メインメニューをとばして、このページの本文エリアへ

RSS

[2]民衆の不満の移譲が対外強硬論に

皇国日本は権力と倫理が混同される国家だった

五野井郁夫 高千穂大学経営学部教授(政治学・国際関係論)

注)この立憲デモクラシー講座の原稿は、2016年12月16日に立教大学で行われたものをベースに、講演者が加筆修正したものです。

立憲デモクラシーの会ホームページ

http://constitutionaldemocracyjapan.tumblr.com/

 

拡大講演する五野井郁夫教授

 まず、我々がここで注意しなくてはいけないのは、ナショナリズム一般とウルトラナショナリズムの違いです。我々はナショナリズムというものについては、もちろん悪だと思う方もいらっしゃるかもしれませんが、これは国民国家形成期に出てきたものですから、ある意味、国民国家としての主権国家からなる体系が国際秩序として規定されている現代においては、避けがたい現象です。もちろん皆さんの中で、自分自身がある種のコスモポリタニズムの側だという立場の方からすれば、ナショナリズムは拒むことができるわけですが、多くの人々は、生きている場所や文化からはそう簡単に離れられないわけですから、ナショナリズムというものは善でも悪でもなく、国民国家形成に伴う必然的な現象であるというのが、了解されていることだと思うんですね。

ヨーロッパの近代国家は「中性国家」

 しかしそれでも、ナショナリズムを涵養している国家同士が認め合い集まって、欧州の国際秩序はでき上がってきた。それを丸山はどういう言い方をしているかというと、「中性国家」という言い方をするわけです。どういうことかというと、宗教改革以後の宗教戦争などで、当然、個人の信仰や道徳といったもの、これがまさに噴出して、カトリックとプロテスタントとのあいだの争いになっていくんですね。あるいはキリスト教共同体内で異端に対する様々な闘争が生じてくるわけですけれども、しかもそれらは血みどろの争いになっていく。

 だから個人の内的な領域には踏み込まないで、国家は技術的にひたすら自分たちの主権の及ぶ領域を確定していくことにしようという決めごとが出来上がります。たとえ絶対君主であったとしても、諸個人の内面の部分には踏み込まないという形をつくっていく。そしてそのような相手の内面には立ち入らないで、自分たちの主権の及ぶ領域というものを技術的に確定していきました。しかもそれをお互いに認め合うという形で国内の統治にかかわる対内的な主権と、それを相手にも尊重するという形で各国の独立性という対外的な主権の原則という技術の下に、主権国家体制はできあがった。内政不干渉義務などは、わかりやすい例ですよね。これがヨーロッパの近代国家、中性国家的なものであると。

中間団体が弱かった日本

 では日本はどうだっただろうのかと、丸山は問いを立てるわけですね。明治維新後の日本というのは、まさに、国家主権の技術的な側面、あるいは中性的な側面というものについては、実はかなり無視をしていたんじゃないかと。さらには、ずっと過去のヨーロッパ秩序を見ていく中で重要なギルドであったり、教会であったりといった中間団体が、日本では強くはない。ほぼないともいえる。あるいは、維新の過程で根絶やしになっている状況もあったと。

 そういう市民社会の伝統もない中でどうなっていったのかというと、まず明治14年(1881年)あたりにエドマンド・バークの保守主義なんかを伊藤博文側近だった金子堅太郎が『政治論略』(忠愛社)というタイトルで翻訳しだして、それが貴族院のなかで回覧されるようになっていく。そういうふうに官製の国家保守主義というのができあがってくるわけですね。そのなかでは、全然、中性的な国家の性格なんていうものはほぼ規定していない。

個人の尊重自体が置いていかれてしまった

拡大講演する五野井郁夫教授
 それどころか、近代的な人格の前提となる道徳の内面化とか、そういったもの、つまり、やってはいけないことがあると法的に決めていくとかいったことへの注視が極めて弱かったわけです。あるいは近代化という言葉に絡めて申し上げれば、それこそ差別を禁止するとか、個人を尊重するとか、人権を守るということ自体が西欧化の中で、脇に置いていかれてしまった。しかもこうした市民的権利に関する意識は政府のみならず、実は自由民権運動をやっていた人々の側も大変弱かったんじゃないかともいわれています。だから「女性参政権を」という声は、もちろん平塚らいてう、その他もろもろ当時からありましたが、不幸にして男性の側からはなかなか上がってこなかったというのが、実態なわけですね。

 実際、男女平等が達成されるのは戦後なわけでして、こういう個人をちゃんと尊重するといったような、近代社会の道徳的な側面というものがなかったんじゃないかということを丸山は説いているわけです。

パブリックがプライベートに優先する社会

 そこで何が問題になってくるかというと、これは「日本ファシズムの思想と運動」のなかで言っているんですが、要は自分の個人的な事柄、私事の私的な性格というものが認められない社会が出来してしまう。どういうことかといえば、まさにパブリックなものとプライベートなものというときに、プライベートなものがパブリックなものに優先するというのが本来の近代社会なわけですけれども、公(おおやけ)の私(わたくし)に対する優位、すなわちパブリックなもののほうがプライベートに優先するという社会になってくるわけですね。

 しかしこれは我々のように、パブリックなものよりプライベートなものを大事にする側からすれば、 ・・・続きを読む
(残り:約6479文字/本文:約8724文字)

全ジャンルパックなら本の記事が読み放題。
デモクラシーやJournalismの記事も読めるのは全ジャンルパックだけ!


筆者

五野井郁夫

五野井郁夫(ごのい・いくお) 高千穂大学経営学部教授(政治学・国際関係論)

高千穂大学経営学部教授/国際基督教大学社会科学研究所研究員。1979年、東京都生まれ。上智大学法学部卒業、東京大学大学院総合文化研究科国際社会科学専攻博士課程修了(学術博士)。日本学術振興会特別研究員、立教大学法学部助教を経て現職。専門は政治学・国際関係論。おもに民主主義論を研究。著書に『「デモ」とは何か――変貌する直接民主主義』(NHKブックス)、共編著に『リベラル再起動のために』(毎日新聞出版)、共訳書にウィリアム・コノリー『プルーラリズム』(岩波書店)など。

五野井郁夫の新着記事

もっと見る