが、英国国民党(BNP)だった。

 82年に結成された英国国民党は、当初ネオナチ路線を取る際物の極右だったが、次第に反移民、反EU政党へと路線を変更した。特に、2005年にロンドン地下鉄テロが起き、イスラム過激派への批判が高まるにつれて、大衆の支持も集めるようになった。2009年の欧州議会選では2議席を獲得した。その頃まで、英国でナショナル・ポピュリスト政党というと、UKIPではなく、英国国民党を思い浮かべる人が多かった。

 ただ、英国国民党は元極右だけあって差別意識が抜けず、大衆政党としては限界があった。一方、UKIPは明るく柔軟なポピュリスト政党としてのイメージを前面に打ち出した。UKIPの人気は急速に高まり、2015年の欧州議会選でついに26・6%、24議席を獲得し、2大政党の保守党と労働党を抜いて英国最大の勢力を誇るに至った。

市民の間の偏見や差別のエネルギーを政治に誘導

 英国国民党とは異なり、UKIPは移民排斥のイメージを脱し、攻撃の標的をEUに集中させた。この作戦が、英国国民党支持者の中で穏健な層を引きつけることにつながった。

 差別意識丸出しの極右は、今どきの社会だとはやらない。そういう意識を秘めた人でも、露骨にそれを表す政党よりも、表面上もう少し高尚な理念を掲げた政党の方に賛同しやすい。隣国フランスでも、右翼「国民戦線」内部で同様の路線闘争が起き、よりソフトなイメージの路線が主導権を握るに至っている。

 ただ、移民対する差別意識は、「EU」という別の標的を与えられたとしても、そう簡単に消えるものではない。党の方針がどうであれ、支持者はEU問題よりも移民問題の方に関心を抱いていることが、世論調査などから明らかだ。政党が公式に掲げる穏健な主張と、支持者に残る差別意識との間には、大きなずれがある。

 見方を変えると、UKIPというポピュリズム政党は、市民の間に根強い偏見や差別のエネルギーを、国民投票の過程を通じて「反EU」というある意味でより健全な政治主張にうまく誘導したといえる。

国民投票の危険な側面

 ポピュリズムが持つこのような「結集」や「動員」の機能については、アルゼンチン出身のポストマルクス主義政治思想家エルネスト・ラクラウ氏らが近年注目し、ここに今後の民主主義の可能性を探る動きも出ている。ポピュリズムは、批判されるばかりではない。政治に不可欠な要素として位置づける必要があるのかもしれない。

 UKIPと保守党は、支持層がかなり重なっている。戦略を組んで着々と地固めを進めるUKIPに対し、保守党は失策を重ねた。そもそも、キャメロン前首相が「国民投票」というきわどい手段を選んだのが、間違いのもとだった。ここでこの論を展開するのは避けたいが、国民投票は民意を直接政治に反映する手段であると同時に、社会を分断し、デマゴーグにつけいる隙を与える極めて危険な側面を持つ制度でもある。しばしば国民投票は「議論を高めるため」を名目に実施されるが、実態は議論を黙らせ、白黒を無理やり付けるだけに終わってしまう。ナポレオンやヒトラーが好んだのはそのためだ。

 しかし、キャメロン前首相はこれに気づかなかった。

・・・ログインして読む
(残り:約2747文字/本文:約6531文字)