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自衛隊明記改憲は政権与党にとっていばらの道だ

安倍首相の憲法9条改憲提案には「憲法を変えたい」という以上の何かが見えてこない

木村草太 首都大学東京教授(憲法学)

はじめに

北朝鮮のミサイル発射を受け、官邸で報道陣の取材に応じる安倍晋三首相=5月14日、首相官邸北朝鮮のミサイル発射を受け、官邸で報道陣の取材に応じる安倍晋三首相=5月14日、首相官邸

 今年5月3日の憲法記念日に、自民党の安倍晋三総裁は、「憲法9条1項・2項を維持しつつ、自衛隊の存在を明記する」との改憲提案を示した。私はこの提案は、あまりにも思慮に欠けたものと評価する。その理由は、のちに詳しく述べるが、その前に、お伝えしたいことが一つある。

 先日、「AbemaPrime」という番組に出演したとき、鈴木邦男氏のインタビューVTRに触れた。鈴木氏は、今後の憲法のあり方について聞かれ、「自衛隊を警察に」と提言した。自衛隊は、警察予備隊から始まり、保安隊、自衛隊と改組されてきた。この動きを逆にたどり、再び自衛隊を警察組織に戻すことを目指そうではないか、という。

 これは、単純に、「今すぐ自衛隊を解体しよう」というものではない。自衛隊を警察に戻せるような国際社会を作って行こうとする「攻めの外交提言」だと理解すべきだろう。

 戦力不保持を規定した憲法9条は、「日本は侵略に対し無防備でいろ」と要求しているわけではない。日本が非武装を選択できるような平和な国際社会の構築を目指す規定である。

 たしかに今は、平和な国際社会が実現するとは想像できないかもしれない。しかし、非武装を選択できる平和な国際社会とそうでない国際社会のどちらが良いかと問われれば、合理的な人なら誰でも「非武装を選択できる平和な国際社会」が良いと答えるだろう。

 目先の不安に煽(あお)られた浅薄な議論が飛び交う中、鈴木氏の提言は、憲法9条に示された日本外交究極の目標を思い起こさせる重要なものだ。

 憲法9条を論じる際には、「非武装を選択できる平和な国際社会の構築」という目標を取り下げることのないよう、心がけねばならない。

 それをふまえて、安倍総裁の改憲提案について考えてみたい。この発言の意味を正確に理解するには、武力行使に関する国際法と、日本国憲法、それに2015年制定の安保法制について正確に理解することが不可欠である。順に解説しよう。

一  前提となる国際法

 まず、議論の前提として、現代の国際法を整理しておこう。

 現代の国際法では、武力行使は原則として禁止される(国連憲章2条4項参照)。これは確立した国際法原則であり、「武力不行使原則」と呼ばれる。

 しかし、侵略国家が登場した場合にまでこの原則を貫くことは、被害国に酷である。そこで、その場合には、国連の安保理決議は、侵略を排除するための武力行使を認める決議を出せる(国連憲章42条)。

 この決議が出た場合、加盟国は、国連軍の軍事活動に参加したり、多国籍軍として武力行使を行ったりすることができる。このように、侵略に対しては国連を中心に国際社会全体で対応するのが、国際法の理念である。

 とはいえ、「国連が対応をとるまで被害国は侵略を甘受(かんじゅ)しろ」というのは、さすがに不合理である。各国の思惑がすれ違い、適切な安保理決議ができないこともあろう。このため、安保理決議が出るまでの間、各国には、個別的自衛権と集団的自衛権の行使が認められている(国連憲章51条)。

 個別的自衛権とは、被害国が、自国への武力攻撃を排除するために、必要最小限度の武力行使をする権利である。集団的自衛権とは、被害国から要請を受けた第三国が、被害国の防衛を援助するために、必要最小限度の武力行使を行う権利である。

 時折、「個別的自衛権と集団的自衛権を区別しているのは日本だけだ」などと言う人がいるが、そんなことはない。法的に概念が異なれば、その行使要件も当然異なる。

 集団的自衛権の行使には、被害国による「攻撃を受けた旨の表明」と「援助要請」が必要であることは、国際司法裁判所がニカラグア事件判決において示している(ただし、前者は、この事案特有のもので、「援助要請」があれば足りるとの判例解釈が有力とのことである)。この二つの概念をあいまいにしたまま武力行使すれば、国際法違反として深刻な事態を招く危険がある。

 以上の通り、現代の国際法では、武力不行使原則の例外が認められるのは、安保理決議・個別的自衛権・集団的自衛権に基づく三種類の武力行使だけとされる。

二  憲法9条の文言と2014・7・1閣議決定

 安保理決議に基づく武力行使や集団的自衛権の行使への参加は、あくまで権利であって、国連加盟国の義務ではない。このため、武力行使するための国内手続き、武力行使の限定のありよう、あるいは個々の事案において武力行使に参加するか否かなどは、各国の憲法や法律、政策的判断に委ねられる。

 実際、多くの国では、海外派兵に議会の承認手続きを必要としている。ある時期までのドイツ(西ドイツ)は、集団的自衛権の行使をNATO(北大西洋条約機構)域内に限定していた。

 このように、憲法などで、武力行使の範囲や手続きを限定するのは珍しいことではない。ただ、日本国憲法第9条は、諸外国に比べても、武力行使に厳しい規制をかけている。

【日本国憲法第9条】
1 日本国民は、正義と秩序を基調とする国際平和を誠実に希求し、国権の発動たる戦争と、武力による威嚇又は武力の行使は、国際紛争を解決する手段としては、永久にこれを放棄する。
2 前項の目的を達するため、陸海空軍その他の戦力は、これを保持しない。国の交戦権は、これを認めない。

 現状、この規定はどのように読まれているか。

 政府がまとまった解釈を示したものとして、2014年7月1日の閣議決定(以下、2014・7・1閣議決定)がある。この閣議決定は、それまでの政府解釈では認められていなかった集団的自衛権の行使を限定的に容認するものだったとされる。もっとも、憲法9条の解釈それ自体は、それまでの政府解釈を踏襲している。次の記述を見てみよう。

【政府の憲法9条解釈】

 憲法第9条はその文言からすると、①国際関係における「武力の行使」 を一切禁じているように見えるが、憲法前文で確認している②「国民の平和的生存権」や憲法第 13 条が「生命、自由及び幸福追求に対する国民の権利」は国政の上で最大の尊重を必要とする旨定めている趣旨を踏まえて考えると、憲法第9条が、我が国が自国の平和と安全を維持し、その存立を全うするために必要な自衛の措置を採ることを禁じているとは到底解されない。

 一方、この自衛の措置は、あくまで外国の武力攻撃によって国民の生命、自由及び幸福追求の権利が根底から覆されるという急迫、不正の事態に対処し、国民のこれらの権利を守るためのやむを得ない措置として初めて容認されるものであり、そのための必要最小限度の「武力の行使」は許容される。これが、③憲法第9条の下で例外的に許容される「武力の行使」について、以前から政府が一貫して表明してきた見解の根幹、いわば基本的な論理であり、昭和 47 年 10 月 14 日に参議院決算委員会に対し政府から提出された資料「集団的自衛権と憲法との関係」に明確に示されているところである。

 この基本的な論理は、憲法第9条の下では今後とも維持されなければならない。
(2014年7月1日閣議決定「国の存立を全うし、国民を守るための切れ目のない安全保障法制の整備について」より。丸数字、本文斜体は筆者による。)

 以下、現状の政府解釈を整理して行こう。

三  憲法9条自体の読み方

 ここでは、まず、①憲法9条の文言は、安保理決議や自衛権に根拠づけられる場合も含め、武力行使を「一切禁じているように見える」文言であることが確認される。

 一般的な理解によれば、憲法9条1項に言う「国際紛争を解決する」ための戦争・武力行使とは、1928年のパリ不戦条約に由来する文言で、自国が武力攻撃を受けていないにもかかわらず、外交上の紛争で自らの意見を押し通すために行う武力行使を言う。要するに、憲法9条1項が禁じるのは侵略のための戦争・武力行使・武力による威嚇である。

 憲法9条2項の「前項の目的を達するため」という文言からすると、侵略のために使わない軍や戦力であれば保有してもよいようにも読める(このように解するのが、いわゆる「芦田修正説」である)。

 しかし、日本国憲法には、軍事活動の権限や責任をどの機関に配分するかを定めた規定がまったく存在せず、軍を指揮・管理するときの手続きの規定もない。例えば、内閣の権限を定めた憲法73条には、行政や外交の権限・手続きの規定はあるが、軍の海外派兵の権限・手続きがまったく書いていない。軍を置くことを想定しているのだとすれば、こうした憲法の作りは相当に不自然である。

 憲法9条2項が、「侵略のための軍は持たない」とか、「国際紛争解決のための戦力は保持しない」と定めているのではなく、軍・戦力一般を保持しないとしていることからすれば、この条文は、外国に武力行使を行うための軍・戦力の保持を一切禁じていると理解すべきであろう。その結果として、自衛権の行使を含め一切の武力行使は許されない、と解されることになろう。これが、憲法学界の通説的な憲法9条の理解である。

 政府解釈も、憲法9条はあらゆる武力行使を禁じた文言に見えることに言及しており(①部分)、通説と同様の見解に立つものと言える。憲法9条についての政府解釈と憲法学界の通説は激しく対立すると言われることもあるが、憲法9条そのものの読み方に限っては、実は対立はほぼないと言ってよい。

四  憲法9条の下での例外的な武力行使

 もっとも、政府解釈は、ここでは終わるわけではなく、国民の平和的生存権を宣言した前文とともに、②憲法13条を引用する。

【日本国憲法第13条】
すべて国民は、個人として尊重される。生命、自由及び幸福追求に対する国民の権利については、公共の福祉に反しない限り、立法その他の国政の上で、最大の尊重を必要とする。

 日本国憲法13条は、国民の生命や自由への権利を最大限尊重することを求めている。外国からの侵略がある場合、政府が何の対応もとらず、国民の生命・自由が蹂躙(じゅうりん)されるのを放置すれば、国政の上でこれらの権について「最大の尊重」をしたとは到底言えないだろう。

 つまり、外国からの武力攻撃があった場合に、それを排除するための必要最小限度の武力行使を行うことは、政府が国民の生命・自由等を最大限尊重する義務(憲法13条)を果たすための行為として正当化できる。もっとも、これはあくまで、憲法第9条の下で③「例外的に許容される」武力行使と位置付けられる。

 学説の中には、憲法9条の例外は認められないとか、憲法13条では武力行使を正当化できないとして、自衛のための武力行使も許されないとする見解(自衛隊違憲説)がある。しかし、侵略による国民の生命・自由の侵害を放置せよとする見解は、憲法13条の文言や理念と相当な緊張関係にある。むしろ、9条の要請と13条の要請の調和の観点からすれば、政府解釈のこの点についての説明にも、十分な理由がある。

 こうした指摘に対して、自衛隊は「軍」・「戦力」ではないとする政府解釈は、文言の理解として不自然あるいは欺瞞(ぎまん)だと言う人もいる。たしかに、なんの根拠もなしに、「自衛隊は軍や戦力ではない」と言っているなら、批判を受けてもやむを得ないだろう。

 しかし、政府は、9条2項の文言だけを見てそのような解釈をしているわけではない。憲法9条と13条の関係を踏まえた上で、「憲法9条は憲法13条で正当化される武力行使を行うための実力の保有までも禁じたものとは言い難く、自衛のための必要最小限度の実力は同項に言う『戦力』に該当しない」という説明をしているわけである。こうした説明を不自然・欺瞞だと感じるかは、その評者の主観にすぎない。少なくとも憲法9条と13条の調和を考えるなら、十分に取り得る解釈論であろう。

 現在の自衛隊をめぐる論争は、自衛隊の装備や活動が「自衛のための必要最小限度の実力」を超えているのではないかをめぐる議論として理解すべきであろう。

五  集団的自衛権の可否

 従来の政府解釈は、憲法上、日本の外国に対する武力行使が正当化されるのは、外国が日本への武力攻撃に着手したと認められる事態(武力攻撃事態)に限られるとしていた。武力攻撃事態であれば、国際法上も、武力行使を個別的自衛権で正当化できる。

 他方、2014・7・1閣議決定は、日本への武力攻撃のみならず、日本と密接な関係にある他国に対する武力攻撃が発生し、これにより我が国の存立が脅かされ、国民の生命、自由及び幸福追求の権利が根底から覆される明白な危険がある事態(いわゆる存立危機事態)であれば、武力行使ができるとした。この場合の武力行使は、集団的自衛権が根拠となる場合もあるという。

 しかし、憲法13条は、あくまで国民の権利を尊重しろという規定であり、外国の防衛まで求めた規定ではない。このため、日本への武力攻撃がない事態の武力行使まで、憲法13条で根拠づけるのは無理だとする強い批判がある。

 また、存立危機事態の文言そのものは、日本と外国が同時に攻撃を受けている場合を指すと理解するのが自然である一方、政府は、ホルムズ海峡の封鎖など、日本への武力攻撃がない場合にまで適用できるとしている。筆者は、人によって理解が大きく分かれる状況になっていることに鑑み、「明確な解釈指針が示されない限り、存立危機事態の概念は曖昧(あいまい)不明確で、それを用いた憲法解釈や立法はあまりにも漠然としており無効」とする立場をとっている。

六  自衛隊明記改憲の選択肢

 さて、このような政府解釈を前提としたとき、憲法9条をそのまま残した上で、自衛隊の存在を明記する改憲を行うことはどのような意味を持つか。

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