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[2]平気でウソをいう人たちにどう対抗するか

検証可能な事実を土台にした近代社会が揺さぶられている

松本一弥

憲法学者・木村草太VS作家・新城カズマ(司会は松本一弥・朝日新聞WEBRONZA編集長)

東京・下北沢の本屋B&Bで行われた新城カズマさんと木村草太さんの対談風景拡大東京・下北沢の本屋B&Bで行われた新城カズマさんと木村草太さんの対談風景

この対談は、2月19日に東京・下北沢の本屋B&Bで行われた「世界がざわついている今、時空をワープしながら<トランプ・秀吉・憲法・AI>を語ろう」(presented by 朝日新聞WEBRONZA)を加筆修正したものです。3回に分けてお届けします。
※最終回の末尾には、会場で配布した「新城カズマと、木村草太が薦める『2017年を生きぬくオススメ本ベスト 10』」の書籍リストをご紹介します。
木村草太VS新城カズマ 1本目「トランプ大統領は豊臣秀吉に似ている」http://webronza.asahi.com/politics/articles/2017022300010.html

新城カズマさん(左)と木村草太さん拡大新城カズマさん(左)と木村草太さん

トランプ氏による他者批判はすべて当人にはね返ってくる

松本 次に、フェイクニュースについて話をしましょう。新城さんからは、「トランプ氏による他者への批判、非難はすべて当人にはね返ってくる」というお題をいただいていますが、そのあたりからまずいきましょうか。

新城 これは昨年の大統領選挙のあいだに、もちろん私だけじゃなくて、アメリカでニュースを書く人のなかでもちらほら出ていた話なんですが、トランプ氏が相手候補、特にヒラリー・クリントンさんを攻撃するときのネタっていうのは、そのあと調べてみると、たいていトランプ氏自身にあてはまることが多かったんですね。それがなぜなのかはよくわからないんですが……何か心理学的な問題が絡んでくるのかもしれないですけど。

 「ヒラリーはニューヨークの金持ち銀行に毒されてる」とかいってトランプ氏が攻撃しましたが、でも実際にトランプ氏が今やってるのは自分がゴールドマン・サックスの人間を閣僚に入れたりだとか、「ヒラリー・クリントンのだんなは浮気してた」とか言ったときも、でも自分も奥さんを取り換えてさらにまた浮気もしてたりとか。

 他の候補に対しても「ウソつきテッド」とかあだ名をつけて揶揄(やゆ)していたんですが、トランプ氏自身もウソばっかり言ってる、っていうぐあいに。あれは何でなのかがよくわからないですけども、なぜかそういう現象が起きているんですよ。

木村 たしかに起きてますね。

ファシスト政権は悪行を相手になすりつける

新城カズマさん拡大新城カズマさん

新城 その説明としては、これはモンティ・パイソンのメンバーだったジョン・クリーズがこの間ちらっとネットで言ってたのを見てたんですけども、「ファシスト政権っていうのは相手を攻撃するときに、自分たちの悪行を相手になすりつける」って。「そういう癖があるので気をつけろ」っていうことを言ってたんですよ。

 トランプ氏もそうやってむちゃくちゃなことを言って時間稼ぎというか一日を通り抜けて翌日になだれ込むというのが、大統領選からずっと続いていて、もちろんフェイクニュースもその片棒を担いだりするというか。

木村 そうですね。フェイクニュースもそういうところがありますよね。トランプ大統領は就任したすぐ後にも「CNNはフェイクニュースだ」とか言ったりして。

新城 そうそうそう。だから急に言い出すんですよ、なぜか……。

木村 世論調査で支持率が非常に低く出ると、それも「フェイクニュースだ」って(笑)。冗談かと思ったら、トランプ氏は本気で言っている。

新城 どうも言ってる本人は自分の発言を少なくとも信じてるのは間違いないんですよ。だからそんなことをだれが言わせてるか、その茶坊主はだれかみたいなあたりを想像してしまう。ある意味、彼はフェイクニュース的なものと非常に相性がいいんだなぁと。

 ただし気をつけなくちゃいけないのは、フェイクニュースという、去年から今年にかけてすごく話題になっているあの概念というのは、もともといろんな名前を変えて今までずーっとあった、それこそ近代以前からあったようなもので、昔は「イエロー・ジャーナリズム」とか言われてましたし。

 例えばヨーロッパでいろいろ話題になってるファシスト的な候補とか、ポピュリズム的な候補っていうのもいますけども、トランプ氏ほど、あそこまでナチュラルにウソはつけないですよね。いや、どこの国の首相もね、ある程度ウソはつくし、もちろんクリントン氏だってオバマ氏だってウソはついたんですけども、あそこまでスラスラ~ッとウソがつけるっていうのはちょっとすごいなぁと。

大統領就任式の参加人数

松本 フェイクニュースと聞いてぱっと思い浮かぶのが、大統領就任式のときの人数ですよね。

新城 あっ、そうそう。

松本 例えばオバマ前大統領のときの就任式を写した写真と今回のトランプ氏のそれを写した写真を並べて比べれば、これは明らかに今回の数が少ないわけですね、どれぐらい少ないかは別にして。それでも「歴史的な参加人数だった」と強弁してしまうのはなぜか。ふつうは「そこまで言っちゃあおしまいよ」みたいなところがあると思うのですが。

新城 そう。本当に物理的事実ですら……

松本 あっさりと否定する。

新城 本人がウソをついてる感覚がないんだと思うんですけども。

松本 ニュースを仕事にしている者としては、その点は衝撃的だったですね。とりわけホワイトハウスのスパイサーという報道官が言い張りましたよね、「歴史的な参加人数だった」と。

新城 そうそう。

松本 まあ何もそこまで頑張らなくてもいいだろうと思うんですけども、「いや、間違いない」と。

胃を痛ませながらウソをつく?

木村草太さん拡大木村草太さん

新城 そうなんですよね。ただスパイサー報道官はよーく見てると、すごく何か、自分の胃を痛ませながら言ってる感じがあって(会場・笑)。いや、本当に頑張って言ってるな、この人本当はちゃんとした人だけども、トランプ氏の前で無理やり言ってるなっていうのがヒシヒシと。

松本 まあそれだけ親分のトランプ氏が後ろから厳しく報道官の言動を監視しているっていうことなんだろうと思いますが。それにしても、いずれ客観的な事実がはっきりしてしまうことをあそこまで言い張るというのはただごとではありません。つくづく「世界は新しい段階に入ったな」っていう感じがしました。

新城 まあ少なくともホワイトハウス周辺は入りつつあるという。

松本 あの直後に今度は大統領顧問の女性のコンウェイさんが「我々のスパイサー報道官は『aiternative facts(もう一つの事実)』を提供しただけだ」と言ったと知り、これも思わず絶句しました。

新城 そうそう、あれはすごいですよね。

松本 そういう人たちが世界最強の国の中枢に現れたというのは厳然たる事実ですからね。そことどう向き合っていくかっていうことが世界中のあらゆる人たちに問われる時代が来たということだろうと思うんです。

新城 向き合っていく……ほんとは目をそらしたいですけど(笑い)、まあ大人の義務として。

ポジティブ思考に影響を受けた大統領

松本 国際基督教大学の学務副学長でいらっしゃる森本あんりさんに先日、WEBRONZAにとても素晴らしい論考を書いていただいたんです。

 その中で森本さんは興味深い事実を紹介して下さいました。「特にアメリカ的な文脈で『ポスト真実』を論じる場合には、『ポジティブ思考』の延長線上でこれを理解する必要がある」とした上で、トランプ氏は青年時代に、戦後アメリカでベストセラーになり、全世界で2千万部を売り上げた「積極的考え方の力」(ノーマン・ヴィンセント・ピール著、桑名一央・市村和夫訳、ダイヤモンド社)の著者であるピール牧師に心酔して彼の教会に通い詰めたそうなんです。

 ピールは、「宗教的義務」にまで高められた楽観論の中、どんな困難なときにも自信を失わず、物事のよい面だけを見つめ続け、聖書から引用した肯定的な言葉を3回繰り返して唱えるよう勧めたといいます。

 「そうすると、目の前の現実の見え方が変わってくる、というのである。同じ事実でも、見え方によって変わる。これぞ『ポスト真実』の極意である」。森本さんはそう書いています。私たちはトランプ氏やポスト・トゥルース、フェイクニュースのことを考える際、そうしたある種の宗教的な側面にも留意しておく必要があるのだろうと思います。

新城 そういえばテレヴァンジェリストとか80年代頃からすでにありましたね。ほとんど新興宗教のようなキリスト教をやっている人たちがわーっとケーブルテレビとかを使って熱心に説いていて……。

松本 ええ。そうした宗教的な要素というものも押さえておかないと、いま一つ今の現象を深いところでは理解できないのではないかということですね。

 新城さんもご指摘になったように、フェイクニュースという言い方は一見すると目新しい感じがしますが、昔からいくらでもあるものですよね。要はこれまで様々な形で流布されてきた「デマ」のたぐいにほかなりませんから。

 ただし今回の特徴的な使用例として、権力を持っている側が、自分にとって都合の悪い事実を報道されたときに、たとえあとから自分の弁解がでたらめだと客観的に証明される危険性が高いとしてもそれを無視した上で、当該の相手に向かって「フェイクニュース」ということばを投げつけ、問題の本質をすり替えているという点は改めて押さえておきたいと思います。

 同時に、たとえあとから正しいファクトが提示されたとしても、「何がほんとうか」ということにはさほど関心を示さず、「フェイクニュース」ということばを好き勝手に言い放つ権力者のほうを支持する人がかなりの数にのぼる――という点も冷静に押さえておくべきでしょう。

 アメリカで真実を報道するために格闘するフリージャーナリストたちの姿を描いたドキュメンタリー映画が3月に公開されますね。その映画のタイトルにもあるように、古今東西、「すべての政府は噓をつく」ものではありますが、トランプ政権とメディアの闘いは今後より厳しさを増していくことが予想されます。こうした動きに対し、メディアの側は、徹底的なファクト・チェック、つまり「ほんとうは何がファクト(事実)なのか」を愚直に証明し続けていくしかありません。

 その際、少し時間はかかったとしても、目の前で起きている現象の背後に隠れている歴史的文脈や構造をじっくり読み解き、「ほんとうに問われていることは何なのか」という問いを発しながら、ファクトを何度でも徹底的に検証して読者や視聴者に「考える素材」を提供する「スロージャーナリズム」の重要性が増していると私は思いますし、WEBRONZAとしても、フェイクニュースにファクトで対抗する「スロージャーナリズム」に挑戦していきたいと考えています。

宗教はポスト・トゥルースの走り?

新城カズマさん拡大新城カズマさん

木村 ポスト・トゥルースで思い出したのが、宗教の定義に関する議論です。宗教の定義にはいろいろあるんですけど、私が憲法学上の宗教の分析をしたりするときに使うのは、「検証できない事実の認識」を基準とする定義です。

 例えば、キリスト教の前提となっている「神がこの世界をつくった」っていうのは、世界の外に出られないので検証できない。あるいは、仏教を見てみても、「その人が仏になったかどうか」も検証しようがない。天国が死んだあとにあるかどうかも検証しようがない。検証できるはずがないのに、それを「事実として認識する」のが宗教ですよね。そういう視点からすると、宗教っていうのはいわば「ポスト・トゥルースの走り」みたいなところがあるわけですね。

新城 そうですね。あるいは逆に言ってしまうと、近代っていうものは「事実で検証しよう」という、ものすごいめずらしい動きである。つまり人類史、5千年だか5万年だかぐらいのスパンで考えると……数字を見比べ、実験してチェックして、それでもし事実が違ってるとわかったら私は意見のほうを変えますという前提で社会を運営しようっていうのは、実は本当にこの400年ぐらいの出来事なんですよね。

検証可能な事実を土台とした近代社会への揺さぶり

松本 まあ、ポスト・トゥルース・イコール・宗教と言っていいかどうかっていうのは非常に大きな問題提起ではあると思いますが、そこはじっくり考えたいところですね。簡単には言えない。

新城 そうですね。逆に宗教のなかにも、事実をきちんと尊重したうえで魂の問題をうんぬんする宗派が……。

木村 もちろん、宗教との違いはあります。宗教は検証不能なんですけど、ポスト・トゥルースは検証不能なはずの間違った内容を信じちゃうことなので。

新城 そうそう。そこが不思議な踏み出し方をするんですよね。だから「わからないことはわからないまま流そうぜ」っていうゆるい考え方じゃなくて、「これってこうしてこうやって検証したら事実か否か簡単に判明するんですけど」に対して、「いやいや、その情報は俺の世界観に合致しないから事実じゃないぞ、俺の感情を逆なでしない情報こそが事実だ」、もしくは「そんなことはどうでもよくて、俺の言ってることを聞け」みたいな、何かそういうふう方向に行っちゃう人たちが現にいるし、それがホワイトハウスにまでたどり着いちゃったっていうのが。

木村 国家論の伝統からすると、価値とか感情っていうのは共有に限界がある、だから価値とか感情で話すんじゃなくって、事実を検証して、そこを共通の土台にしていきましょう、そういう前提でやってきているんです。「お互いに共有できない価値とか感情がある」っていうところから、国家とか社会を組み立てていこうっていうのが近代の基本なので。

新城 政教分離とかね、そのへんも全部そうですし。

木村 そう、政教分離もですね。そこがまさに挑戦を受けているっていうことなんでしょうね。

そもそも法とは何か?

木村草太さん拡大木村草太さん

松本 続きまして「法学と小説」というお題をちょうだいしていまして、法律とはそもそもなんぞやということから。

新城 ああ、これはぜひ私がおたずねしたかったお題で。

松本 法学というジャンルを舞台にした「法学SF」の可能性とかですね。ますは新城さんからお話いただけますか。

新城 ええ。法とはなんぞやというまず定義をぜひうかがいたいんですね。なぜかというと、これは私の個人的な興味で「法律SFって書けるのかしら?」 というのがありまして。

 つまりSFっていうのは、何らかの科学とか科学理論とか、あるいは学問の体系とかを、「これってもしかしたらこんなことも起きるんじゃね?」とか、「ほっといたらこんなひどいことになるんじゃね?」っていうところから行くのがまあ常道とされる技なんですけども。

 それを法律という学問の体系、知の体系に対して、そういう発想を持ってったらどんなことになるのかなぁというのが、以前からやりたかったんです。今までは自分自身の知識が追いつかなかったので……まずは法とはなんぞやという、あまりにも初心者的なところからで申し訳ないんですけども。

木村 法の基本的な発想としては、といっても西洋の法とイスラムの法と中国の法とではすべて異なるわけですが、少なくとも西洋近代法の成り立ちは、古代ローマ法に源流があるというイメージを持ってるんですね。もちろん、今の日本の法とかヨーロッパの法っていうのは、古代のローマ法とは違うものですけれども、しかしそれでも精神的源流はローマにあるんだっていうイメージをもっている。

 ローマの法には、個人主義的なところや人間主義的なところがあるんです。つまり、ローマ法の体系では、まず、あらゆるものを人か物かのまずどちらかに分類する、それが大きな特徴なんですね。人とは意思の主体であり、権利を行使するかどうかを判断できるから、権利の享有主体になる。物は、権利の主体になることはなく、ただ人間の意思の対象となるのみである。そういう思考枠組みのなかで世界をとらえてルールをつくろうと、それがローマ法の精神かなと思いますよね。

ローマ法における神の位置づけ

新城 ローマ法って神様については何も言ってないんですか?  あれは「物」(ラテン語で言うところのres)なんですか?

木村 専門ではないので確信はもてないのですが、ローマ法って非常に世俗的で、ローマ法の教科書を読む限り神の位置づけが書かれていた記憶はありません。神に法人格は認めておりませんので、神のいない世界になっているんでしょう。

新城 それおもしろいですよね。

木村 ええ。まあ言ってみれば、法が神の意志なんですよね。

新城 ああ。

木村 神の手によって人と物が分かれている世界になっていますよね。神に祝福された人が権利の享有主体になるっていう構造からすると、神というのはたぶん法のところに入るわけですね。

新城 じゃあローマの神殿とかはだれかの持ち物なんですか?

木村 神殿については、その団体の持ち物になるんでしょうね。人の所有物になるので、神の所有物ではない。

新城 中世には、洋の東西を問わず、これは神もしくは仏の所有するところなので世俗法がタッチできないという理屈が……。

木村 あっ、それはですね、法人っていうのがあるんです。権利の享有主体になる人には、いわゆる人間、法的には自然人と言いますが、人間だけじゃなくて、法人格もあって、教会っていうのは法人格を持つ団体のプロトタイプですね。

新城 ああ、なるほど。

すべての法のプロトタイプである民法

新城カズマさん拡大新城カズマさん

木村 法の基本イメージはこんな感じですね。近代に入って、そのローマ法の体系をもとに、まずは、私人と私人の関係を規律する民法ができた。その民法を写しとりながら、国家内部のルールだとか、国家と私人の関係を規律する、憲法や行政法といった公法をつくった。だから法学者の中で、「憲法に違反する法律は無効になる」という効力の観点からすると憲法が一番偉いんですけども、学問としては、民法が一番偉いというイメージがある。

新城 ああ、そうなんですか。民法が偉いんですか。

木村 民法学者が。

新城 歴史があるから。

木村 歴史的に学問的伝統があって、最もすべてのプロトタイプは民法から組み立てられていて。

新城 ああ、なるほど。

木村 憲法学者っていっても、最初期の憲法学者はもともと民法学者だったりするんです。憲法学っていう学問がなかったからです。もともと法学者っていえば、民法学のことを指していて、その中で、民法学の概念を使って国家を法人として解釈してみようかということによって憲法学ができてきたっていうことです。

新城 なるほど。何か私だけちょっと腑に落ちていて、本日ご来場の皆様には申し訳ないぐらいの気持ちですけど(笑)。そうか、そうか。だから人をどう、枠組みをつくるかで、そのあと法人が来て、国家はその後にっていう……。

木村 そうそう。そういう感じです。

民法とは物権と債権に関する法律

木村草太さん拡大木村草太さん

新城 ……順番で憲法が出てくると。民法というのはじゃあ、つまるところ取引に関する、所有権の移転に関する法体系なんですか?

木村 民法では、まず人と物の定義をした上で、人のもつ権利が書いてある。権利は、性質によって分類されていて、まずは物権と債権に分かれるんですね。

 物権っていうのは物についての権利、所有権とか占有権のこと。債権っていうのは、人の人に対する権利っていうことです。物権の特徴は何かっていうと、その物について自分がもっている権利を、あらゆる人に対して主張できるっていることですね。

 例えば、「このパソコンは私のものです」っていうときには、私は新城さんに対してだけ主張できるんじゃなくて、あらゆる人に対して、この物についての権利を主張できる。

 これに対して、債権の特徴は、主張できる相手が限定されている。例えば、私が新城さんからお金を借りたとしたら、新城さんは1万円を返してもらう権利がある。でも、新城さんは、誰にでも「1万円返して」と言えるわけではなく、私に対してだけ請求できる。これが物権と債権の簡単な違いです。

 民法では、権利の主体となる人を定義した上で、物権が発生する原因を定め、その権利をもっていると何ができるのか、みたいなことを定めています。そして、債権についても、契約とか不法行為といった債権の発生原因を定め、その権利をもっていると何ができるのかを、権利の種類ごとに書いてある。そういう体系になっているのが民法ですね。

新城 何かを所有できる人間というのを、じゃあどういうふうに定義されているんですか?

木村 人間は、意思の主体ですね。

新城 意思の主体。

木村 意思の主体となれるのは、出生から死亡までの人間です。これを先ほどもちょっと申しましたが、自然人と呼びます。

新城 意思のない人間はいないということになってるんですか?

木村 人間であれば意思の主体になれるというフィクションですよね。意思能力がない人間っていうのももちろんいるんですけども。

新城 まあそれはそうですね。

木村 生まれたばかりの赤ちゃんや、病気で昏睡状態にある人についても、その人の意思を代理で表示する代理人をつけることができる。そういう形で、意思の主体として観念するっていう処理をします。

新城 なるほど、なるほど。

木村 権利の主体と客体を区別して、主体の意思によって権利関係が形成されていく。それがあらゆる法の本当に基本的な部分ですね。

新大陸の住民に魂があるかないかで論争となった近世

新城 何かすごい、すごいわかった感じがして(笑)。いろんな疑問が解けました。ということは、中世のキリスト教における魂のある、なしみたいな話っていうのは、もしかして、その意思の主体かどうかという話を別の言葉で言ってたんですかね?  たしか新大陸を発見したあとでカトリック教会が、新大陸の住民に魂があるかないかで延々と論争してますよね。

木村 そうです。魂があるかどうかは、法学的には非常にクルーシャルな論点です。魂があったら人格を認めて、権利の主体になるんですけど、魂さえなければ所有物ですから奴隷にできるっていうことになります。

新城 魂はないけど、意思の主体であるということは考えないんですか? それとも魂は単なる表現でしかなくて、あれは意思の主体のことを言ってたんですかね? あるいは現に今も言ってるのか。

木村 専門ではないので、直接に調べたことはないのですが、理論体系から推察すると、法っていっても、近代法につながるのはローマ法のいわば世俗的な法体系で、教会には独自のカノン法っていう法体系があるんですよね。カノン法の適用について議論するときには、たぶん魂の存在っていうのは問題になるのだと思います。ただ、一般市民法のなかで意思主体になりうるかどうかを考えるときには魂の存在は問題にする必要はないはずです。別の法体系っていうことになりますね。

法学部は法学SFをやる場

新城カズマさん拡大新城カズマさん

木村 さて、法学SFについて考えてみたいんですが、私の理解では、SFっていうのは、架空の物理法則をつくり出して、その架空の物理法則のある世界であればどんなことが起きるか、を描くっていうことになりますかね?

新城 はい。まあ物理法則じゃなくてもいいかなと、今では私を含めて大勢のSF読者や業界人が思ってるようですが、ハードSFと呼ばれるサブジャンルでは厳密に科学理論、近代科学理論に基づきつつ、ここをちょっとだけ延長してみようとか、突き詰めてみようとかっていうのはやられてますね。現状のSF、スペオペからニューウェーブからスペキュラティヴ・フィクションから何からを全部含めた広義のSFということになると、「普通とはちょっと違う状態の世界でのお話」、という感じでしょうか。

 ただしそれは、むちゃくちゃな法則が次から次へとデタラメに起きる、つまり「まったく予測できない世界」ということではなくて、ある程度、何か予測できる、もしくは可能性は幅広いにしても、その可能性に何かの「根拠」があることを目指したいなぁ、そこでは人間あるいは人間以外のキャラたちはどんな風に振る舞うんだろうなぁと想像してみる、というのが、SFの一番広〜い定義……と私自身は思ってるんですけど。

木村 なるほど。そういう意味では、実は「法学部は法学SFをやる場所」と言っていいと思うんですよね。

新城 ほう。

木村 つまり架空の法があったらどういうふうに人間が動くのかを考えるっていうのは、これは法学者として、普通にやってることですよね。

新城 あっ、そんなすてきな学部が。(会場・笑) なんてこった、そっちに行けばよかった。

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筆者

松本一弥

松本一弥(まつもと・かずや) 朝日新聞WEBRONZA編集長

1959年生まれ。早稲田大学法学部卒。朝日新聞入社後は東京社会部で事件や調査報道を担当した後、月刊「論座」副編集長、オピニオン編集グループ次長、月刊「Journalism」編集長などを経て現職。満州事変から敗戦を経て占領期までのメディアの戦争責任を、朝日新聞を中心に徹底検証した年間プロジェクト「新聞と戦争」では総括デスクを務めた。著書に『55人が語るイラク戦争ー9.11後の世界を生きる』(岩波書店)、共著に『新聞と戦争』(上・下、朝日文庫)。

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