2017年03月24日
*3月24日(金)10:00配信時点の記事タイトルは「[2]『教育勅語』崇拝をマネした戦前のフェイク」でしたが、変更しました。ご了承ください(3月24日20:30、編集部注)。
愛国幼稚園と「教育勅語」――「愛国者」たちの密かな愉しみ [1]幼稚園の教育勅語暗唱は戦前でも異様だった
「大東亜戦争」中の学校儀礼における「教育勅語」奉読はどのようなものであったのか。ここでは、1942(昭和17)年に出された川島次郎『学校礼法 儀式篇』(目黒書店)を見てみよう。
昭和17年当時の国民学校における儀礼のうち、何よりも重大なのは四大節(元日の四方拝、紀元節、天長節、および明治節)、教育勅語奉読式(10月30日)、次いで入学式、始業式、卒業式などであった。とりわけ四大節は、天皇・皇后の御真影を「奉掲」し教育勅語を「奉読」するという特別なオプションがついており、「天皇陛下の御盛徳を仰ぎ奉り、皇室の御繁栄を祈り奉る」儀式として全学校で執り行うように文部省から強く命じられたものでもあった。
だからこそ、当時の校長先生たちは緊張したのだろう。仮にも「不敬」があってはならぬと、微に入り細を穿(うが)つマニュアルが必要だった。それが川島のこの本だ。
例えば毎年10月30日に行われていた「教育勅語奉読式」は次のような式次第になっていた。
職員児童式場に入る。
次に学校長式場に入る。
次に一同敬礼。
次に国歌をうたふ。
次に学校長勅語を奉読する。
次に勅語奉答の歌を歌ふ。
次に学校長訓話を行ふ。
次に一同敬礼。
次に学校長退出。
次に職員児童退出。
「勅語」を読んで校長先生の訓話を聞いてオシマイ……というすさまじくツマラナイ儀式なのであった。しかし当時の校長にとって最大の関門は「勅語の読み方」であった。
川島は「教育勅語」全文にふりがなをふり、語句の区切りをスペースであらわし、さらにアクセントの位置までつけるという、たいへん親切なお手本を示している。
爾臣民 なんじ しんみん
父母ニ孝ニ ふぼ に こー に
兄弟ニ友ニ けいてい に ゆー に
夫婦相和シ ふーふ あい わし
朋友相信シ ほーゆー あい しんじ
……
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