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「安倍9条改憲」はここが危険だ(前編)

石川健治東京大教授に聞く――自衛隊に対する憲法上のコントロールをゼロにする提案だ

松本一弥 朝日新聞夕刊企画編集長、Journalist

 安倍首相は憲法記念日の5月3日、憲法改正を求める集会にビデオメッセージを寄せ、戦争の放棄を定めた憲法9条について「1項、2項は残しつつ、自衛隊を明文で書き込む考え方は国民的な議論に値する」と述べた。持論だった戦力不保持を定める9条2項の改正論は事実上封印するとともに、公明党や民進党内にも賛同者がいる「9条加憲」に軸足を移し、憲法改正を実現しようとしている。

 また2020年の改正憲法施行をめざし、年内にも自民党の憲法改正原案をまとめる意向を示していたが、「来たるべき臨時国会が終わる前に、衆参の憲法審査会に提出したい」とも語り、その時期をさらに前倒しするアクセルを自ら踏み込んだ。この安倍首相の「9条改憲」をどうみるか。石川健治東京大学教授(憲法学)に聞いた。

(聞き手は松本一弥WEBRONZA編集長)

「自民党改憲草案全体を取り下げたことになる」

石川健治さん石川健治さん

――5月3日は東京都内で運動団体「日本会議」が主導する憲法改正派の集会があり、安倍首相はビデオメッセージを寄せて次のように語りました。

 「憲法は、国の未来、理想の姿を語るものです。私たち国会議員は。憲法改正の発議案を国民に提示するための、「具体的な議論」を始めなければならない、その時期に来ていると思います。例えば、憲法9条です。多くの憲法学者や政党の中には、自衛隊を違憲とする議論が、今なお存在しています。自衛隊の存在を憲法上にしっかりと位置づけ、「自衛隊が違憲かもしれない」などの議論が生まれる余地をなくすべきである、と考えます」

 「『9条1項、2項を残しつつ、自衛隊を明文で書き込む』という考え方、これは、国民的な議論に値するだろう、と思います。高等教育についても、すべての国民に真に開かれたものとしなければならないと思います。新しく生まれ変わった日本が、しっかりと動き出す年、2020年を、新しい憲法が施行される年にしたい、と強く願っています」(要旨)

 安倍首相のこのメッセージをどう受け止めましたか?

石川 あれは、政治的にはよくできた作戦、いうことなのかもしれませんが、多くの問題を孕(はら)んでいます。それを自覚してやっておられるのかおられないのか、いぶかしく思いましたね。

――「政治的に」とはどういう意味でしょうか?

石川 かねて「加憲」を主張していた公明党や、高等教育無償化を主張する日本維新の会を仲間に入れるための工作という意味ですね。その一方で、自民党はもともと「国防軍」をつくりたかったはずではないか、という点が気になりました。少なくとも、2012年の改憲草案に関しては、そうです。

 今回、自民党総裁みずから、その「一番の目玉」をはずす、それを下げてしまうということは、結局、突っ込みどころが満載だった2012年の改憲草案全体を、自民党として取り下げたことになるのではないかと思うのです。

日本国憲法 第二章 戦争の放棄
第九条 日本国民は、正義と秩序を基調とする国際平和を誠実に希求し、国権の発動たる戦争と、武力による威嚇又は武力の行使は、国際紛争を解決する手段としては、永久にこれを放棄する。
2 前項の目的を達するため、陸海空軍その他の戦力は、これを保持しない。国の交戦権は、これを認めない。
◆自民党 日本国憲法改正草案
第2章 安全保障 (平和主義)
第九条 日本国民は、正義と秩序を基調とする国際平和を誠実に希求し、国権の発動としての戦争を
放棄し、武力による威嚇及び武力の行使は、国際紛争を解決する手段としては用いない。
2 前項の規定は、自衛権の発動を妨げるものではない。
(国防軍)
第九条の二 我が国の平和と独立並びに国及び国民の安全を確保するため、内閣総理大臣を最高指揮官とする国防軍を保持する。
2 国防軍は、前項の規定による任務を遂行する際は、法律の定めるところにより、国会の承認その他の統制に服する。
3 国防軍は、第一項に規定する任務を遂行するための活動のほか、法律の定めるところにより、国際社会の平和と安全を確保するために国際的に協調して行われる活動及び公の秩序を維持し、又 は国民の生命若しくは自由を守るための活動を行うことができる。
4 前二項に定めるもののほか、国防軍の組織、統制及び機密の保持に関する事項は、法律で定める。
5 国防軍に属する軍人その他の公務員がその職務の実施に伴う罪又は国防軍の機密に関する罪を犯した場合の裁判を行うため、法律の定めるところにより、国防軍に審判所を置く。この場合においては、被告人が裁判所へ上訴する権利は、保証されなければならない。

――そうだと思います。下村博文・自民党幹事長代行は、朝日新聞記者からの「自民党の改憲草案との整合性も問われます」との問いかけに、「整合性、関係性はありません。新しい案です。役員でたたき台を議論し、党内議論と同時並行で、他党にも呼びかける」と答えたと報じられています(朝日新聞6月8日付朝刊)。

 また、「首相提案は船田元・憲法改正推進本部長代行ら与野党協調路線からの転換と見られています」との記者からの問いには、下村氏は「もうギアチェンジをする時。今までのペースだといったい改正がいつできるのか。憲法改正派からすると、いらだちもありますよね。5月3日の提案で明らかに改憲に向けた加速度が増したのは客観的な事実。船田さんたちのペースで、(首相がめざす)2020年施行の具体像は見えていなかったと思いますよ」と話しています(同)。

 つまりは「ギアチェンジ」という言葉で、いとも簡単に自民党改憲草案を「過去のもの」として切り離したということではないでしょうか。

石川 私は個人的には、2012年の自民党の改憲草案というのは、何かのフェイクではないかというふうに疑っていました。そして、第一次政権のときとは違って、良くも悪くも成熟した政治家としての安倍さんは、どこかでそれを取り下げてしまうんじゃないか、そのタイミングを探っているのではないか、とずっと思っていました。ですから、5月3日の安倍提案については、「ついにそのときが来たな」というのが、第一印象です。2012年のあの草案を掲げている限り、憲法改正が進まないことは、政治的には明らかでしたから。

 そして、既存の9条1項2項には触らずに、3項を修正条項(アメンドメント)として加憲する形であれば、公明党がかつて言っていたことでもありますし、他方で、維新が主張している高等教育の強化なんかも取り込めば、公明党と維新の両方が飲める案になるんじゃないか、という政治判断がなされた。もう2012年の案は引き下げるということを、安倍首相は事実上おっしゃったんじゃないかというふうに、いま思うわけです。

安倍首相の憲法イメージは社会主義の憲法観と一緒だ

石川健治さん石川健治さん

石川 まず安倍首相のメッセージを聴いていて、安倍さんの憲法イメージは、社会主義の憲法観と一緒なんだなと思いました。

――といいますと?

石川 一方では、すでに存在している自衛隊を「憲法上にしっかりと位置づけ」るとおっしゃる。そのための改憲提案です。しかし、他方では、「憲法は、国の未来、理想の姿を語るものです」と、高らかに歌い上げておられる。

 初期ソビエトの憲法理論で、「憲法は、勝ち取られた革命の成果の『記録』である」という見解と、「憲法は『行動計画』を書き込むものである」という見解が対立したことが知られていますが、それらとウリ二つの見解を、しかも同時におっしゃっていますね。どちらにしても、立憲主義の観点を憲法から欠落させているところに、特徴があります。中国や北朝鮮を非難できません。

 まず、特定の理想を憲法にかかげようという発想自体が、立憲主義と大いに抵触します。この点は、実は平和主義の理想を憲法にかかげる場合も、同様です。公と私の分離線を乗り越えて、特定の理想を国民に押しつける結果につながりかねず、立憲主義と予定調和の関係にはありません。個々の憲法典は政治過程の所産ですから、なかなか理論通りにはいかず、理想を書き込む憲法も少なくありませんが、立憲主義との調和には相当の工夫を要します。

 また、立憲的な権力と専制的な権力の相違は、審査・統制・監督つきの権力であるか否かです。要するに、コントロールの有無ですね。自衛隊であれ何であれ、権力をどうコントロールするかという問題意識が、安倍首相の憲法観には一貫して欠如しています。

 他方で、立憲政治の核心は「責任政治」であり、政治的「責任」の第一歩は「説明責任」です。しかし、このあいだの国会終盤においては、「説明責任」の観念が蒸発しているのではないか、と思われるような、強引な国会運営が目立ちましたが、責任政治の蒸発は立憲主義の蒸発にほかなりません。それもこれも、むべなるかな、という印象です。

権力は三つの層によって重層的に統制されている

――「3項を修正条項として加憲する」形かどうかはわかりませんが、「憲法9条1項、2項は残しつつ、自衛隊を明文で書き込む」という提案を改めてどうとらえますか。「自衛隊の存在を憲法上に位置づけること自体はごく当たり前の行為だ」などといった反応も出ていますが。

石川 現状維持の改憲提案であるように見えますが、現状維持にはなりません。提案内容のように9条が改正された場合、実は自衛隊に対する憲法上のコントロールがゼロになってしまう。安倍首相は極めて危険な提案をしているのだということに、多くの人にぜひ気がついていただきたいと思います。

 戦後日本の軍事力統制は、70年を超える、見事な成功の歴史でした。成功したからには、それを成り立たせる有効なメカニズムがあったに違いありません。この点を解明しようとする努力が、あまりにもおろそかにされてきた、という印象をもちます。私が21年前に学会で発表した、したがって大学の講義などではそれ以前から主張していた見解は、以下のようなものです。

 統治機構について憲法学の観点から考える場合に、大きく分けて三つの層から成り立っている。表層部分には「法的な権限があるか」という議論がありますが、その表層を一皮めくると、「その権限を行使する正統性がそこにあるか」という2層目に突き当たり、そしてその下にはさらに、「権限を裏付ける財政上の統制はあるか」という3層目にたどり着く。

 権力は、実際に、これら3層構造によって統制されているのです。

 権力統制の典型としての権力分立は、権限の分立であるだけでなく、正統性の分立です。しかし、特定の機関に権限や正統性が集中するのを排除しようとする企図は、財政面での分立がなくては画餅(がべい)に帰してしまいます。内閣が予算を編成し、国会がそれを議決するという役割分担が、それを下支えしています。権力というものは、つまるところ財源によって統制されるのであり、財政面での立憲主義は、その国における立憲主義の試金石です。

 これは、特段変わったことを言っているわけではなく、極めてオーソドックスな議論を整理しているだけのことです。そして、現状において軍事力のコントロールを成り立たせている機構もまた、そのように重層的にできているはずなのです。9条をそうした権力統制の文脈からみると何がいえるか。

表層部分は突破されたが、2層と3層は有効に機能してきた

石川 まず、9条の2項(戦力の不保持)は、戦前なら帝国議会が実権を握っていた軍の編成権を、国会から奪いました。けれども、それにもかかわらず、国会が自衛隊法を制定してしまったため、表層部分では9条2項はすでに突破されているという現実があります。そのことの違憲性を、自衛力論によって阻却(そきゃく)するのが政府解釈ですが、いずれにしても突破はされている。それでも、その下の2層と3層はその後も有効に機能してきたということを、ここで指摘しておかなくてはなりません。

 いま述べたように、どんな統治機構の憲法論においても、議論は表層の「権限の有無」だけで決まっているわけではなく、常に「その権限を動かす正統性はどこにあるか」という論点、さらに「権限の行使に財政上の裏付けはあるか」という問題が必ずそこに伴っている。権限とは、行使することもできるけど、行使しないこともできる、そういうものですので、結局、権限を与えられただけでは、権限は絶対に動かない。

 わかりやすい例としては、憲法81条が裁判所に付与した違憲審査権が挙げられます。

 第八十一条 最高裁判所は、一切の法律、命令、規則又は処分が憲法に適合するかしないかを決定する権 限を有する終審裁判所である。

石川 つまり、少なくとも最高裁判所には、国会のつくった法律を違憲無効にする強大な権限が与えられているはずですが、しかし、実際にはそれをなかなか行使できないでいる。自分たちにはその権限を行使する資格がないと、しばしば裁判所は考えてしまうからです。なぜかというと、国民によって直接選ばれていない裁判官が、「全国民を代表する」国会の制定した法律を覆せるのか、その理由がなかなか見つからないからです。そうした消極主義は、裁判所の政治的暴走を防いでいる、というメリットもありますが、それ以上に、人権保障という観点からのデメリットが目立ちました。

 そこで、たとえば、表現の自由が民主的政治過程の前提条件であり、それが傷つくと民主的政治過程が動かなくなってしまうといった理由をつけて、表現の自由の制約立法については、違憲審査権を行使する正統性を裁判所に付与する努力を、憲法学はやってきたわけです。

 他方で、たとえば営業の自由については、表現の自由が担保されているなど民主的政治過程が機能していることを前提として、たとえ政策評価の観点から過剰規制であるといってよさそうな場合であったとしても、政策の誤りを正すことも含めて立法過程に委ねるべきだと述べて、違憲審査権を行使する正統性を裁判所から剥奪(はくだつ)する議論を、有力な憲法学は展開してきました。ここがいわゆる正統性、レジティマシーの論点であるわけですね。

 このように、違憲審査権に限らずどんな権限であっても、行使・不行使の双方の可能性が与えられているため、それを行使する正統性を権限の外側から調達してこなくては、なかなか動きません。権限は、その主体に正統性を付与することではじめて行使されるし、その主体から正統性が剥奪されれば、権限は行使されないわけです。こうした正統性の付与・剥奪に関する理由付けは、憲法解釈論における不可欠の構成要素をなしています。

 これが2層目の問題です。9条論についていえば、9条2項の存在自体が、その有力な正統性論である倫理的平和主義論とあいまって、「われわれはこのような形で軍隊を持っていいのだろうか」という不断の問いかけをする根拠となりました。

 そして、そのようにして、実定法としての自衛隊法から正統性を剥奪する議論が、再軍備の現状に対抗する役割をになった存在(コントラ・ロール)として存続することによって、自衛隊の軍事的権限の行使から常に正統性が剥奪されるとともに、自衛隊そのものが、慎みのある、よくコントロールされた組織として今日に至っている、という側面があるはずなのです。

財源によって、権力は立憲主義的に統制されてきた

石川 それからもう一つ、さらに大きいのは、9条2項を根拠に、軍事組織を持つことの正統性が不断に問われ続けてきたこととの関係で、大規模な軍拡予算を組むことが事実上難しくなっているという側面に注目する必要があります。

 とりわけ大蔵省や財務省の予算編成においては、そうした抑制的作用が大きく働いてきたということです。財政の決定権は、もちろん憲法によれば国会にあるわけですけれども、実際の編成は役所がやっている。

 そして、防衛庁・防衛省やアメリカの軍拡圧力に対して、大蔵省・財務省が杓子定規な予算編成を行うにあたり、9条が「錦の御旗」として存在することの意義は、小さくなかったはずです。じりじりと自衛隊の規模は拡大していきましたが、国の財政規模からいえば極めて抑制的であり、北東アジアの軍拡競争に巻き込まれることはありませんでした。

 そういう点でいうと、9条は確かに、第1の権限の層においては、自衛隊法を制定した国会自身によって突破されてしまったかもしれませんが、第2・第3の層においては、なお有効に機能しています。自衛隊法の成立後も、9条を根拠に常に問い直しが行われたために、少なくとも正統性が積極的に付与されることはなく、だからこそ自衛隊は、フルスペックの軍隊としてはこれまで動くことができなかったのです。

 自衛隊については、人気の高い災害救助隊としての側面や、国連PKOへの参加、さらに現在関心が集まる対外的な防衛の作用だけでなく、軍事力の国内投入としての治安出動の問題も考えておかなくてはなりません。

 自衛隊は、「間接侵略」を名目として、国内的な治安出動をも予定した組織であって(自衛隊法78条1項)、依然として「自由」にとっての潜在的な脅威であり続けています。間接侵略とは、直接武力を用いずに他国の反政府団体などを援助して内乱・革命などを起こさせることであり、政府に批判的な言論活動を、対ソ連の思想戦の文脈でとらえ、反政府デモを、ソ連による経済的思想的援助による「間接侵略」に仕立て上げて、自衛隊が弾圧に乗り出すおそれが、早くから指摘されてきました。

 実際、60年安保に際して、安倍さんのお祖父様の岸信介首相は、国会を取り巻く安保反対の群衆に対して、自衛隊の治安出動を本気で考えた、と伝えられています。しかし、幸いにして、あの絆創膏(はんそうこう)大臣のお祖父様である赤城宗徳防衛庁長官が、強硬に反対して、沙汰(さた)止みになりました。これは、赤城長官が自衛隊の正統性の弱さを考えたからこそ、権限の行使が抑制された事例です。

 これらは、なお2層・3層において、9条が完璧に機能してきた局面です。安全保障は国際関係に依存しますが、自由の保障は国内法としての憲法だけで決まる問題であって、9条はその不可欠のピースをなしてきたわけです。

 そして、2層目の正統性剥奪の作用については、及ばずながら憲法学も関与してきたということがあって、憲法学も実は、その意味では権力問題に組み込まれ、日本の権力統制メカニズムの一翼を担うことを余儀なくされてきた、という事情があります。

 5月3日の安倍改憲提案を考える場合には、そうやってこれまで守ってきたものを、果たして今回の提案は壊すのか、壊さないのか、つまり「今回の提案で何が足し算され、何が引き算されるのか」ということを見極めるということが、あらゆる議論の先決問題として重要な論点だということを、ここで強調しておきたいわけです。

軍事力統制メカニズムが一気に立ち消えてしまう

石川健治さん石川健治さん

――その3層構造は、今度の「安倍改憲」がこのまま実現するとどう変わるのでしょうか。

石川 どういう文言になるのか、9条3項なのか9条の2なのか、それは今後の検討に委ねるということのようですが、要は自衛隊の正統性論です。

 9条2項のもとで、解釈の余地はあるけれども、自衛隊の正統性にはたしかに危ういところがある。それは、歴代の政府が今まで認めようとしなかったが、ついに安倍首相が今般正式に承認した論点です。ずっと後ろめたかったということですね。そして、このうしろめたさ、正統性の欠如こそが、軍事力の国内問題への投入を含む、権限の行使を控えさせ、軍事力が政治的な資源(リソース)になることを阻み、風通しの良い自由な社会を実現しました。

 それは、戦後日本において、きわめて有効に機能した軍事力統制のメカニズムの、全部ではないにしても不可欠のピースをなしていたはずなのです。それが、自衛隊の正統性を正面から認めようという今回の提案によって、すべて一気に立ち消えてしまうということになります。

自衛隊は憲法上、無政府状態に置かれる

石川 こうやってみてくると、安倍提案は安全で無難な提案なのではなくて、その逆で最も危険な提案です。政治的に反論しにくい「クセ球」を投げてきた、とみる向きもあるようですが、端的に危険球、ビーンボールなのです。

 あらゆる統治作用に法的ないし政治的なコントロールがあるのが、立憲主義的な憲法であり、その仕組みのおおもとをなすのが、軍事力をコントロールするメカニズムです。けれども、5月3日の安倍提案では、9条の形骸こそ残るものの、軍事力のコントロールが2層・3層ともに一挙に消し飛び、自衛隊は、憲法上、無統制状態におかれます。

 あらゆる統治作用のなかで最も強力な軍事作用について、憲法上のコントロールを全廃するという極めて危険な提案が、こともなげになされているという事実に戦慄(せんりつ)を覚えざるを得ません。日本の安全保障をめぐっては、いろいろな意見があるでしょうが、安倍提案の空恐ろしさについては、立場の対立を超えて、理解を共有して欲しいと思います。

 もっとも、安倍さんは他方で、それに代えて「シビリアン・コントロールの条文を入れたい」みたいなこともおっしゃっているようですから、具体化の段階で今後どうなるかはまだわかりません。何が何でも、どこかの憲法条文を変えたという実績を残すことが、自己目的になっているようですから。

 しかし、5月3日の段階で、自衛隊に対する憲法上のコントロールがゼロになってしまうような、こんなズサンな入れ知恵に乗っかって「提案」を出してきたという事実は消えません。コントロールの不在を気にしない、あるいはそれに気づかない鈍感さでは、9条をいじる資格がない、というべきではないでしょうか。

「国際憲法」的規定のあり方

石川 以上のような議論については、意外の感をもたれるかもしれません。私たちのまわりでは、何かというと9条を安全保障の問題に結びつけて、「9条で果たして日本を守れるのか」なんて議論がなされたりするわけですから。しかし、まず、その思い込みを排除する必要があります。

 各国で別個独立に制定される憲法が、対外的な相手のある話であるにもかかわらず、国際関係がらみの規定を一方的に備えることはよくあります。9条はその1つですが、22条1項のような「営業の自由」条項も、対外的には自由貿易主義の根拠規定としての意味をもつことがあります。2012年の自民党改憲草案は、明らかにTPP(環太平洋経済連携協定)を視野に入れて、現行の22条1項における「公共の福祉に反しない限り」という、保護貿易主義的限定になりかねない文言を削除していました。

日本国憲法
 第二十二条  何人も、公共の福祉に反しない限り、居住、移転及び職業選択の自由を有する。
 2  何人も、外国に移住し、又は国籍を離脱する自由を侵されない。
  ◆自民党 日本国憲法改正草案
  第二十二条 何人も、居住、移転及び職業選択の自由を有する。
 2 全て国民は、外国に移住し、又は国籍を離脱する自由を有する。

石川 自由貿易主義はあくまで貿易相手国との協調によって成り立ち、たとえばアメリカがTPPを離脱してしまうようなことになれば、意味がなくなるにもかかわらず、とりあえず日本の側から一方的にTPPへの参加を歌い上げておこう、ということなのでしょう。

 そうした国内法における「国際憲法」的規定のなかには、国際法と国内法との事実上の相互作用のなかで、ある種のトレンドになって各国とも軌を一にして現れる場合もあります。たとえば宣戦に関する規律のように、当初はフランスの国内憲法的規律であったものが、やがて国際社会に普及して国際法となる、という例も出てきます。

 けれども、9条が世界の(少なくとも東アジア世界の)トレンドになるまでの間は、たとえば北東アジアの安全保障環境は、9条だけで答えが出せる性質のものではもともとないわけで、結局のところ、国際関係に相当程度依存するものです。9条によって枠づけられたオープンスペースのなかで、やりくりしてゆくほかはないわけです。9条というユートピアを掲げ続けることで、現状追随的な外交に歯止めをかけてきた側面は軽視されるべきではありませんが、これまでのところ平和が守られてきたのは、「パックス・アメリカーナ」のおかげだったという事実に、目をふさぐことはできないでしょう。

 だからといって、9条2項という軍縮ユートピアを掲げ続けることで、帝国主義や軍事的大国路線を明確に否定し、東アジア諸国の警戒心を解く一方で(いわゆる安心供与)、冷戦以降の米国追随的な外交にも一定の歯止めがかけられてきた側面は、軽視されるべきではないでしょう。日米同盟の強化ですべてを守れるのかといえば、その保証は何もありません。

 実際、安保法制によって名実ともに日米同盟を完成させれば、中国や北朝鮮に対する抑止力が発生するという触れ込みでしたが、当初から指摘されていた通り、そうした立法事実は存在しませんでした。彼らの動きは、かえって活発化しています。

 安倍政権の支持率が下降すると、必ず絶妙のタイミングで、北朝鮮からミサイルが寸止めの形で発射されてきます。敵対関係というよりはむしろ、お互いがお互いを必要とする、隠れた相互依存関係の存在すら感じられます。

 他方で、竹島や尖閣のような国境管理の問題についても、それまでの暗黙のルールを――前者の場合は韓国が、後者の場合は日本が――破ったことによって、対立が先鋭化しました。国民感情も大いに刺戟されているため、安保法制はシグナルとして弱すぎたようです。

 いずれにせよ、当面は、9条によって枠づけられたオープンスペースのなかで、外交・安全保障のリアリズムを追求してゆくほかはないわけです。国際社会の立憲化が進むまでの間、国家単位で現れざるを得ない「国際憲法」的な規定にとって、そうした矛盾は避けることのできない宿命です。

非軍事化された政治社会を維持してきたもの

石川健治さん石川健治さん

石川 これに対して、9条だけで、はっきり答えを出してきた問題があります。自由の問題です。

 まず、ながらく軍国主義に毒されてきた日本の政治社会を、非軍事化する、という積極的な問題があります。

 戦前の日本においては、立憲主義と君主主義と軍国主義と植民地主義とが分かちがたく結合しており、大正デモクラシー期は、そのなかで立憲主義が優勢になった、例外的な時代にすぎません。

 昭和戦前期以降は、立憲主義にかわって、軍国主義が主導権を握ります。これに対して日本国憲法が、君主主義・軍国主義・植民地主義を切り捨てたおかげで、初めて日本に立憲主義の確立期がやってきました。戦後70年もの間、立憲主義が維持されてきた、その秘訣がどこにあるのかを、もっと真面目に考えるべきです。

 戦前、皇室祭祀や神道式の儀礼によって演出されていた、軍事化された政治社会は、占領下において武装解除と神道指令と人間宣言によって解体され、自由の指令によって批判の自由が回復されて、すっかり風通しの良いものになりました。この非軍事化された政治社会を維持してきたのが、日本国憲法の1条(象徴天皇制)と20条・89条(政教分離)と21条(表現の自由)に加えて、市民的権力と軍事的権力を徹底的に分離した9条でした。

 なかでも、9条のいわば政軍分離が果たした役割は大きく、立憲主義が成立する前提条件を確保してきました。9条にみられる平和主義と立憲主義は、本来予定調和の関係になく、むしろ緊張関係にあることは先程も言及しましたが、日本の立憲主義については、平和主義なしにそれが成り立たなかったという、逆説的な関係が成立しています。

 これを裏側からみると、分離線の維持という観点からみた権力分立・権力統制の視点が、いわば最低ラインとして重要になります。軍事力の統制は、権力分立の主要問題です。それが、最終的には国民の自由をどうやって守るのか、という問題につながっていきます。9条論がもつ固有の強みは、実はここにおいて発揮されてきました。この部分を度外視した9条論議は、危険です。

安倍政権の体質は今後の改憲論議に強い不安を抱かせる

――都議会議員選挙の結果は衝撃的でした。自民党は歴史的敗北を喫し、これまで「安倍1強」として突出してきた首相の求心力にも揺らぎが見え始めています。自民党内からは「選挙結果は憲法改正の動きには影響しない」といった強気の発言も目立ちますが、これまで以上に慎重論を口にする議員も出てきています。

石川 安倍政権への批判のエネルギーを上手に吸収した小池都知事は、つくづく戦(いくさ)上手だと思います。その一方で、稲田防衛大臣の失言というよりも公職選挙法違反や、下村自民党都連会長の収賄疑惑など、そうした激しい選挙戦だったからこそ露呈した安倍政権の体質は、今後の改憲論議にあらためて強い不安を抱かせるものでした。

――具体的にはどういうことでしょうか?

石川 近代国家は、市民的権力から軍事的権力を分離し、他方で、そうした市民的権力から宗教的権力を分離することによって、はじめて成立しています。これは私が勝手に言っているのではなく、M・オーリウという、第三共和制フランスを代表する憲法学者による古典的な整理です。いわば政軍分離と政教分離ですね。そして、そのどちらにおいても安倍政権が問題を抱えていることの象徴的存在が、稲田さんでしょう。また、それだけに彼女を更迭することに、ためらいがあるわけです。

 最も深刻なのは、政と軍の分離が、あらゆる意味での軍事力統制の大前提であるということです。政・軍の分離がなければ、いわゆる文民(シビリアン)の優位――市民的権力の軍事的権力への優位――を保つことができず、文民の優位が保てなければ、文民統制(シビリアン・コントロール)――市民的権力による軍事的権力の統制――は成立しません。政と軍の分離を知らず、「○○候補(実名)を防衛省、自衛隊、防衛相、自民党としてもお願いしたい」などとおっしゃる防衛大臣に、文民統制は論理的に不可能です。

 この点で、文民統制を試みながらも、結局は市民的権力の体系が軍事的権力の体系に乗っ取られてしまったのが、明治憲法体制でした。そして、旧体制への反省から、日本国憲法は、市民的権力体系から軍事的権力体系を切り離すのみならず、切り捨てるという、一個の文明論的選択を行ったのでした。憲法9条は、政・軍の分離を前提に、それを徹底したものにほかなりません。

 もちろん、そうした9条の選択の是非を争うことは可能ですが、対案を出すためには、市民的権力と軍事的権力が制度的にも思想的にも分離されるという、近代国家の大前提が共有されていなくてはなりません。その意味で、安倍政権には9条改正を論ずる資格がないことが、見事に露呈されたというのが、今回の稲田問題の本質です。単なる失言としてかばいきれるものではありません。

 他方で、日本国憲法によって政教分離が徹底された日本的文脈としては、戦前における軍事的権力の優位(つまりは軍国主義)を演出する装置として、皇室の祭祀と神道式の儀礼が活用されたという事情があり、これを問題視したGHQ(連合国軍総司令部)の神道指令が、憲法の政教分離規定(20条、89条)の歴史的前提になっていることも、忘れてはならないでしょう。

森友学園問題で浮上した教育勅語

 これに対して、70年代に靖国神社を再度国営化することをめざした政治的闘争の流れが、現在も尾を引いています。靖国神社への公式参拝問題がそうであることは、いうまでもありませんが、森友学園の問題に関連して浮上した教育勅語の問題も、この点に関連しています。

 教育勅語を事実上起草した井上毅(いのうえ・こわし)は、誰からも批判されないよう、当時の感覚では当たり障りのない最大公約数の道徳に、立憲主義や法治主義まで盛り込み(「常ニ國憲ヲ重シ國法ニ遵ヒ」)、しかも、国家は私人の内心には立ち入らないという、近代国家における「分離」の建前に配慮して、国務大臣が副署した正式の公文書としてではなく、あえて天皇の私的な著作として公表する形をとりました。

 結果的にはこれが裏目に出て、井上毅の文章を天皇直筆として皆が盲目的にありがたがり、神道式の儀礼ともども軍国主義を演出する一助として機能することになってしまったのですが。だからこそ、戦後の非軍事化とともに日本の政治社会を出入り禁止になった何系統かの言説のなかに、教育勅語や軍人勅諭が含まれていたわけです。

 こうしたデリケートな問題について、国会答弁で教育勅語の内容を是認する見解を述べたのも稲田防衛大臣でしたが、これを不問に付した内閣の姿勢自体に問題がありました。安倍政権における政教分離と政軍分離の緩和が、森友問題を契機とした教育勅語論議を呼び込むことになったわけです。それは、安倍晋三首相の思想信条にかかわりますので当然といえば当然ですが、結果的には、近代的な国家の二本柱ともいうべき政軍の分離と政教の分離がともに成立しないというのでは、まっとうな憲法論議にはなりようがないわけです。

より本質的な病巣に起因する問題

石川健治さん石川健治さん

――「政権の闇」の部分とも指摘される森友問題や加計問題は改めてどうとらえていますか?

石川 それぞれの問題の真相がどうであるかはわかりません。ただ、近代国家をはしる分離線・境界線が、長期政権の下で曖昧になってきているという、より本質的な病巣に起因していることは間違いなさそうです。

 先に言及したオーリウの分析によれば、軍事的権力や宗教的権力から分離して成立した市民的権力は、まず、その内部において立法・司法・行政などの複数の権力に分離されなくてはなりません。さらに、そうした政治的権力と経済的権力の分離、いわば政権と金権の分離が要請される一方で、公共生活と私生活が分離されることで、公私の境界線が維持され、市民の私的生活の自由が確保されるのです。

 ところが、内閣総理大臣が自ら「立法府の長である」と連呼してみたり、金権をもつお友達との深い交流で公私が混同されたりする現状は、ここでも分離線・境界線が曖昧になり、近代国家としての前提条件が失われかけている兆候だと受け止めるべきでしょう。下村自民党都連会長のスキャンダルについても、事件の真相はさておき、都議選において厳しい審判が下りましたが、政権と金権の分離が日常的に曖昧になりつつある証左ではあったでしょう。

近代立憲国家の必要条件が随所で決壊の危機に

石川 安倍政権に対して「権力の私物化」とか「家産国家化」とかの批判がなされるのは、つまるところ、近代立憲国家の必要条件である各種の分離線・境界線が、随所で決壊の危機に瀕しているという「緊急事態」を指摘しておられるのだと思います。

 そうしたなかで、9条改正論議を通じて、すべての根幹をなす政・軍の分離線を決壊させれば、取り返しがつかないことになるでしょう。「安倍政権のもとでは憲法改正に反対する」という野党側の主張には、私にとってもわかりにくい党利党略のにおいがするのは事実ですが、それ自体として憲法理論上の裏付けがあると思います。

 改憲派の原動力は、もとをただせば、政治社会の非軍事化の過程で排除された側の人々です。彼らが、日本国憲法を敵視し打倒を目論むのはある意味当然ですし、日本国憲法を罵倒(ばとう)する自由を憲法は保障しています。

 しかし、日本国憲法を敵視するあまり、戦後の政治社会を構造的に支える諸条項――佐藤幸治教授のいう「土台そのもの」――が改憲のターゲットとなり、天皇の元首化や政教分離の緩和に加えて、9条規範の緩和や廃止が求められることになりました。これでは、立憲主義そのものが押し流されてしまいます。

 一般に、言説の構造は対抗言説の構造によって規定されますから、日本国憲法への敵意のあまり、立憲主義それ自体を押し流しかねない改憲派の論理構造が、そうした立憲主義の破壊に対抗する言説の論理構造を「護憲派」として規定することとなり、戦後の憲法論議を著しく不毛なものにしてきたわけです。

 そうした議論の構造を脱却し、生産的な憲法論議が成立するためには、まず改憲派の側から変わってもらう必要がありますが、残念ながら戦後70年経っても、改憲派の原動力には変化が見られません。むしろ、それまで排除されていた「憲法の敵」の言説が、新しく成立したネット空間を通じて公共空間に還流することで、未知の「新鮮な」世界観として支持者を増やす傾向すらみられるようですね。

 こうなってくると、非軍事化されて風通しの良くなった、自由な政治社会を今後も維持するためには、9条論議は1つの踏ん張りどころ、ということになります。もうしばらくの間、立憲主義者は、憲法が「不磨の大典」化する不毛に耐えて、「護憲派」として振る舞う必要がありそうです。

 ただ、善としての平和の成立可能性を追究する倫理的な平和主義は、偉大な思想的営みですが、特定の倫理的平和主義に国家がコミットすると、世界観的に無色透明な国家を要請する立憲主義と衝突してしまいます。政教を分離してあらゆる世界観に中立的な国家をつくるとともに、公私の境界線を厳格に維持することによって、個々人の信仰や世界観の自由を護るのが、立憲主義の要請だからです。

 他方で、同じく平和目的を掲げながら、そのための手段として戦争を辞さない、いわば帝国主義的平和主義に対しては、倫理的な平和主義だけでは、これを防ぐための具体的な手立てをもちません。極東の平和のために正義の戦争を行っている、というのが、戦前の帝国日本における有力なプロパガンダだったのですから。

 それだけに、法学的平和主義ともいうべき、立憲主義の平面に投影された限りでの平和主義が、さしあたり憲法学者にとっての守備範囲だと思います。先ほども申しましたように、9条は、護憲派であれ改憲派であれ、平和主義と安全保障の文脈においてのみ議論の対象とされ、ごく普通の立憲主義の平面でとらえることが行われてきませんでした。非武装平和の理念よりは随分と志の低い議論にはなりますが、9条に基づく政治社会の非軍事化のもとで、はじめて公私の境界線が確保され、個人の尊重と生命・自由・幸福追求権(13条)が護られてきたことを、もっと真面目に考えるべきだと思います。憲法学者が、法学者として警鐘を鳴らさなくてはならないのは、しばしば影に隠れがちな、この戦線における危機です。

 非武装平和の是非は、反原発の是非と同様、われわれは今後いかなる文明を生きるべきかという文明論的選択であって、思想としての立憲主義や専門知としての憲法学によって答えを出すことはできないと、私は考えます。しかし、いったん非武装平和が選択されたのなら、そのユートピアニズムの枠内で、国際政治のリアリズムを追求する。憲法学なら、立憲主義との両立可能性を、追求する。それが専門知というものでしょう。それは、仮に反原発を選択したとしても、エネルギー問題が一挙解決するわけではなく、将来の原発全停止をにらみつつ、その枠内でエネルギー問題をやりくりしてゆくことになるのと、同様です。

安倍首相の提案はクーデターの一環だ

石川健治さん石川健治さん

――石川さんは、2014年7月1日の集団的自衛権行使を容認する閣議決定に向かう過程や、15年9月に参議院で可決した安全保障関連法制の成立過程で、「近代の立憲国家は憲法による自己拘束でできているが、安倍政権は自らを縛っているルールを自らの手で改正して進んでいる」とか「7月1日の閣議決定は、法学的意味でのクーデターだ」と発言されました。あのときの一連の動きが「クーデター」だったということになると、今回の「安倍改憲」提案の動きをどう呼びますか?

石川 いや、それはクーデターの続きであり、その一環にほかなりません。

 クーデターというのは、憲法上超えてはならない一線を時の政権が超えてしまったことについての、法論理的な表現です。同じことを心理的に説明すると、自己拘束を破ったと表現することになる。心理的な説明の方が、ひょっとするとわかりやすいのかもしれませんね。

 義務づけの力すなわち拘束力の観点からみれば、神であれ親であれ教師であれ、他から言われていやいや従っている他律よりも、自分で進んで自分を縛る自律の方が強いというのが、哲学者のカントの指摘です。近代になって発見された道徳である自律とは、自分の自分に対する義務づけ、すなわち自己拘束であるがゆえに、最高の道徳だというのですね。自律=自己拘束よりも強い道徳はあり得ない、ということです。

 近代における立憲主義は、主権的存在つまり至高の存在であるはずの国家が、それにもかかわらず自分を縛ることによって成立しています。国家が主権的な地位を獲得した近代において、本来、国民を奴隷のように従わせることもできる実力を、国家はもっています。また、主権的な国家は、元来、法に従う理由をもちません。より上位の法や権威に他律的に従わなければならないのなら、定義上、その時点で主権的な地位を降りなくてはなりませんからね。

 それだけに、主権的な国家が主権性を失わないまま憲法に従っているというのは、自ら進んで自分を義務づけた自己拘束としか説明できない、矛盾に充ちた事態です。憲法というのは、国家法の一種でありながら、国家が国家を名宛人にする、自己拘束規範であるところに特徴があります。憲法は、「国家権力を縛る法」だといわれることがあるのは、そういうことです。法典形式で書かれていると、なかなか普通の法律と区別がつきにくいですが。

自己拘束だからこそ簡単に破ってはならない

石川 そうすると、近代主権国家が自分でつくった憲法なら、次の瞬間にも破って捨ててしまっても問題がなさそうにも思われる。しかし、それをしてはならないのは、最も拘束力の強い自己拘束だからこそだ、というわけです。近代立憲主義の秘訣は、自己拘束にある、というのが、心理的な説明です。天皇機関説事件で有名な美濃部達吉などは、この説明に従っていた世代の先生です。

 かねて、政府の法解釈というのは、政府が出した解釈なのだから、政府自らが変えてしまえば良いのだ、という暴論があり、安倍首相は早くからこの暴論の信者であるようでした。たしかに、政府見解は、憲法自体とは違って、見るからに自己拘束規範であるわけで、自分が自分を縛っているだけのことではあります。

 しかし、拘束力の観点からいえば、自己拘束だからこそ、簡単に破ってはならないのです。カントに言わせれば、これ以上に拘束力の強い義務づけはありません。純粋に自律的な規範を破るような政府は、ほかのどんな規範をも、やすやす破ってしまうだろう。いったんタガが緩んでしまったら、元には戻せないということです。そのことに、安倍首相はまったく気づいておられなかった。

 ましてや、9条に関する政府見解は、元々自己拘束規範である憲法の根幹部分である9条について、政府が進んで従った自己拘束規範であるわけですから、政府がいったんこれを破ってしまえば、ほかのどんな義務づけにも従わなくなってしまうだろう。それでは取り返しがつかないことになる、というふうな心理的な説明をすれば、多くの人にわかってもらえるのではないか、というのが私の最初のアイディアでした。

「安倍1強」の原点

石川 実際、安倍政権の「驕(おご)り」とか「緩み」とかいわれる現象は、すべてここから始まったのです。安倍1強の原点は、2014年7月1日の閣議決定だといってよいでしょう。それまでは、それなりに強力な異論を放つ政治家は多くはないにしても党内に目立っていたのですが、これ以降は孤立感を深めておられたのではないですか。

 このように、心理的にいえば、自己拘束ほど立憲主義の特徴を的確に言い当てている説明はないと思うのですが、それが単なる自己拘束にとどまる限り、内面的な道徳規範でしかなく、外部的な「法」の説明としては不足があります。

 そこで、他律的な意思命題としての「命令」と、自律的意思命題としての「意図」との中間に存する、「約束」という意思命題のカテゴリーを利用する、という手も試みました。約束行為それ自体は自律的でも、約束命題には名宛人が想定されており、「約束」の存続は名宛人の意思次第であるところに、単なる自律的な「意図」との違いがある。

 ここに注目した説明には、9条やそれに関する政府見解が、単なる自己拘束規範ではなく、将来の国民や諸外国(戦勝国とりわけアメリカや、日本の最大版図に含まれるアジア諸国)に対する約束規範であることを明らかにできる、というメリットがあります。政府で決めたことだから、政府が変えて何が悪い、という暴論は、ますます成り立たなくなります。この議論は、約束の名宛人たる「将来の日本国民」や「アジア諸国」には、まったく通用しませんからね。安保法制でついに同盟関係を完成させるアメリカだけは、歓迎するでしょうが。

 ただし、その場合にも、約束自体の拘束力は自己拘束から出ていることに変わりはなく、自分の自分に対する義務づけというのは、自己言及的な論理という点で、論理学的には大きな問題を抱えています。

自己言及を避けるためには根拠を外部化するしかない

石川 自己言及を避けるためには、根拠を外部化するほかありません。そこで、憲法とは別に、その論理的前提となる根本規範というものを外部に想定することによって、自己拘束論の論理的弱点を回避する人々も出てきます。

 憲法は、根本規範によって授権された憲法制定権者が制定した法規範であって、内面的な自己拘束規範ではない、というわけです。たしかに、これで、憲法そのものに関する論理的な説明は完成します。けれども、憲法の根拠とされる根本規範は、それではどこからやって来たのか、という別の難点を抱えることにもなります。

 この考え方からすれば、体制変動は、根本規範の移動によって説明されます。いわゆる法学的意味での革命ですね。法学のメガネをかけて観察する限り、物理力の行使とそれに伴う流血も、政治的な策謀も経済秩序の変動も、人間臭い愛憎劇もすべてが消え失せて、法秩序の切断という現象が見えてくる。それ以外のものが映っていたとすれば、それは法学のメガネとしては不純なのです。そして、新しい憲法は、移動した根本規範によって新たに憲法制定権を授権された者によって、制定されたと説明されることになります。

革命とクーデター

石川 それに、革命といっても、実際には、既存の王宮を政府の建物として再利用するのと同様に、旧体制下の法律をほとんどそのまま使いまわすのが通例です。世の中はほとんど何も変わらないのです。

 しかし、それでも、一夜にして体制が変動したと言い得るのは、同じ建物や法律であっても、意味づけが根柢から変更されたと解されるからです。それを、根本規範の移動として表現する。根本規範は、憲法をはじめとするさまざまなレベルの法規範を照らし出す、光源のようなものです。光源が移動すれば、それまでとは法秩序の見え方が一変する。法秩序の連続性が失われるのです。

 そういうことであれば、一夜にして体制が変動することも、あり得るでしょうね。肝心なのは結局、法秩序の連続性が切断されるかどうか、だということです。それを、根本規範の移動として、説明するのです。こういう説明は、美濃部達吉の弟子世代の憲法学を席捲(せっけん)したものです。

 そうした法秩序の連続性の破壊行為(いわゆる「法の破砕」)を、広い意味で革命と呼ぶとして、さらに、それが下から起こる場合と上から起こる場合とで区別することができます。前者が、狭い意味での革命であり、上からの革命である後者はクーデターということになります。革命とクーデターの区別は、実は美濃部達吉も同様ですが、ここで私が念頭においているのは、弟子世代に影響を与えた、ウィーン学派の用語法です。

会員制のインターネットテレビで発言

石川 こういう理屈っぽい説明はウケないかな、と思って控えていたのですが、2013年の96条改正論と2014年7月1日の閣議決定を通貫する、「法の破砕」という、安倍政権の恐るべき首尾一貫性を浮き彫りにできる利点があるので、2015年6月16日に収録した緊急インタビュー(雑誌『世界』2015年8月号所収)のなかで、立憲・対・非立憲の話に添えて、クーデター論に少し言及しました。6月6日に立憲デモクラシーの会が主催した「立憲主義の危機」シンポジウムを承けてのオファーでしたので、その折に私がお話した佐々木惣一の『立憲非立憲』の話や、文部省が戦後に出した副読本『民主主義』に出てくる有名な「ホトトギスの卵」の説などが、むしろ話の中心だったのですけれども。

 1週間後、6月24日に立憲デモクラシーの会が声明を出した折に行った記者会見でも、反応はどんなものかなと思って、クーデター論を試みてみたのですが、その頃は記者の皆さんの目が「時の人」長谷部恭男さんに向けられていて、反響はゼロでした。やっぱりわかりにくい話だったかと思って納得していたところ、無事発売された『世界』をお読みになって、木村草太君の携帯電話を借りて直接私に電話をしてきたのが、ジャーナリストの神保哲生さんでした。

 なんでも、ビデオニュース・ドットコムとかいう会員制のインターネットテレビで、ホトトギスの卵とか立憲非立憲とか、『世界』でやった議論を話してみてくれないか、とのこと。クローズドなメディアならまあいいか、ということで、目黒のマンションの一室にある狭いスタジオで、神保さんや宮台真司さんとダベって帰ってきたところ、翌日のヤフー・ニュースで国内2位に急進して、コメント欄もトロ火で燃えておりまして(笑)、あれ会員制じゃなかったの、聴いてないよ、という話で。私は、SNSも見ませんし、ビデオ・ニュースがヤフーと連動しているとはつゆ知らず……。

http://www.videonews.com/marugeki-talk/745/

 安倍首相が、7月の3連休にあわせるように新国立競技場計画を白紙撤回してみせ、衆議院における強行採決に対する国民の怒りから、話題をそらそうとして結局失敗し、内閣支持率は下がり続けたのですが、それには、私が連休中トロ火で燃え続けたことも、多少は役にたったのかもしれません。

 それからは、いろんな方がクーデターと言ってくれないか、と物欲しげにやってこられるようになり、強行採決への怒りから、国会における法案の成立をクーデターだと曲解してみたり、私がそう主張しているという誤解に基づいて、あれやこれやいう人も現れたりして、困ったものだなとは思いました。政治戦というのは、そういうものなのかもしれませんが。

 要するに、政府が超えてはいけない一線を2014年7月1日に無理矢理に超えてしまった結果、根本規範の移動によらなければ説明できない「法の破砕」が起こり、それまで保たれていた法秩序の連続性が断たれてしまった、という話です。「戦後レジームからの脱却」を企てる安倍さんらしい所業です。

 そこからは、安保法制も含めて、クーデターを法制上定着させてゆくプロセスになります。「成功した革命」「勝利を博した簒奪者」は、やがて合法的な国家権力になる。ただ、成功するまでは、固まらないんですよ。衆議院のアベノミクス解散、安保法制成立後の参議院選挙など、いくつも巻き返しのチャンスがあったのですが、残念ながら定着に向かっています。それをいよいよ憲法上も定着させよう、というのが、5月3日の改憲提案だということになるでしょう。

国民に「革命」をそそのかし、うまくいかないと「クーデター」に切り替える

石川 当初安倍首相が唱えた、憲法改正の手続きを定めた96条改正というのは、こういう角度からみると、「国民に憲法を取り戻す」というレトリックで、実は、国民に(法学的意味での)革命をそそのかしていたということになります。

 憲法改正の手続き規範は、憲法改正が効力を発生する条件になっているから、当該改正よりも上位の規範になります。すると、同じ憲法典に並べられた条文のなかでも、憲法改正手続きの規定は、他の条文に比べて、頭一つ抜け出していることがわかります。安倍さんは、本丸の9条を攻める前の搦め手として、96条改正論を考えておられたふしがありましたが、9条改正よりも96条改正の方が、遥かに城壁が高いのです。

 2013年の憲法記念日に、と請われて、朝日新聞のオピニオン欄で書いたのは、そういう話です(「96条改正という『革命』」)。

 私の同級生も含む、心ある与党政治家を名宛人として、乾坤一擲というつもりで書いたのですが、見出しは、もっぱら朝日の一般読者を激しく煽(あお)るものになっていました。私は書斎派の学者で、こういうものを余り書いたことがなかったので、当時は、自民党政治家が朝日を読まないとか、よく知らなかったんですよ(笑)。

 改正手続き規定は、硬性憲法の場合、法律改正よりもかなり高いハードルを用意しますが、そもそも「特定の条文について改正しない」という規定も、改正手続き規定の一種です。

 旧憲法73条では、天皇が憲法改正を発議し、それを帝国議会で審議するものとされていました。審議に際しては、衆議院・貴族院それぞれにおいて「総員」の3分の2以上の出席がなければ議事を開くことができず、さらに「出席議員」の3分の2以上の多数を得なければ改正の議決ができないものとされていました。

 これに対して、日本国憲法96条1項は、発議権を天皇から国会に移しました。このあたりが、新憲法になって、国会が「国権の最高機関」(41条)になったんだな、ということを感じさせます。そして、国会が「総議員」の3分の2によって発議するものとする一方、特別の国民投票もしくは国会の定める選挙の際行われる投票にかけて、過半数の賛成を要するものとしています。天皇と帝国議会の関係が、国会と「国民」の関係に、横滑りしたわけです。

 この改正手続きは、日本国憲法の制定とは手続きが全然違いますので(早い話が憲法制定時には国民投票は行われなかった)、厳密には憲法と憲法改正とでは法形式が異なり、現憲法9条を憲法改正9条が当然に変更する関係にはありません。が、96条2項により、天皇が国民の名で「この憲法と一体を成すものとして」公布するとされています。安倍提案の9条3項が国民投票で過半数の承認を得られれば、無事に憲法上の規定になるということです。

安倍政権は憲法秩序を構造的に破壊しようとしていた

石川健治さん石川健治さん

石川 9条改正の場合の特殊事情として、9条が日本国憲法のアイデンティティーであり、それを変えたら日本国憲法が日本国憲法でなくなってしまう、という問題があります。

 9条の本質的内容を改正する行為は、内容的にいって、日本国憲法それ自体を革命的に変更する行為であり、憲法の自殺行為だから許されないのではないか、という考え方です。

 これは「憲法改正の限界」と呼ばれる議論で、ここを超えたら日本国憲法が壊れてしまいますから、法秩序の連続性が切断されます。これ自体が、法学的意味では、「革命」です。

 しかし、あくまで9条は、形式的には96条よりも下位規範であり、96条による改正対象に入っていますし、ましてや今回の安倍提案のように3項(もしくは9条の2)を増設するだけの改正は、96条によりさえすれば、可能でしょう。私も、危険な附随的効果をもたらすといっているだけで、憲法改正の限界内であることは否定できません。

 ところが、(96条以外の)憲法条文の改正手続きを定める96条は、それ以外のヒラの憲法条文よりも、形式上は上位の規範です。他方で、96条そのものについて、別途改正手続きを定める規定は存在していないので、96条よりも上位の規範は存在していません。

 要するに、96条は、日本国憲法の制定権者が定めた憲法秩序の要であり、憲法条文のなかの最高峰であるわけです。改正手続き規範を攻撃しようとした安倍政権は、実は最高峰を攻めていたのであり、憲法秩序を構造的に破壊しようとしていたのです。

 その際には、96条の手続きを借りても借りなくても、法秩序の連続性が切断されることには変わりありません。同じやるなら96条によるのが政治的には便宜でしょうが、96条を使っても、96条を使わずに衆参合同で新憲法制定会議みたいなものを開いて96条を変更しても、何をしても、96条改正が「革命」であることに違いはないのです。

 また、この場合、96条が憲法改正のハードルとして高すぎるか否かは、関係がありません。プレイヤーが自らのよって立つ「ゲームのルール」を壊そうとしていることに変わりはなく、ハードルを上げるにせよ下げるにせよ、憲法の改正手続きの改正は、法学的意味での「革命」なしに実現しない、おおごとなのです(「革命」の成就は、彼らに憲法制定権を授権する、根本規範の存在によって説明される必要があります)。

ポピュリズム的なレトリックでそそのかす

石川 したがって、安倍政権は、「憲法を国民に取り戻す」というポピュリズム的なレトリックで、「国民」(正確には96条と国民投票法によって構成される有権者)に対して、「革命」を起こすよう、そそのかしていた、ということになります。

 世論調査における「国民」の反応が悪く、国会における発議の流れもつくれないとなると、安倍政権は、今度は踵(きびす)を返して「国民」に背を向け、国民投票にも衆議院解散にも訴えずに、閣議決定だけで9条の本質的内容を変更しようとした。これが2015年7月1日の出来事です。1年前の「憲法を国民に取り戻す」は、憲法を破壊したいがための、とんでもない嘘言・甘言であったことが明らかになりました。

 同盟政策の別名である集団的自衛権について、その行使を容認してしまえば、9条の本質的内容であるはずの、集団的安全保障への全面的なコミットメント(逆からいえば、日独伊三国同盟であれ日米同盟であれ、一切の同盟政策の禁止)を、名実ともに最終的に廃棄することになってしまいます。これでは9条の本質的内容の侵害であり、ひいては日本国憲法の同一性を左右することになりかねません。それを、一切国民に問うことなく、閣議決定だけで遂行するのは、それだけで上からの革命であり、法学的意味のクーデターですが、さらに手続き面においてもクーデターに相当する疑いがあります。

安倍政権の体質―「恐るべき一貫性」とは

石川 先にも述べたように、「変更しない」というのは、変更手続きの一つの形です。本来、全員一致で意思決定を変更できるはずの内閣が、集団的自衛権の行使については、一切行わないという意思を再三にわたって表明してきたのであり、この点については「変更しない」というルールが定着していたのではないか、とも思われるわけです。必ずしも9条に思い入れが深いとは思われない方も含めて、歴代の内閣法制局長官OBが解釈変更にこぞって反対した、という事実は、それを裏付けているのではないか。

 この点、憲法が定める通常の法律改正手続き(A)とは違う改正手続きの規定(B)をもつ法律がある場合に、Bは当該法律のその他の規定よりも上位であるばかりでなく、BがAに反して違憲だという理由がない限り、BはA(つまり憲法上の改正ルール)を補充している法だと考えられます。

 それと同様に、憲法が想定する内閣の意思形成の変更手続き(C)――明文の規定はありませんが、全員一致による変更を想定していると、考えられてきた――とは違う変更手続き(D)を定める意思形成が行われた場合にも、Dは当該意思形成よりも上位であるばかりでなく、DがCに反して違憲だという理由がない限り、DはC(つまり憲法上の変更ルール)を補充している法だと考えられます。

 要するに、集団的自衛権に関する政府解釈を「変更しない」というルールは、96条と同様に改正ルールの一種であり、しかも内閣の意思形成に関する憲法補充的なルールになっていた可能性がある。

 そして、およそ法規範というものには、このような上位規範としての改正ルール――「過半数で改正」、「3分の2で改正」、「全員一致で改正」、「将来にわたって改正しない」等々――が備わっていて、この改正ルール全般が、憲法・法律その他、あらゆる国家行為の構成条件になっていることに注意していただきたいと思います。

 この、自らの権力のよって立つ法的基盤になっている、改正手続き規定そのものへの攻撃という点で、96条改正論と7月1日の閣議決定は、相似形を描いており、この恐るべき一貫性こそが、安倍政権の体質だといってよいのではないでしょうか。

 おそらくは無自覚のうちに、立憲主義そのものを攻撃し続け、法的な拘束から自由な専制権力を一貫してめざしている。「9条変えるな」とは違う水準で、護憲派も改憲派も結集した「立憲デモクラシーの会」の戦線は、ここにあったのではないかと、私は考えています。

2人のナポレオンとクーデター

石川 「クーデター」という場合に、なんとなく2・26事件みたいなものを連想する人が多いのですが、20世紀初頭の憲法学にとって一番大事なクーデターっていうのは、2人のナポレオンなんですよ。ナポレオン1世とナポレオン3世。おじとおいの関係にある、この2人です。

 この場合、それぞれが、もうすでに権力を掌握していたのに、その上を目指した、というのがポイントです。例えば、ナポレオン3世の場合、すでに大統領だったわけです。その大統領がクーデターを起こして、最後は皇帝にまで上りつめた。おじさんの場合の「ブリュメール18日」のクーデターも、同様ですが。これが、実は19世紀末から20世紀初頭にかけての、典型的なクーデターとして認識されていたわけで、すでに政権を掌握した安倍さんが、さらに強いところに行こうとしているというところを、私は「法学的意味におけるクーデター」と表現しようとしていたというわけです。

――なるほど。

石川 そこを誤解している人が多いようですね。例えばナポレオン3世の場合は、選挙で大統領に選ばれて、その大統領の権力を掌握したまま、まずクーデターを起こして第二共和制を打倒し、つぎに新憲法を制定して大統領の任期を延ばそうとした。そして、ついに、人民投票に訴えることによって、皇帝の座に上りつめるわけなんですよね。

 ナポレオン3世は、その後も、社会政策をどんどん行い、プレビシットと呼ばれる人民投票によって、そのつど支持を集めながら、皇帝の地位を維持していった。まあ、そういう点でいうとですね、まず安倍さんも自民党総裁の任期を延ばしましたよね(笑)。

 だから、マルクスが『ルイ・ボナパルトのブリュメール18日』という名作に書いたような、ああいうことが、憲法学がもともと想定していたクーデターだったわけです。そして、法学のメガネをかけて、ナポレオン3世の即位を見たときに見えてくるのが、上からの革命すなわち法秩序の連続性の切断であり、法学的な意味でのクーデターだったというお話です。(続く)

(撮影:吉永考宏)