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[2]議院内閣制の問題点が鮮明に表れた安倍政治

権力融合の原理が働き、政治が劣化した

山口二郎 法政大学法学部教授(政治学)

注)この立憲デモクラシー講座の原稿は、2017年1月13日に早稲田大学で行われたものをベースに、講演者が加筆修正したものです。

立憲デモクラシーの会ホームページ

http://constitutionaldemocracyjapan.tumblr.com/

 

講演する山口二郎教授

世界的な政治の劣化は日本から始まった

 次に、安倍政権が発足して4年あまり経った日本の現状について、ちょっと見ておきたいと思います。先ほど、2016年は民主政治の危機のはじまりだと言いましたけれども、世界的に共通している政治の劣化という現象は、実は日本から始まったと私は思います。2012年の第2次安倍政権の発足以降、まず日本の政治が劣化し、それと同じようなパターンの現象がアメリカやヨーロッパで広がっている。直接的な因果関係はなかなか見つからないのですけが、同期、シンクロナイズしているということが言えるわけですね。

「アベ化」とは何か

 私はそういう政治の劣化を「アベ化」と呼んでいます。アベ化とは何か。一つは、自己愛が極めて強い幼児的リーダーが、権力を握って好き放題をするということですね。自己愛というのが一つのキーワードです。自分は常に正しい、美しいと信じて疑わない。結構、子どもっぽい人物がなぜか権力の頂点に立つということです。

 二つ目の特徴は、自己愛の裏返しとして、このようなリーダーは批判や攻撃に対して極めて不寛容であり、敵対的になるという現象です。これはトランプのいろんな言動を見ればわかりますよね。メリル・ストリープがゴールデングローブ賞の授賞式のときにトランプの障害者をからかうしぐさを批判した。それに対して、早速ツイッターで反撃をする。アメリカの大統領のすることじゃないと我々は思いますが、ご本人はそういう一切の批判を聞き捨てることはできないというわけです。

 そして三つ目の特徴、これはpost-truthですけども、自分を批判する敵対者を攻撃する際、うそ、偽り、デマをためらわない。ありとあらゆる手段を使って敵を攻撃するということですね。さらに、自分の主張がうそであるということがばれても、全然恥ずかしいと思わないというところに特徴がある。このpost-truthというのは、言い換えれば、事実と虚構の区別ができない反知性主義だということができます。つまり主観的にこうあってほしいなと思うのと、客観的に物事はこうであるということの区別がつかない。これは日本における、ネトウヨ、あるいは保守的な政治家の大きな特徴ですけれども、日本だけの現象ではないということになるわけですね。

公的な世界を安倍カラー一色で塗りつぶす

講演する山口二郎教授
 もう一つ、安倍政治というのは、権力の過剰という、いままでの自民党政治にない特徴を持っています。これももういろんな人がすでに指摘しているところですけれども、公的な世界を安倍カラー一色で塗りつぶす。ここまで徹底的に塗りつぶすことに意欲を持つ政治家というのは、長い自民党の歴史のなかでもいなかったと私は思います。

 2年前の安保法制のときに、内閣法制局を首相がコントロールして、憲法解釈の変更を認めさせたという事件がありましたが、そういうのもやっぱり、いままでの政治家にはないやり方です。つまり政党政治の世界というものと、それから政党が触っちゃいけない中立的、あるいは専門的な世界というものの「のり」と言いましょうか、垣根というものが、昔は存在していたわけです。例えば中曽根さんや小泉さんのように大きな権力を振るおうとした政治家も、そののりは越えなかった。ところが安倍首相はそののりを越えているわけですね。

 それで、人事権を徹底的に使う。法制局の人事、あるいはNHK関係の人事、さらに中央官庁の幹部職員ですね。次官とか審議官とかのポストについても、いまは官邸主導で行われている。人事というものが権力の源泉であるということができます。それから批判する者を忌み嫌うということでいえば、批判的言論を圧殺する。とりわけメディアと学問が攻撃の対象であるというわけですね。

 安倍政治というのは、明示的に禁止されていないことは何をやってもよいというような開き直りという特徴を持っています。つまり、書かれざるルール、あるいはみんなが共有している常識とか暗黙の了解とか、慣習といったものは、この政権には全く無意味であるということができるわけです。

安倍政治と議院内閣制

 こういう権力の過剰がなぜ起こったのかということについて、少し制度的な面から説明をしておきたいと思います。いまの安倍政治というのは議院内閣制の持っている問題点が非常に鮮明にというか明確に表れているということができます。議院内閣制というのはご承知のとおり、国会の多数派が内閣を掌握するという仕組みです。ですからこれは基本的に権力分立という原理とは結びつかない。議院内閣制というのは権力分立という原理とはなかなか両立しにくい仕組みであると言わなければなりません。

 19世紀のイギリスで活躍したウォルター・バジョットという評論家が「The English Constitution(英国憲政論)」という書物を残していますが、バジョットはその本のなかでイギリスの政府の仕組みについて、「権力の融合(Fusion of power)」という言葉で説明しています。内閣制度というのはずいぶん昔からあって、王様が自分を補佐するような人を首相に任命して、それとは全く別に議会が存在するというような古い時代であれば、そこでは国王の行政権と国民が選んだ議会、立法権というのが対決するという構図もありえたわけです。明治憲法下の政党内閣以前の内閣と議会の関係もそのような対抗関係でした。しかし、イギリスでは19世紀以降は議会の多数派が内閣を掌握するという議院内閣制が定着していきます。

 そうすると立法府の多数派が行政権を持つわけですから、与党を通して、立法と行政の二つの権力が融合する、結びつくことになります。それが近代的な議院内閣制の特徴であると言わなければなりません。理念として、議会が行政府をチェックする、牽制するということは確かに必要ではあります。そしていまの日本の憲法でも国政調査権とか、あるいは議員による立法、非常に重要な権能が国会に与えられているわけですね。しかしながら、国会でものごとを決めるときにはやっぱり多数決で決めるわけです。だから野党の議員が一生懸命頑張って、いい議員立法の案をつくっても、与党が嫌だと言ったら、それは絵に描いた餅で廃案になってしまいます。

国会が内閣にチェックを働かせるのは難しい

 国政調査権を発動して内閣のいろんな失敗や問題を追及しようと思っても、多数派である与党は内閣をかばうわけですからね。野党が「ここはおかしいぞ」とか言っても、「いや、問題ない」と言って、国政調査権の発動に反対すれば、やっぱり調査権は絵に描いた餅になるわけですね。というわけで、国会が内閣に対抗してチェックを働かせるということは非常に難しいわけです。与党が分裂するという例外的な事態にのみ、国会が内閣と対決するということは起こりうるわけですね。(この点は、森友、加計の2つの疑惑についても起こっている現象です。)

 何か私たち、子どもの頃から学校の社会科、政治経済なんかで、権力分立ということをずっと教えられてきて、やっぱり国会は内閣に対してチェックを働かすべきだということは教わってきたけれども、これはまさに建前、理念ですね。だけど実際には非常に難しい。やっぱり与党の政治家というのは内閣を支えるわけです。内閣を正当化するわけです。与党の政治家の主だった人たちは

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