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[45]絶望と無力感から暴力へ……悲劇は続く

川上泰徳

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「同胞の受難」を嘆く声が広がる

 エジプト革命の時、デモに参加している若者たちから「パレスチナ連帯」の声が上がることがあった。イスラエルのガザ攻撃で、おびただしい数のパレスチナ人が殺されても、何もできない無力さが、エジプト人の中に積もっていた。

がれきの山のままのパレスチナ自治区ガザ東部シュジャイヤ地区201502拡大がれきの山のままのパレスチナ自治区ガザ東部シュジャイヤ地区=2015年2月、撮影・朝日新聞社
 欧米人はガザの問題も「パレスチナ問題」という枠で捉えるかもしれないが、アラブ人にとっては同じアラビア語を話す「同胞の受難」である。

 イスラエル軍に家族を殺されたり、家を破壊されたりして、泣き叫ぶパレスチナの女性や子供たちの嘆きの声は、中東・北アフリカのアラブ世界にアラビア語で広がっていった。

 イスラエルのガザ攻撃に対するアラブの権力者の無力さが、2011年の「アラブの春」を引き起こしたとまでは言えないにしても、若者たちに積もった憤懣の原因のひとつであったことは間違いない。

 私は朝日新聞のカイロ特派員を2014年8月末まで勤めた。その6月にイラク、シリアで「イスラム国」(IS)ができて世界が騒然としていた7月8日にイスラエルによるガザ空爆が始まり、8月26日まで51日間続いた。

 2000人を超えたパレスチナ側の死者の7割が民間人だ。イスラエル側は73人が死亡し、うち兵士が66人で、民間人は7人。パレスチナ側の民間人の死者の多さは、イスラエル軍の空爆や砲撃が民間地域に対する無差別攻撃であったことを物語っている。

 私はカイロからアラブの反応を見て、後にカイロで行われたイスラエルとパレスチナ自治政府の停戦協議を追った。

 2012年11月のガザ攻撃に比べて、政権が変わるだけで、これほど政権の対応が変わるものかと驚いた。

 ガザを支配しているイスラム組織ハマスは、エジプトで軍に排除されたムルシ大統領が属するムスリム同胞団と同系列である。2012年の攻撃では、ムルシ政権がアラブ世界に呼びかけてアラブ外相会議を開き、次々と外相がガザに入って暴力の激化を阻止した。それから2年半たって、ガザの民衆は51日間、イスラエルの攻撃の下、見殺しにされた。

「封鎖」という暴力

 イスラエルの攻撃が始まって間もなく、エジプトは停戦案を提案し、イスラエルは受け入れたが、ハマスは拒否した。その停戦案の内容は「イスラエルの空爆とパレスチナ側のイスラエルへのロケット弾攻撃の停止」や「ある条件の下で人と物資の搬入を認める」などだった。ハマスは、「イスラエルによるガザの封鎖解除が含まれていないことを受け入れるのは降伏に等しい」と反発した。

 ガザは占領されている上に封鎖されている。占領を終わらせるためにオスロ合意のような中東和平交渉がおこなわれてきたのだが、オスロ合意が破綻して以来、進んでいない。その上に、ガザは2007年からイスラエルによって封鎖されている。

 占領とは主権を奪われて、他国の支配下に置かれていることだ。ガザで自治が始まっても、主権がないため、経済開発も、貿易も、外交も、イスラエルの同意がなければできない。そのような軍事占領という服従状態にあり、その上に、封鎖されて、人の往来も、物資の搬入も、厳しく制約されている。二重苦である。封鎖は、国際人権法に違反する「集団懲罰」にあたるとされる。

 封鎖解除については、2010年6月に欧州委員会が全面的な封鎖解除をイスラエルに求める決議を出した。国連人権高等弁務官事務所も、ガザの封鎖は非人道的だとして解除を求めている。封鎖によって、ガザの病院の医療機器は壊れたままとなり、医薬品も不足し、多くの生命が日々脅かされている。イスラエルの封鎖継続は、ガザに対して暴力をふるい続けている状態と同じである。

 現実には、占領はもちろん、封鎖までもが日常化している。パレスチナ側からロケットが飛んで初めて、イスラエルは「暴力だ」と騒ぎ、「報復措置」を声高に主張する。しかし、封鎖そのものが非人道的な暴力だから、パレスチナ側からは早晩、新たな暴力が向けられるのは避けられない。そのことは誰も分かっているのに、2007年以来、8年にわたってガザが封鎖状態に置かれ、それを国際社会が放置しているのは、信じられないことである。

「世界に報復するようになっても、誰も文句は言えない」

 カイロにガザ出身のパレスチナ人の知人がいた。イスラエルの攻撃の間、彼からガザにいた大学生の19歳の息子の話を聞いた。

 その息子は彼に毎日のようにメールを送ってきた。ある時、「僕の命は2秒の間にある」と書いていきた。ミサイルが次々と飛来し、上空で「ビュー」と空気を切る音が聞こえる。ぐっと息を詰めて、地上で爆発音が聞こえるまでが2秒間だ。次は自分の場所で爆発するかもしれないという恐怖を言い表している。

 イスラエルの攻撃が始まったころ、彼の息子は「絶対に屈しない」と高揚し、イスラム組織ハマスを支持し、穏健派のパレスチナ自治政府のアッバス議長に批判的だったという。しかし、さらに攻撃が続くと、停戦を拒み、市民の犠牲を顧みないハマスを批判し始めた。彼に「何か停戦の動きはないか」と繰り返し、聞くようになった。

 ところが、停戦の動きはなく、いたずらに死者だけが増えていった。息子は「僕はイスラエルも、自治政府も、ハマスも、国際社会も、すべてを憎む。もし、パレスチナ人が世界に報復するようになっても、誰も文句は言えない」と書いてきたという。絶望と無力感によってパレスチナの若者たちが暴力に追いやられてしまうという、私が何度も見てきた悲劇が続いているのである。

連載を終えて

 「中東取材20年」の連載を始めて1年半が過ぎ、今回で終わりとなります。長い間、ご愛読ありがとうございました。この連載は、私が朝日新聞で中東専門記者として働いた1994年から2014年までの様々なニュースの現場での取材を振り返り、エピソードごとに再現しようとしたものです。

 20年の間、1994年のパレスチナ自治の開始、▽2001年の9・11米同時多発テロ事件後のオスロ合意の破綻、▽2003年のイラク戦争と米軍の占領、▽2011年の「アラブの春」、▽2013年のエジプトのクーデターとシリア内戦の激化、▽2014年の過激派組織「イスラム国」の樹立宣言――と、いくつもの大きな出来事がありました。

 新聞社などメディアが世界各地に特派員を出している中で、中東の特派員は戦争、紛争、テロ、政変という事件に追われ、国際ニュースの事件記者というような役割を果たしています。もちろん、危険なことも、取材の困難さもありましたが、筋書きのないドラマのように次々と事態が動いていく中東の現場に長年立ち会うことができたことは、事故がなかったことも含めて、記者としては非常に幸運でした。

 私は、新聞社に入る前に大学でアラビア語を専攻し、カイロ大学に留学し、中東の近現代史に関心を持っていました。その後、中東で起こる出来事を記者として取材し、記事を書きながら、いま起こっていることは、将来、歴史の中でどのように評価されるだろうか、と考えることがよくありました。現場で取材した時には、どのような意味を持つのか分からなかったことが、数年後、または10年以上たって、事態の変化の中で、その意味が見えてくることが何度もありました。

 2012年11月にカイロのタハリール広場で、「イスラム法」の実施を求めるイスラム厳格派「サラフィー主義者」の大規模集会を見ました。そこではイスラムの黒旗が振られていました。その前年の2011年2月、若者たちのデモで30年続いたムバラク体制は崩壊しました。強権体制が倒れた後の自由な雰囲気の中で「厳格なイスラム」を求める集会が開かれる意味は何だろうと考えました。話を聞いてみると、参加している若者たちは、革命に反対しているのではなく、「イスラムの実施」を革命の目標と考えていたのです。

 それから1年半後の2014年6月、イラクとシリアにまたがる地域で、イスラム法に基づくカリフ制の「イスラム国」が宣言されました。「イスラム国」は突然生まれたわけではありません。「アラブの春」を契機としてアラブ世界の若者たちの間に、社会正義を実現する道として「厳格なイスラムの実施」を求める動きが広がっていたということなのです。タハリール広場を埋めたサラフィー主義の大規模デモは、「アラブの春」の道筋の一つを示していたということです。

 もちろん、「アラブの春」は中東民主化の始まりとしての可能性もありましたが、エジプトでは軍のクーデターで抑え込まれ、シリアでは悲惨な内戦の中に埋もれてしまいました。選挙による民主化や平和的な政治改革を求める穏健な動きが潰えた結果、「イスラム国」に向かう流れが表に出てきたということでしょう。

 「イスラム国」の過激な行動主義やインターネットを使った情報発信だけでなく、極端に厳格なイスラムへの傾斜もまた、「アラブの春」という若者たちの反乱の流れの中で理解し、対抗策を探るべきでしょう。米欧が進めている「イスラム国」を軍事的に排除する動きだけでは、若者たちの間に燃え上がった過剰な正義感という火に油を注ぐことになりかねません。

 私が中東の現場にこだわるのは、中東のリアリティーに触れたいと思うからです。私はジャーナリストとして中東で出会う人々の体験や肉声を取材することで、日本の読者に中東の生の現実を伝えたいと思いました。さらに、現場を歩くことは物事のディテールに触れるだけでなく、中東危機の構図を理解するかぎがあるためでもあります。

 例えば、イラク戦争後に、占領米軍への攻撃が始まった町や村を歩いて人々の話を聞くことで、「対テロ戦争」の名目で米軍が繰り広げる暴力的な軍事作戦に人々の怒りが広がっていることが見えてきました。イラク戦争後の米軍占領が無残に失敗した理由や経緯は、占領米軍とイラクの民衆の関係を取材することで見えてきたものです。

 この連載に盛り込んだエピソードは新聞記事を書くために取材したものですが、文字数が限られている新聞記事で伝えることができるのは、現場で知りえたことのごく一部に過ぎません。今回は、文字の制限に縛られないデジタルメディアでの連載でしたので、中東取材についてのエピソードを細部まで書き込むことができました。日本から遠い中東を、いくらかでも身近に感じてもらえるように、新聞ではほとんど出ることがない現場での記者の思いや現地の人々との関わりもできるだけ盛り込みました。

 読んでいただいたみなさんに、中東の社会や人々を身近に感じるような発見があれば、著者にとっても大きな喜びです。(2016年10月、ベイルートにて)

*筆者のこれまでの中東取材をまとめた『中東の現場を歩く――激動20年の取材のディテール』(合同出版)もご覧ください。


筆者

川上泰徳

川上泰徳(かわかみ・やすのり) 中東ジャーナリスト

長崎県生まれ。1981年、朝日新聞入社。学芸部を経て、エルサレム支局長、中東アフリカ総局長、編集委員、論説委員、機動特派員などを歴任。2014年秋、2度目の中東アフリカ総局長を終え、2015年1月に退職し、フリーのジャーナリストに。元Asahi中東マガジン編集人。2002年、中東報道でボーン・上田記念国際記者賞受賞。著書に『イラク零年――朝日新聞特派員の報告』(朝日新聞社)、『現地発 エジプト革命――中東民主化のゆくえ』(岩波ブックレット)、『イスラムを生きる人びと――伝統と「革命」のあいだで』(岩波書店)、『中東の現場を歩く――激動20年の取材のディテール』(合同出版)、最新刊に『「イスラム国」はテロの元凶ではない――グローバル・ジハードという幻想』(集英社新書)。

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