『関東大震災朝鮮人虐殺の記録』(西崎雅夫編著)の重さ(中)
2016年11月17日
[14]「嫌韓都市・大阪」と東京のジェノサイド――『関東大震災朝鮮人虐殺の記録』(西崎雅夫著)の重さ(上)
9月の初めに、『関東大震災朝鮮人虐殺の記録』の編著者西崎雅夫さんを東京・荒川土手の自宅に尋ねた。彼らが虐殺現場に慰霊碑を立てるため、グループで土地を確保し、自らそこに移り住んだのは近隣の人々からの理解も得るためだったという。
「自分が中学生の時にサッカーをして遊んでいた河川敷が、実は震災時の朝鮮人虐殺事件の現場であり、今も遺骨が埋まっているという話を聞いたのは大学4年生の時でした。私は発足したばかりの『追悼する会』に入り、まずは遺骨の発掘にとりかかりました」
ところが、「確かにここに埋めていた」という地域のお年寄りたちの証言にもかかわらず、遺骨は出てこなかった。しばらくして、その理由がわかった。河川敷の遺骨は震災の年の11月12日と14日の2度にわたり、警察によって発掘・移送されていたのだ。
西崎さんたちが発見した当時の新聞によれば、14日の2度目の移送でも、「トラック3台分」の遺骨が運ばれたとあった。遺骨の移送先は、現在も不明である。西崎さんたちは調べれば調べるほど、当時の日本政府・軍部・警察が、この虐殺を徹底的に隠蔽しようとしたことがわかったという。
そこで西崎さんたちはそうした証言をまとめて1992年に、『風よ 鳳仙花の歌をはこべ――関東大震災・朝鮮人虐殺から70年』(教育史料出版会)というタイトルの、墨田区北部における朝鮮人虐殺目撃証言集を出版した。
そうしているうちに西崎さんは、東京の他の地域のことが気になり始めたという。
「自分が生まれ育った足立区や高校生活を送った上野・浅草。そこでは、震災時に何が起きていたのか?」
ただ、その時はすでに震災から80年もたっており、当時を記憶している人はほとんどいない状態だった。そこで、23区内の公立図書館などを虱潰(しらみつぶ)しにあたって、郷土史などの資料を読み込んだという話は、前回(連載第14回)も記した通りだ。
[14]「嫌韓都市・大阪」と東京のジェノサイド――『関東大震災朝鮮人虐殺の記録』(西崎雅夫著)の重さ(上)
ところで、西崎さんはこの作業の中で、とんでもないものを発見してしまう。それが本書の巻末に収められた『子供の震災記』である。
有料会員の方はログインページに進み、朝日新聞デジタルのIDとパスワードでログインしてください
一部の記事は有料会員以外の方もログインせずに全文を閲覧できます。
ご利用方法はアーカイブトップでご確認ください
朝日新聞デジタルの言論サイトRe:Ron(リロン)もご覧ください