メインメニューをとばして、このページの本文エリアへ

RSS

移民・難民に苦悩するスウェーデン

急激な移民流入で就業教育が追いつかず

児玉克哉 社会貢献推進国際機構理事長、インドSSI大学国際平和創造研究センター所長

 スウェーデン、デンマーク、ノルウェー、フィンランドなどで構成される北欧は、福祉と人権の国で知られる。その中でもスウェーデンは「スウェーデンの実験」と称せられるほど、斬新な社会制度を先取してきた。筆者はスウェーデンでの留学時代に、この素晴らしい社会システムに感銘を受けた。世界の優等生にふさわしい制度を持っている。

拡大支援プログラムの進み具合を確認するため、担当者(左端)の面接を受けるイラク難民の一家=スウェーデン南部・セーデルテリエ
 移民・難民の受け入れにおいても、驚くほど先進的な制度を作り上げた。

 スウェーデンの移民・難民の受け入れ状況を歴史的に振り返ってみよう。

 第2次世界大戦後、スウェーデンは戦禍を受けなかったこともあり、いち早く経済発展を遂げた。そこで問題となったのが労働力不足であった。スウェーデンではまず女性を労働市場に組み入れた。フェミニズムの台頭もあり、あっという間に状況が変わった。1970年には当時の首相であったオロフ・パルメ氏が「スウェーデンには主婦がいなくなった」と言ったほどだ。

ヨーロッパからの出稼ぎ・移民が主だった1950年代から60年代

 女性に加えて、外国人労働者も労働市場に組み入れられた。1950年代から60年代にかけて多くの外国人労働者がスウェーデンに出稼ぎにやってきた。この時代はほとんど、ヨーロッパからの出稼ぎ・移民であった。東欧や南欧からの移民・出稼ぎ者は、確かに異なった文化を持っていた。スウェーデン人が主としてプロテスタント教徒であるのに対して、カトリック教徒も多かったし、食文化などもかなり異なっていた。とはいうものの、「キリスト教」文化・ヨーロッパ文化の枠の中であると言えた。また、深刻な労働不足という現実もあり、移民・出稼ぎ者は歓迎ムードの中で迎え入れられた。

 この時代には難民の受け入れにもスウェーデンは寛容であった。難民は「民主主義」を母国で実践する代償としてやってきた人で、珍しく、ちょっとかっこいいという感じがあったという。「民主主義」の先駆者を自負するスウェーデンは、当然のように彼らを受け入れた。スウェーデンの若者には、アフリカからやってきた黒人などは「ブラック イズ ビューティフル」の感覚で、かっこよく見えたのだ。

移民・難民の増加で大きくなった拒否感情

 しかし80年代に入ると徐々に状況が変わっていく。移民・難民が増えてきて、理性的には受け入れなければ、と思いながらも、拒否する感情が大きくなった。また難民の中にはイスラム教徒も多くなってきた。「キリスト教」文化圏のスウェーデンにとっては、異質な文化の流入であった。少数であった時には「かっこいい」と思えたのが、多くなると徐々に拒否反応に変わっていく。アフリカ、中東、中南米、アジアからの難民の増加は、移民・難民に寛大であったスウェーデン人の姿勢を変えていくことになる。また、経済の成長も緩やかになり、深刻な労働力不足は解消されていった。「外国人は仕事を奪う人々」という感覚が大きくなった。

 スウェーデンで興味深かったのは、移民・難民の受け入れに関する決定では、記名投票か無記名投票かで大きく結果が異なるということだった。 記名投票や挙手による決定では、移民・難民の受け入れは「推進すべき」になり、無記名投票では「受け入れるべきでない」になる。もうこの頃すでに、 ・・・続きを読む
(残り:約1798文字/本文:約3141文字)

全ジャンルパックなら本の記事が読み放題。
デモクラシーやJournalismの記事も読めるのは全ジャンルパックだけ!


筆者

児玉克哉

児玉克哉(こだま・かつや) 社会貢献推進国際機構理事長、インドSSI大学国際平和創造研究センター所長

三重大学副学長・人文学部教授などを歴任し現職。専門は国際平和論、市民社会論、NGO論など。国際平和研究学会の現事務局長でもあり、世界の平和研究の中核を担っている。グローバルな視点から社会科学の発展に寄与している。核兵器廃絶へ向けた「ヒロシマ・ナガサキプロセス」を提案し、世界的な運動を繰り広げている。2012年にインドの非暴力国際平和協会より非暴力国際平和賞を受賞。

児玉克哉の新着記事

もっと見る