だからこそ教育勅語は教材に用いられない
2017年03月24日
稲田朋美防衛相が強い批判を浴びている。森友学園問題で国会における発言の撤回と謝罪に追い込まれ、「虚偽答弁」として野党から辞任を要求されている。同時に、南スーダンへの派遣部隊について日報の隠蔽が明らかになり、防衛相としての内部統制力の欠如が疑われているのだ。この二つの問題で辞任を求める声が高まっているのは、偶然だろうか?
政権がなおも稲田氏を擁護している一因は、辞任や罷免となれば首相の任命責任も問われざるを得ないからだ。稲田氏は首相自身が次々と要職に引き上げた人物だ。将来の後継者に考えているとまで言われたことがある。稲田氏をかくも優遇してきた理由は、首相と思想的に親近性があるからだろう。
それは、日本会議のような右派思想に他ならない。首相を脇に置けば、稲田氏こそが政権におけるその代表者である。森友学園の籠池泰典発言に関して注目を浴びた菅野完氏の『日本会議の研究』(扶桑社新書)では、日本会議の設立に関わった神道系新宗教(生長の家)の根本経典に影響を受けたとされているし、青木理氏の『日本会議の正体』(平凡社新書)では、その経典の一部に感銘を受けたことをインタビューで認めている(233頁)。
稲田氏は当初は籠池氏らとの交流を否定したが、出廷の証拠を突き付けられて認めざるを得なくなった。その後も国会答弁で「奥様らしいな、と思うが……」と発言してしまい、野党議員にその不整合を指摘されている。籠池夫人のキャラクターを知っているほど個人的に知っていたと想像されるわけだ。
しかもこの関係には思想的な背景がある。稲田氏の父親(椿原康夫氏)は関西の右派系運動家の間で有名な人物で、籠池氏と親しかったことを稲田氏も国会で認めている。籠池氏は稲田氏の親子と右翼思想という点で思想的に近く、だからこそ弁護を稲田事務所に依頼していたと思われるのだ。
森友学園系の塚本幼稚園で教育勅語が唱えられていることについて参院予算委員会で見解を問われた稲田氏は「教育勅語の核である、例えば道徳、それから日本が道義国家を目指すべきであるという、その核について私は変えておりません」と答えた(3月8日)。
このように「親孝行とか友達を大切にする」などというような「道徳」と「道義国家」という二つを「核」として挙げている。これらは今でも正しいとして、皇學館高校のように教育勅語の碑を校庭に置き、父母の日に教育勅語の全文を写させている学校もある、というのだ。
これは、憲法や教育基本法に反しないような配慮があれば「教材として用いることは問題としない」という松野博一文科相の見解(3月14日)とも呼応しているから深刻だ。今の内閣が、条件付きであれ教育勅語を教材として用いることを肯定したことになるからだ。かつて国会で教育から排除する決議をしたのだから、再び使用していいとするためには国会の決議が必要ではないだろうか?
日本会議をはじめ右派の人々の多くは、教育勅語を称賛して今でも教育で用いることを主張している。教育勅語の大部分は常識的だとか、今日でも通用する普遍的なものだから問題ないというのだ。「12の徳目」のうち、10項目(親への孝、兄弟の友、夫婦の和、朋友の信、己の恭倹、衆への博愛、学業の修習、智能の啓発、徳の成就、公益を増やして世の中の務めを果たす)までは基本的に普通の道徳と思われやすいからだ。
「そこで教育で用いよ」という主張は妥当だろうか?
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まず「核」の一つとして稲田氏が挙げている「道徳」について考えてみよう。
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