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[4]メディアに必要な専門職としての責務の自覚

国民の活発な公共討論のために情報提供を

阪口正二郎 一橋大学大学院法学研究科・教授

注)この立憲デモクラシー講座の原稿は、4月22日に立教大学で行われたものをベースに、講演者が加筆修正したものです。

立憲デモクラシーの会ホームページ

http://constitutionaldemocracyjapan.tumblr.com/

拡大講演する阪口正二郎教授

「市場」の言論と「民主主義」の言論

 しかし他方で、もう一つ別の問題があるはずです。それはどういうことかというと、市場の失敗だけが問題ではなくて、民主主義の問題がある。つまり簡単に言うと、市場を自由にしておいて出てくる言論と、民主主義にとって必要な言論とはやはり種類や質が違う可能性があります。

 端的に言えば、消費者としての個人と、主権者としての個人というのは、それぞれ違うはずだからです。皆さんだって、何か物を買うときに行動する行動原則と、一票を投じるときの行動原則は違うはずです。そう考えると、市場に放っておいたからといって、寡占や独占というマーケットの問題だけではなくて、マーケットから民主主義にとって必要な言論が全部出てくるとは限らない。

 他方、では民主主義的に決定すれば全部いいのかというと、必ずしもそういうわけではありません。どのような民主主義か、民主主義の質というのがやはり問題になる。

 一番大きなことは、できるかぎり活発に、公共的な討論がなされたほうがいい。公共性を持った問題については、できるだけ自由な言論をさせ、多様な言論が流れたほうがいいということです。

 ある人の言葉では「知性の失敗」と言われていますが、要するに、市場の失敗とは違って、実は人間の知性にもともと限界がある。人間は、放っておけば公共的にものを考えるかというと、そうではない。

 人間というのは、皆さんそうでしょうけれど、忙しい。いろいろやることがあります。仕事もしなければいけないし、家で家事も、育児もしなければいけない。ですから、公共的なことをずっと考えられる人間は、よほど暇な人間で――憲法学者はそれだと思いますが、憲法学者が公共的かどうかは疑わしいと思います(笑)――でもそんな人は普通にはいないわけです。そう考えると、やはり民主主義だって放っておけばうまくいくわけではない。これは「自分に対する警戒」と言います。

メディア規制では解決しないこと

 そういうことを考えるとやはり、規制は必要だ、ということになります。他方で、規制にはやはり危険性があり、乱用がありうる。これは間違いありません。規制は必要だけれど、規制は常に行き過ぎる。あるいは乱用される可能性があるということ。それから民主主義の質を問題にする必要性が、私自身はあると思います。あるのだけれども、それは同時に怖さもある。

 まず考えておかなければならないのは、こういう問題については、先ほど「知性の失敗」と言いましたが、メディアの規制によって対応できる問題ではないと思います。なぜなら、問題なのは、私たちが忙しすぎるとか、格差があるとか、そういうことによって、なかなか公共的な問題を考える時間がないということです。あるいは考えるより前に、そういう情報を求めようとしない、そして求めようとしないことにはそれだけの理由があるわけです。みんな忙しい。労働が過酷だということです。

 ですから、これはメディアの規制によって対応するだけではなくて、やはり日本社会の今の労働のありかた、貧困の問題を変えない限りは、変わらないということです。メディアの規制だけで対応できる問題ではない。もしメディアの規制だけで対応できるなどと考えると、非常に間違った議論をすることになります。

 他方で民主主義の質、活発な公共討論ということでいえば、それを管理しようとする危険が出てきます。こんなのは公共的ではないとか、公共的というのはこうだと、エリートであればあるほど、管理しようとするようになっていく可能性がある。それは非常に怖い問題ですが、もし規制をするのであれば、この問題は避けては通れない。

専門職の責務の自覚

拡大講演する阪口正二郎教授
 ではどうすればいいのか、ということですが、基本的にまず二つだろうと思います。

 一つはメディアの側の「専門職」としての「責務の自覚」と私は言っているのですが、報道メディアは確かに「表現の自由」を持つわけです。それは、公共的な討論に、どんどん積極的に情報を国民に提示していく、国民が積極的で活発な公共討論をできるようにするための情報を提供するのがメディアの役割です。

 もしそれをメディアが放棄するということになれば、メディアに専門職を名乗る資格はたぶんないということです。これは難しい問題ですが、芸能リポーターなどが、「自分たちは国民の知る権利のために伝えるんだ、言論の自由だ」という。それは知る権利についての、大きな誤解です。

 「知る権利」というのは、好奇心という意味ではありません。「知るべきことを知る権利」ということです。公共的に必要な情報を、国民が知るべき情報をちゃんと流すということであって、単に人々の好奇心を満たせばいいというのなら、メディアは専門職ではなくなります。

 同時に、それをやるためには、政府に甘えない独立したメディアが必要だというのは間違いない。たとえば現在メディアはいろんなところで記者クラブという形で政府と癒着しています。たぶんそれをなくさない限りは、本当に独立したメディアとして、国民に公共的な討論の基礎となる情報を提示するということはなかなか難しいでしょう。記者クラブなんていうことをやっていると、結局、政府から流れてくる情報しか流さないということになりますから、全く独立しているということにはなりませんし、必要な情報が世の中に提供されるということもない。

日本社会の専門職の弱さ

 これは実はメディアに限ったことではりません。日本社会の専門職はあまり専門職たりえていない場合が多い。憲法の問題だけでも、いくつもそういう問題があります。

 たとえば、富山県立近代美術館の「天皇コラージュ」事件というのがあります。富山の県立近代美術館で、天皇コラージュという、ある前衛的な芸術作品が展示され、それが天皇を揶揄していると言われた。いったん美術館は公開を決め図録もあったんですが、当時の富山県議会で保守派の議員たちから、「あんな天皇陛下をおとしめるようなものを展示するとは何事か」と怒られた。怒られたら、さっさと展示をやめてしまった。展示をやめたことによって、作家と市民から訴えられた。近代美術館は芸術の専門職の集まりのはずです。ちゃんとそういう資格まで与えられていて、 ・・・続きを読む
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筆者

阪口正二郎

阪口正二郎(さかぐち・しょうじろう) 一橋大学大学院法学研究科・教授

1960年兵庫県西宮市生まれ。 1989年3月 早稲田大学大学院法学研究科単位取得退学。 東京大学社会科学研究所助手、同助教授、一橋大学大学院法学研究科助教授を経て、 2001年4月より一橋大学大学院法学研究科教授。 専攻は、憲法学、比較憲法学。 主要な著作として、『立憲主義と民主主義』(日本評論社、2001年)、『ケースブック憲法』(弘文堂、2004年)、『改憲は必要か』(岩波新書、2004年)、『神の法vs.人の法』(日本評論社、2007年)、『岩波講座憲法5 グローバル化と憲法』(岩波書店、2007年)、『自由への問い3 公共性』(岩波書店、2010年)、『新基本法コンメンタール憲法』(日本評論社、2011年)などがある。

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